【第3章】 第62話

【第3章】第62話 深海からの呼び声

エルシオン島に渡ってから、
真琴たちは幾つかの情報を得ていた。

一つ。

ヴィクトルとクラリスの両親、
グレアム・シュバルツとエマ・シュバルツと
無事に合流できたこと。

二つ。

この海域そのものに、
何らかの異変が起きていること。

そして三つ。

海底から響く“鐘の音”。

それは単なる自然現象ではなく、
深海からの“呼び声”である可能性。



「まあ、現時点では、
まだ断片情報ばっかりだけどね」

リオが肩をすくめる。

「でも、繋がってはいる。
全部」

真琴は静かに海の方を見た。

潮風は冷たい。

だが、
その奥にある“何か”だけは、
妙に生々しく感じる。



「ところでリオ。
“潮騒の魔女”の情報は?」

真琴が話題を切り替えた。

「あー……
街の噂レベルなら少し」

リオは頭を掻きながら答える。

「沖へ出た船。
そこから戻ってきた漁師や船員が、
まるで魂を抜かれたみたいになるらしい」

「魂を……」

フィオナが小さく眉を寄せた。

「それだけじゃない」

リオの声色が少しだけ真面目になる。

「中には、
身体が石みたいに固まり始めた奴もいたとか」



「石のように……か」

ヴィクトルが低く呟く。

その言葉に、
クラリスも静かに視線を伏せた。

二人にとって、
それは他人事ではない。

水晶竜の領域から帰還した両親もまた、
少しずつ身体が結晶化している。



改めて。

父——
グレアム・シュバルツ。

母——
エマ・シュバルツ。

二人は古代遺跡研究の第一人者であり、
そして現在、
“世界の異常”に最も近づいてしまった人間でもあった。



「お母様」

クラリスが静かに口を開く。

「今回の目的であるヒュドラですが……
もし魔石を入手できた場合、
その後はどうされるおつもりですか?」

「それは……」

エマは言葉に詰まった。

ほんの僅かな沈黙。

その空気を壊すように、
リオが先に口を挟む。

「まさか、
また水晶竜のところへ戻るとか
言わないよね?」

「……」

エマは答えない。

代わりに、
グレアムが低い声で口を開いた。

「だが、
ヒュドラの情報は、
水晶竜自らが残したものだ」

「だから?」

リオが即座に返す。

「いやぁ……
あいつ、
絶対“全部”は話してない顔してたし」



沈黙。

潮風だけが、
静かに吹き抜ける。



「情報を小出しにして、
こちらを誘導する」

真琴がぽつりと言った。

「それ、
上位存在がよくやるやつなのよね」

「嫌な言い方しますね真琴様……」

フィオナが少し引いた顔をする。

「だって事実でしょう?」

真琴は即答した。

「必要最低限だけ与えて、
こちらに選ばせる」

「しかも、
選択した時点で
向こうの盤面に乗ってるパターン」

「うわぁ……
真琴が急にメタ視点になった」

リオが笑う。

だが。

誰も、
否定は出来なかった。



——ゴォン……

その瞬間。

再び。

深海の底から響くような、
重い鐘の音が鳴った。

空気が震える。

海面が、
僅かに揺らいだ。

そして。

真琴の視界に、
大量の魔法ログが開く。

ぴこん。

ぴこん。

ぴこん。

【深海干渉反応 検知】

【観測外領域との接続 発生】

【警告:
“呼び声”への同期率上昇中】



「……来る」

真琴が呟いた。

その声だけが、
やけに静かだった。



ゴォォーン……

鐘の音は、
今度は先程よりも遥かに大きかった。

真琴は、
反射的にその音の方向へ視線を向ける。

その瞬間だった。

——海が、競り上がった。

「……っ!?」

誰かが息を呑む。

目の前の海面が、
まるで意思を持つように、
ゆっくりと上へ持ち上がっていく。

波ではない。

海そのものが、
空へ向かって引き上げられている。

まるで、
巨大な“水のドレス”を引きずるように。



「やばい!!」

真っ先に叫んだのは船長だった。

「あれは津波になるぞ!!」

怒号のような声が響く。

「全員、高台へ走れ!!
港から離れろ!!」

その場にいた船員たちが、
一斉に周囲へ叫び始めた。

港にいた人々も、
異常事態を察して悲鳴を上げる。

荷物を捨てる者。

子供を抱える者。

転びながら走る者。

港全体が、
一瞬で混乱に飲み込まれていく。



ぴこん。

【超大型海域変動 検知】

ぴこん。

【深海領域 一時浮上反応】

ぴこん。

【警告:
“観測対象”接近中】



「……観測対象?」

真琴の顔色が変わる。

そのログだけ、
明らかに今までと違っていた。

まるで。

“何か”が、
こちらを見返してきたような——



ゴォォーン……

鐘の音が、
さらに深く響く。

それは、
耳で聞こえる音ではなかった。

骨。

血流。

肺の奥。

身体の内側で、
巨大な鐘が鳴っている。

「……っ」

フィオナが胸元を押さえた。

「これは……祈りでは、受け止めきれません」

「フィオナ、無理するな」

レオンハルトがすぐに支える。

その横で、
ヴィクトルは海を睨みつけていた。

「海が……浮いている?」

「違います、お兄様」

