【第5章】 第112話
【第5章】第112話 静かなる包囲網
王都、皇后宮の皇后陛下の私室。
部屋には、皇后ともう一人いた。
旅装束の短髪の若い男性。
「セルディン、これからどうするの?」
皇后は尋ねた。
男はセルディン。長い髪を切り、今にも出立する装いだ。
「力を削がれましたからね。少し蓄えの旅です」
「そう……またいずれ戻って来れる?」
「その時には、借りを返しましょう」
淡々とした声だったが、その言葉には確かな線引きがあった。
まるで、すべてが等価交換の上に成り立っているかのように。
「アレクシスが迷惑をかけたけど、私もまだ諦めてはいないわよ?」
皇后は爪を軽く弾きながら言った。
仕草一つに、貴族としての気品が滲む。
「わかっております。今回は私の甘さが招いた結果ですから」
「……そうね。私も前回のことを振り返って、もっと周りを見ようと思ったわ」
皇后の瞳には、ここにいない者たちの姿が一瞬よぎった。
「では、早々に去らせていただきます」
「どこへ?」
「……知らなくていいことです」
その一言で会話は終わった。
皇后はそれ以上踏み込まない。
代わりに、静かに息を吐く。
「力がなくなったわけじゃないのよね。真理の役杖と同じで、教皇は何か施しているのかしら」
独り言のように呟きながら、皇后は手をかざした。
転移魔法。
かつて、亡き叔母から教わった術式。
氷魔法に秀でた、優秀な魔法使いだった。
もうこの世にはいない。
その記憶を一瞬だけ胸の奥に沈めると、セルディンの姿は静かに空間から消えた。
皇后宮に残るのは、わずかな魔力の余韻だけだった。
――
魔法庁。
この国を支える三権の一角。
魔法と古代遺物の管理・研究を担い、王家の権威を技術面から支える巨大組織である。
その長官室に、グレアム・シュバルツとヴィクトルの姿があった。
長官マシュー・ウォットンは、二人の向かいで書類を軽く叩いた。
「お疲れさん。どうだ、王には会えたか?」
「会えはしたが、うまく交わされたよ。年齢的にも“親が出しゃばるな”と釘を刺された」
グレアムが肩をすくめる。
「アレクシスは、あくまで手順を守るからなぁ」
マシューは苦笑する。
「厄介さで言えば、皇后陛下以上だろう」
その言葉に、室内の空気が少しだけ重くなる。
「魔法庁にも早々に釘を刺してきた王子だ。動けば必ず筋は通してくる」
ヴィクトルは拳を握りしめたまま黙っていた。
大事な妹が追い詰められている。
それを理解しているのに、手が出せない。
「ヴィクトル、お前が遺跡調査隊に所属していることも、クラリス嬢が魔法庁の研究協力者であることも把握済みだ」
「……やっぱりか」
奥歯を噛む音がわずかに響いた。
「何を要求してきた?」
グレアムが問う。
「表向きは協力依頼だ」
マシューは肩をすくめる。
「クラリス嬢の研究資料と成果を王宮へ共有してほしい、と」
「断ったのか?」
「断れるわけがないだろう。王家からの正式要請だ」
言葉とは裏腹に、マシューの表情には明確な不満があった。
「もっとも、提出可能なものはすでに提出済みだ。新規調査の予定はないと返しておいた」
ヴィクトルは腕を組む。
「要するに監視か」
「そういうことだ」
静かな応接室に重苦しい沈黙が落ちる。
アレクシスは、力で奪う王ではない。
正規の手順を踏み、
法を逸脱せず、
誰にも反論の余地を与えず、
対象だけを静かに追い詰める。
だからこそ厄介だった。
グレアムが小さく息を吐く。
「クラリス本人は、どう思っているんだろうな」
その一言で、空気がさらに沈む。
誰も答えられなかった。
まだ、誰も本人の本心を聞いていない。
聞く機会すら与えられていないのだ。
「俺は知っている」
ヴィクトルがぽつりと呟いた。
視線が集まる。
「妹は昔から変わらない」
幼い頃の記憶がよぎる。
本を抱え庭を走り回り、
屋敷を抜け出しては叱られ、
未知に触れるたび目を輝かせていた少女。
「王宮の鳥籠に、大人しく収まるような奴じゃない」
その言葉に、グレアムは小さく笑った。
昨夜、エマが語った言葉と同じだったからだ。
「なるほどな」
マシューも苦笑する。
「シュバルツ家は、考えることまで似ているらしい」
「接触するか?」
グレアムが問う。
「リオを通せば話くらいは行ける。だが、その後は?」
そこにいない人物の名が自然に出る。
マシューはそれを咎めない。
すでに彼らの中では、それが“現実的な手段”として成立していた。
グレアムは椅子に深く腰を沈める。
「シュバルツ家は、岐路に立たされているな」
沈黙。
誰もすぐには続けなかった。
やがてグレアムが、わざと軽く笑う。
「酒でも出してくれよ、マシュー」
だがその声には、どこか乾いた響きが混じっていた。
部屋の空気は、まだ重いままだった。
そして誰も口にはしなかった。
――今、最も追い詰められているのが
クラリス本人だという事実を。
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