【第5章】 第111話
【第5章】第111話 狂った盤面
街道。
馬車は王都からの追手を、どうにか振り切っていた。
ようやく、静けさが戻る。
「通った……」
真琴が小さく息を吐いた。
「通れたね」
フィオナも続く。
張り詰めていた空気が、一気に緩む。
「フィオナってスィーツ食べてるだけの人じゃなかったわ」
真琴の何気ない一言に、フィオナの頬がふくらんだ。
「真琴、それは誤解です」
「お疲れ!緊張した後のチョコレート、美味しいよ」
アリアが笑いながら差し出したのは、小さなチョコレートだった。
「ズルい!アリアさぁん!」
フィオナは頬をふくらませたまま、それを受け取る。
甘い香りが、緊張の残り香を溶かしていく。
手綱を握るレオンハルトにも、水筒が手渡された。
「ほら」
アリアの声。
レオンハルトは片手で受け取り、一口飲む。
そのまま、口に放り込まれたチョコレートを噛んだ。
「……助かる」
短い一言。
それだけで、ようやく全員が“生きている側”に戻ってきた気がした。
⸻
近衛騎士団は、王都に戻ってきた。
王宮。
第一王子アレクシスの執務室には、重い沈黙が落ちていた。
報告を終えた近衛騎士は、膝をついたまま動けない。
「……通した、というのか」
アレクシスの声は静かだった。
感情の色がない分、逆に冷たい。
「はい。聖女フィオナ殿が前に立ち、団長が判断を……」
「判断?」
その一言で空気がわずかに揺れた。
アレクシスは書類から視線を上げる。
「私の命令よりも優先される“判断”とは何だ」
誰も答えない。
彼はゆっくりとペンを置いた。
「近衛騎士団は、王家の命令系統にある」
「それは理解しているな?」
「は、はい……!」
騎士の声が上ずる。
アレクシスは小さく息を吐いた。
怒りではない。
だが、確実に“計算が狂った”ことを理解している呼吸だった。
「聖女フィオナ……」
その名を口にした瞬間だけ、わずかに温度が変わる。
「彼女がそこにいた、というだけで判断が変わったのか」
再び沈黙。
やがて、低く続く。
「……ならば問題は二つだ」
指が机を軽く叩く。
「一つ。近衛騎士団の忠誠心の揺らぎ」
「もう一つ」
視線が鋭くなる。
「聖女一人の存在で作戦が崩れる“構造”そのものだ」
報告室の空気が凍る。
アレクシスは立ち上がることなく、静かに告げた。
「感情で動いたのではない。合理で崩れた」
「ならば修正すればいいだけだ」
その言葉は怒号よりも重かった。
「……聖女フィオナ」
アレクシスはその名を静かに反芻した。
「想定外ではない。だが、厄介だな」
ペンが机の上で止まる。
「彼女がいる限り、単純な追跡では意味をなさない」
淡々とした声だった。
怒りではない。
“修正”の宣言に近い。
「聖女一人で崩れる程度の作戦なら、最初から欠陥だ」
アレクシスは視線を上げる。
「次は、そうならない形にする」
それだけ言って、報告書を閉じた。
しん、と執務室が静まり返る。
アレクシスはゆっくりと立ち上がった。
「……準備を」
低い声が落ちる。
近衛騎士が一斉に姿勢を正した。
「神殿へ向かう」
王家の紋章を前に、神殿は基本的に拒否できない。
ただし、その中でも例外はある。
“封じられた情報と人間”
その一つに、かつて神殿に属し、今は記録から消えかけた男がいる。
セルディン。
アレクシスはその名を思い出していた。
(フィオナを知る数少ない記録者)
カツン、と靴音が鳴る。
神殿へ向かう道は、地上の光から遠ざかるほど冷えていく。
石畳の階段を降りる音が、規則正しく響いた。
カツーン、カツーン……
神殿の地下深く。
そこは、神殿の意向に背いた者――
あるいは“王家の判断に触れた存在”を封じる場所。
光の届かない階層。
空気が変わる。
アレクシスは歩みを止めなかった。
「記録を確認する」
それだけを告げる。
⸻
地下牢の壁から鎖が伸び、両手が吊るされた状態の拘束。
「お前がセルディンか」
皇后宮ですれ違ったことがある。
端正な顔立ちで皇后宮のメイド達が騒いでいた記憶がある。
地下牢に繋がれた男は、声に僅かに反応した。
「顔を上げろ」
アレクシスの声に従者が男の顔を上げた。
「なっ!こいつはセルディンではないぞ」
その声に反応するように
男の頭を掴んだ瞬間、不自然に貼り付いていた髪がずるりと剥がれ落ちた。
男の舌は抜かれていた。
弁明も証言も出来ないようにしたのか
「これはどういうことだ?」
地下牢を管理していたであろう門番がおろおろ狼狽えている。
「お前か?お前が手配したのか?」
問い詰められ、石畳に頭を擦り合わせて土下座する。
「知りません。今、初めて…」
門番は、従者に羽交締めされて顔を強制的に上げられた。
「私は、教皇の所に行く。セルディンの行方を調べろ」
アレクシスは、従者にそう告げて、階上に足を向けた。
だか、『いつ、どこで、どうやって…』
セルディンの行方は何一つわからなかったのである。
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