【第5章】 第105話
【第5章】第105話 静かに歪むものたち
珈琲の香りがまだ舌に残っているまま、真琴はふと手を止めた。
「……ねぇ」
何気ない声だったが、空気が少しだけ変わる。
「さっきの話なんだけどさ」
神殿の司法。
真理の役杖。
罪を“測る”魔道具。
あれは裁くというより、どこか“固定する”仕組みに近い。
(状態を……確定させてる?)
真琴はスプーンを指先で回しながら、視線を落とした。
「ねぇフィオナ、あの“真理の役杖”ってさ」
「うん?」
「水晶竜の力と、ちょっと似てない?」
その瞬間、空気がわずかに止まる。
レオンハルトが眉をひそめる。
「水晶竜?」
真琴の頭の中で、一本の線が繋がった。
――状態を観測し、固定し、ズレを修正する存在。
それは魔法というより、“構造そのものの調整”。
(……遺跡だ)
真琴は小さく息を吐く。
「古代遺跡、もう一回見に行った方がいいかも」
(リオがいないのが、少し引っかかる)
今夜会えれば確認できる。
無理なら、遺跡で直接確かめるしかない。
どちらにしても、もう一度あの神域に踏み込む必要がある。
今度は“恐怖”じゃなく、“観測”として。
レオンハルトとフィオナは顔を見合わせ、小さく頷いた。
「俺たちで出来ることなんて、たかが知れてるしな」
レオンハルトが肩をすくめる。
「いいぜ。古代遺跡、もう一度行こう」
フィオナも静かに続いた。
「今度はちゃんと、見落としがないようにね」
真琴はゆっくりと珈琲を飲み干し、小さく息を吐く。
(……やっぱり、もう一度あそこだ)
あの遺跡はただの遺跡じゃない。
水晶竜と、この世界の“仕組み”が重なっている気がする。
真琴は静かにスプーンを置いた。
「じゃあ決まりだね」
⸻
その頃、王宮の図書館執務室では——
クラリスは一人、机に向かっていた。
静かなはずの空間なのに、心だけが落ち着かない。
(仕事に集中したいだけなのに……)
魔石ペンのスイッチは切ったまま。
通知音もないはずなのに、妙に静けさが重い。
「……私も退職願い、出した方がいいのかしら」
ぽつりと呟いた、その時だった。
コンコン、と扉がノックされる。
「失礼します」
入ってきたのは、第一王女だった。
「クラリス、お邪魔しますね」
「これは第一王女殿下、ご機嫌麗しく」
反射的に、王家としての礼が出る。
だが王女はすぐに首を横に振った。
「今はその堅いの、いりません」
その言葉に、クラリスは少しだけ肩の力を抜く。
このやり取りは、すでに何度かあった。
(以前よりは、少しだけ話しやすくなったはずなのに)
それでも今日の王女は、いつもと違っていた。
言葉を選びながら、視線をクラリスへ向ける。
「……話は、聞きました」
「クラリスは……」
そこで一度、言葉が止まる。
机に向かうその姿を見て、王女はようやく理解する。
(これは……疲れている、という種類じゃない)
“諦める前の顔”だ。
まだ崩れてはいない。
でも、時間の問題に見える。
クラリスは静かに視線を落としたまま、何も言わなかった。
⸻
王女は、クラリスの部屋を出て廊下を歩いていた。
(……やっぱり)
先ほどの表情が、頭から離れない。
仕事に追われている、という顔ではない。
何かを抱え込んだまま、出口を失っている顔だった。
廊下の窓に、自分の姿がうっすらと映る。
(私は……何を見たのかしら)
王家の第一王女。
立場としては恵まれている。
それは間違いない。
けれど今の彼女には、その言葉は少しだけ遠い。
(クラリスは……あのまま、王家に入るの?)
それは形式としては正しい。
政治としても合理的だ。
なのに、どこか引っかかる。
言葉にならない違和感だけが、胸の奥に残っていた。
王女は足を止める。
(……私、また“何か”を見てしまったのね)
だが、それが何なのかはまだ分からない。
分からないまま、ただ静かに廊下の奥へと歩き出した。
⸻
その頃、王宮の最上階。
王は一人、窓の外を見ていた。
王都は静かだ。
静かすぎるほどに。
(……また、動き始めているな)
机の上には、いくつかの報告書。
そのどれもが「問題」ではなく、「兆候」だった。
王は軽く目を閉じる。
かつてこの国が戦乱に揺れた時。
彼は剣ではなく、内政で国を支えた。
その隣には、まだ“彼女”がいた。
——救われたのは国だけではない。
だからこそ。
(今の私は、正しいのか)
皇后を責めることはできない。
あの時、彼女がいなければ国は持たなかった。
だが同時に、消えた前王妃の事実もある。
その全てを知りながら、王は今ここにいる。
(英雄のままでいられなかった王は……ただの飾りか)
窓に映る自分は、もう昔のように鋭くはない。
それでも——
王は静かに目を開いた。
(まだ、終わってはいない)
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