【第3章】 第63話
【第3章】第63話 見るな
干渉圧
海に浮かび上がった“あるもの”へ向けて、
ルクレッツィアは静かに右手を伸ばした。
黒い指先。
そこから、
じわりと赤黒い魔力が滲み出していく。
⸻
「出来るわ」
ルクレッツィアは微笑む。
「お父様の干渉圧から逃げてきた程度の魔物なんて」
その瞳には、
一切の恐れがなかった。
むしろ。
自分たちの領域へ入り込んできた異物を、
踏み潰そうとする愉悦すらある。
⸻
血の楔。
ルクレッツィアが得意とする侵食術式。
対象内部へ干渉圧を打ち込み、
内側から存在そのものを支配し、
圧壊させる。
空間。
精神。
肉体。
どれほど巨大であろうと関係ない。
“内側へ届けば終わり”。
それが、
ルクレッツィアの力だった。
⸻
「さあ——」
彼女が指先を動かそうとした。
その瞬間。
——海が、戦慄いた。
⸻
ゴォォォォン!!!!!!
今までとは比較にならない鐘の音。
違う。
これは鐘ではない。
悲鳴だ。
深海そのものが、
絶叫している。
⸻
同時に。
ルクレッツィアの背後に広がっていた黒い影が、
一瞬だけ大きく揺らいだ。
「……っ?」
初めて。
ルクレッツィアの表情から、
余裕が消える。
海ではない。
あの怪異でもない。
もっと別の“何か”が反応した。
⸻
そして。
頭の内側へ、
直接声が響く。
『——ルクレッツィアよ』
低い。
重い。
世界そのものへ圧をかけるような声。
『我が、そちに命令したか?』
⸻
空気が止まった。
否。
世界そのものが、
一瞬だけ沈み込んだ。
ルクレッツィアの呼吸が止まる。
身体が、
本能的に硬直した。
⸻
「——お父様」
その声音だけは、
僅かに震えていた。
⸻
海が揺れる。
深海の怪異が、
まるで怯えるように後退する。
いや。
海そのものが、
“圧”から逃げようとしていた。
⸻
『余計な刺激を与えるな』
声は静かだった。
だが。
その一言だけで、
空間に無数の亀裂が走る。
ルクレッツィアですら、
無意識に膝をつきかけるほどの干渉圧。
⸻
『まだ、整っておらぬ』
⸻
その言葉を聞いた瞬間。
ルクレッツィアは理解した。
——お父様は。
この深海の怪異すら、
“盤面の一部”として見ている。
排除対象ではない。
利用対象。
観測対象。
あるいは。
まだ完成していない、
何かの素材。
⸻
ルクレッツィアは、
ゆっくりと手を下ろした。
唇を噛む。
悔しい。
理解できない。
気持ち悪い。
だが。
逆らえない。
⸻
海の奥。
巨大な影が、
ゆっくりと蠢いた。
そして。
その“目”のようなものが、
一瞬だけルクレッツィアの方を向く。
⸻
ぞわり。
生まれて初めて。
ルクレッツィアは、
自分が“観測された”感覚を覚えた。
⸻
『見るな』
再び、
お父様の声が響く。
その瞬間。
深海の影が、
ゆっくりと海中へ沈み始めた。
まるで。
それ以上の接触を、
双方が避けたかのように。
⸻
海は、凪いだ。
それは、
誰かが助けてくれたわけでもない。
怪異を鎮めてくれたわけでもない。
ただ。
互いが、
“まだ触れる段階ではない”と判断した。
それだけだった。
⸻
ルクレッツィアの姿も、
いつの間にか消えている。
残されたのは、
静かすぎる海と、
肌へまとわりつくような不快な余韻だけだった。
⸻
「……今回は、
まだラッキーだったと思おうぜ」
レオンハルトが、
無理やり軽口を叩く。
その声で、
張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。
フィオナが、
深く息を吐く。
クラリスも、
ようやく肩の力を抜いた。
だが。
真琴だけは、
海から視線を逸らせなかった。
まるで。
今もまだ、
“向こう側”から見られている気がした。
⸻
「セラフィナ」
真琴が静かに口を開く。
「貴方たちのお父様って……
あんなにヤバいの?」
⸻
セラフィナは、
凪いだ海を真っ直ぐ見つめていた。
その表情は、
どこまでも静かだった。
「……はい」
返事は短い。
感情も、
ほとんど乗っていない。
⸻
「お父様は、
世界を壊したいわけではありません」
⸻
「ですが」
セラフィナは続ける。
「必要なら、
壊す事を躊躇しない方です」
⸻
潮風が吹く。
静かな海。
だが今はもう、
誰一人として、
その海を“普通”だとは思えなかった。
⸻
「そして」
セラフィナが小さく呟く。
「娘だからといって、
特別扱いされる事もありません」
⸻
その瞬間。
ルクレッツィアの、
ほんの僅かに揺れた表情が、
真琴の脳裏を過った。
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