クラリスが震える声で言った。

「海が上がっているのではありません」

彼女は、
持ち上がる海面の奥を見つめる。

「何かが、
海を押し上げているのです」



ぴこん。

【深海領域 浮上理由 推定】

ぴこん。

【高次干渉圧 増大】

ぴこん。

【深海側反応:
回避行動/縄張り移動】



「……回避?」

真琴がログを読み上げる。

「縄張り移動……?」

その言葉に、
リオの表情が変わった。

普段の軽さが、
完全に消える。

「待って」

リオは海を見たまま、
低く言った。

「これ、
こっちを襲いに来てるんじゃない」

「どういう意味だ?」

ヴィクトルが聞く。

リオは、
持ち上がる海の奥を見据えたまま答えた。

「逃げてきてる」



その場の空気が、
一瞬で凍った。

「逃げて……?」

クラリスが呟く。

「何からですか?」

リオは答えなかった。

代わりに、
真琴のログが答えを出す。

ぴこん。

【干渉圧 識別不能】

ぴこん。

【外部侵食因子 類似反応あり】

ぴこん。

【推定:
“お父様”由来干渉圧】



「……お父様」

真琴の声が、
低く沈んだ。

セラフィナ。

ルナミナ。

ルクレッツィア。

その背後にいる存在。

世界を、
盤面ごと押し潰してくるような干渉圧。

それを避けるために、
深海の何かが浮上してきた。

つまり。

この海の異変は、
単なる怪物の出現ではない。

世界の奥底にいたものが、
居場所を失い始めているということだった。



ゴォォーン……

鐘の音が鳴る。

だが、
今度の音は少し違って聞こえた。

呼び声。

威嚇。

警告。

あるいは。

助けを求める声。

いや、
それさえ人間側の勝手な解釈なのかもしれない。

それは、
人を助けに来たのではない。

人を滅ぼしに来たのでもない。

ただ。

深海にいたものが、
そこにいられなくなった。

その結果、
海が歪んでいる。

それだけだった。



「……最悪」

真琴が小さく呟く。

「敵意がある方が、
まだわかりやすいのに」

「真琴様?」

「これ、
こっちを見てない」

真琴は海を睨んだ。

「私たちを狙ってるんじゃない。
ただ、存在してるだけで周囲が壊れてる」



その時。

持ち上がった海の奥に、
黒い影が見えた。

島。

そう思った。

だが違う。

その影は、
ゆっくりと動いた。

あまりに大きすぎて、
最初は地形にしか見えなかった。

そして。

その影の一部が、
瞬きをした。

「……目?」

誰かが呟いた。

違う。

あれが目なら、
大きすぎる。

だが、
確かに何かがこちら側を向いた。

見ているのか。

見ていないのか。

それすら、
わからない。



同じ頃。

遠く離れた場所で、
ルクレッツィアはふと足を止めた。

黒と真紅のドレスの裾が、
静かに揺れる。

「……何?」

彼女は、
海の方角へ視線を向けた。

その唇から、
笑みが消える。

空気が、
みしりと軋んだ。

「お父様の領域に……
何が入り込んでいるの?」

声は静かだった。

だが、
そこには明確な嫌悪があった。

怒りではない。

警戒でもない。

もっと本能的な、
拒絶。

「気持ち悪い」

ルクレッツィアは吐き捨てるように言った。

「まるで、
深海そのものがこちらを拒んでいるみたい」

その背後で、
黒い影が僅かに揺らぐ。

ルクレッツィアは、
ゆっくりと微笑んだ。

だがその笑みは、
いつもの余裕あるものではなかった。

「いいわ」

彼女は囁く。

「お父様の盤面を乱すものなら、
壊してしまえばいい」



一方、
港では混乱がさらに広がっていた。

船長の指示で、
人々は高台へ避難し始めている。

だが、
真琴たちはまだその場を動けなかった。

動けないのではない。

見てしまったからだ。

深海から浮上してきたもの。

セラフィナ達のお父様の干渉圧を避け、
世界の表層へ押し出されてきたもの。

それが今、
海そのものを引きずりながら、
こちら側へ現れようとしている。



ぴこん。

【警告】

ぴこん。

【警告】

ぴこん。

【観測継続を推奨しません】



「……ログが、見るなって言ってる」

真琴の声が掠れた。

リオが、
珍しく真琴の前に出る。

「真琴」

「わかってる」

真琴は頷く。

だが、
視線は逸らせなかった。

逸らした瞬間、
もっと悪いことが起きる。

そんな感覚があった。



ゴォォーン……

深海の鐘が鳴る。

それは、
呼び声だった。

誰かを呼んでいるのではない。

世界そのものへ、
自分の存在を知らせるための音。

そして真琴は、
理解してしまった。

この鐘の音は、
始まりの合図ではない。

すでに始まっていた異変が、
ようやく人間の耳に届いただけなのだ。



「……まずい」

真琴は、
静かに言った。

「この海、
もう普通の海じゃない」

その言葉と同時に、
持ち上がった海の奥で、
巨大な影が再び動いた。

そして。

深海からの呼び声は、
さらに大きくなっていった。

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