【第3章】 第66話
【第3章】第66話 海が呼んでいる
浜辺にて、
ヴィクトルとレオンハルト二人。
波の音。
湿った潮風。
そして、
海の向こうから微かに感じる、
あの嫌な“圧”。
「あの干渉圧の中で戦えるようになってもらう」
ヴィクトルは、
眼鏡代わりのモノクルを押し上げながら言った。
「言葉では簡単に言うけどよー」
レオンハルトが、
げんなりした顔で砂浜へ座り込む。
「勿論だ。
こちらとしても擬似干渉圧を風魔法で構築しつつ、
お前の耐性能力をアップする補助魔法をかけるんだからな」
ヴィクトルは淡々と冊子をめくる。
「聞いてるだけで疲れそうだろう?」
「疲れるどころか死にそうなんだが?」
「安心しろ。
死ぬ寸前で止める」
「安心できる要素どこだよ!?」
ヴィクトルは無視した。
代わりに、
砂浜へ複数の術式板を並べ始める。
淡い緑光。
風属性魔法陣。
さらに、
干渉圧観測用の古代文字列まで混ざっていた。
「……おい」
レオンハルトが、
嫌な顔をする。
「お前、
ちょっと楽しんでねぇか?」
「研究者としては非常に興味深い状況だからな」
「否定しろよ!」
ヴィクトルは冊子を閉じる。
そして、
海を見た。
沖合。
霧。
見えているのに、
輪郭が定まらない海。
「あの圧は、
単純な魔力ではない」
ヴィクトルが静かに呟く。
「空間認識。
方向感覚。
感覚器官。
恐らくは精神領域にまで干渉している」
「……つまり?」
「慣れるしかない」
「雑!!」
その瞬間。
ごぉ…………
風が唸った。
ヴィクトルを中心に、
砂浜の空気が歪み始める。
「うおっ!?」
レオンハルトが目を見開いた。
視界が揺れる。
上下感覚がズレる。
耳鳴り。
まるで、
世界そのものが少しだけ傾いたような感覚。
「これが擬似干渉圧だ」
ヴィクトルは平然としていた。
「まずは立っていろ」
「いや無理無理無理——」
レオンハルトが叫ぶ。
⸻
その頃——
リオは、
船長を連れて漁船民たちの組合へと来ていた。
潮と酒と古い木材の匂い。
昼間だというのに、
組合の空気はどこか重い。
「何か気になることがあるのか?」
船長は、
隣を歩くリオへ視線を向けた。
「ああ。
今回の異常については、
なんとなくだが輪郭が見えてきている」
リオは壁に貼られた古い海図を眺めながら続ける。
「だが——
幽霊船については別問題だろう?」
「ああ?」船長の表情がこわばった。
「幽霊船の噂はもう何十年も前からあった。違うか?
僕は、ここのドワーフたちとも情報を共有している。じゃなきゃあんな規格外な船を寄越したりしない。あれは、海を戻してくれっていう賄賂なんだよ。ドワーフがここまでするんだから人間だって誠意ってもんを見せろよ?」
「…ふっ、見かけはガキだと思ったが、とんだ伏兵な訳だ?」
リオは、意味深に笑った。
「わかったよ。ちょいと昔話になるぜ?」
船長は、話が長くなると言いたいらしい。
「きっちりと聞かせてもらおうか?」
船長は、仲間内から年配の…既に漁師を引退した男を呼んだ。
「俺も又聞きだからな。この爺さんここの生き字引だ」
卓に船長と老人そしてリオがついた。
老人は、
深く刻まれた皺だらけの手で、
ゆっくりと酒瓶を傾けた。
琥珀色の液体が、
木の杯へ静かに落ちる。
周囲の漁師たちも、
いつの間にか口数を減らしている。
まるで、
この話題そのものを避けてきたように。
「……で?」
老人は、
細めた目でリオを見る。
「お前さんは、
どこまで知ってる?」
「鐘の音」
リオは即答した。
組合の空気が止まる。
「霧の日。
海から聞こえる鐘。
そして現れる“帰ってこない船”」
リオは、
卓へ肘をついた。
「違うか?」
老人はしばらく黙り込み——
やがて低く笑った。
「……船長。
こりゃ確かに伏兵だわ」
「だから言ったろ」
船長が肩を竦める。
老人は、
遠い海を見るような目になった。
「あれはな……
今から四十年以上前の話だ」
組合の窓の外で、
波の音が響く。
「まだこの辺りの海が、
今よりずっと豊かだった頃だ」
「ある日、
沖で霧が出た」
「別に珍しくもねぇ。
海じゃよくある事だ」
「だが——」
老人の声が少しだけ低くなる。
「その日は、
鐘が鳴った」
リオは黙って聞いている。
「沖に鐘なんざねぇ。
教会もねぇ。
だのに、
海の向こうから鐘の音だけが聞こえた」
カラン……
カラン……
老人は、
その音を思い出すように指先で卓を叩く。
「……その霧の中へ、
一隻の漁船が消えた」
組合の空気が、
さらに重くなる。
「乗っていたのは?」
リオが問う。
「七人だ」
老人は答えた。
「全員、
戻らなかった」
沈黙。
だが老人は、
そこで終わらなかった。
「——いや」
「正確には、
“一人だけ戻ってきた”」
その瞬間、
近くにいた若い漁師が露骨に顔をしかめた。
まるで、
聞きたくもない話を聞かされたように。
「戻ってきた男は、
三日後の朝に港へ現れた」
「だが、
様子がおかしかった」
老人の目が細くなる。
「身体は無事だ。
傷もねぇ」
「なのに——」
「自分の名前も、
家族の顔も、
何も覚えていなかった」
潮風が、
窓を軋ませる。
「ただ、
そいつはずっと——」
老人は、
かすれた声で言った。
「“海が呼んでる”って、
呟いてたよ」
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