【第3章】 第71話
【第3章】第71話 歌わせるな
打ち込まれた印が動き始めたのは、
3日後だった。
「待たせやがって」
レオンハルト達も、
苛立つのは仕方ない。
船を再び沖合へと動かす。
テュ・ポーンが、
まだ沖合に留まっているためだ。
⸻
「今度は、クラーケンの娘の所へ案内してほしいわね」
ルナミナが、
海を見つめたまま口を開く。
その声音は静かだ。
だが、
内容はあまりにも危険だった。
「おいおい……軽く言ってくれるな」
船長が顔をしかめる。
「あれは海の怪異だぞ?
見つけた連中が、
そのまま戻らねぇことだってある」
「だからこそよ」
ルナミナは、
薄く笑った。
「向こうから来るのを待っていたら、
被害が増えるだけでしょう?」
その言葉に、
誰も即座には反論しなかった。
実際、
ここ数日だけでも、
海は妙に静かすぎる。
波の音。
風。
船体の軋み。
それ以外が、
何もない。
まるで、
“海そのもの”が耳を澄ませているような、
不気味な静寂。
⸻
「……来る」
ぽつりと、
リオが呟いた。
その瞬間だった。
船底を、
ぬるりとした感覚が撫でる。
ギギギギ……。
木材が軋む。
「下か!?」
ヴィクトルが立ち上がる。
だが、
次の瞬間——
海面へ、
巨大な“影”が浮かび上がった。
黒い。
あまりにも黒い。
夜の海よりもなお深く、
光を吸い込むような色。
そして、
その中心で。
ゆっくりと、
女の顔が浮かび上がる。
濡れた長髪。
青白い肌。
人間ならば、
美しいと呼べるはずの顔。
だが——
その下半身は、
巨大な軟体生物そのものだった。
無数の触腕。
吸盤。
粘つく海水。
そして、
海そのものと繋がっているかのような、
異様な存在感。
⸻
「見ぃつけた」
女が、
笑った。
ぞわり、と。
空気ではない。
“海”が震えた。
⸻
瞬時に動いたのは、
ルナミナだった。
ふわりと宙へ浮かび上がる。
同時に、
黒い闇がクラーケンの娘の上半身へ絡みついた。
口を塞ぐ。
喉を締め上げる。
歌わせない。
叫ばせない。
そして——
娘の首元へ、
無数の黒い球体が浮かび上がった。
「ウニ!」
ぽんっ、
と軽い声。
次の瞬間、
球体から一斉に黒い棘が突き出す。
だが、
その全てが。
首筋寸前で、
ぴたりと止まっていた。
あと数ミリでも動けば、
即死。
そんな距離。
⸻
「仕事人だねぇ」
真琴が、
感心したように呟く。
その間にも、
リオは既に動いていた。
言われるまでもなく、
ルナミナの隣へ浮かび上がる。
銀髪が潮風に揺れた。
「見つけたのは——」
リオが、
口元を歪める。
「こっちだよ」
にやり、と笑った。
⸻
「リオ、絶対に歌わせるなよ〜?」
真琴が軽く言う。
だが、
その目は笑っていなかった。
「分かってる」
リオの周囲に、
淡い光が浮かぶ。
その瞬間だった。
塞がれていたはずのクラーケンの娘の喉から、
ぶつぶつと泡が漏れ始める。
違う。
泡じゃない。
“声”だ。
音にならないはずのものが、
海そのものへ染み込んでいく。
⸻
ギ……。
船が傾いた。
海面が、
脈打つ。
「おい待て、
まだ何もしてねぇぞ!?」
船長の怒鳴り声。
ヴィクトルが顔色を変える。
「海そのものに干渉してる……!」
その瞬間。
真琴とリオの視界へ、
大量の魔法ログが流れ込んだ。
異常干渉。
海異反応。
精神侵食。
書き換え信号。
次々と、
赤い警告が弾けていく。
⸻
「……海異か」
リオが眉を寄せる。
「真琴、書き換えられる?」
「面白そうね」
真琴が、
にやりと笑った。
「無害なラブソングに変えてみせましょう」
バキバキッ。
指を鳴らし、
両手を前へ突き出す。
浮かび上がる魔法陣。
幾重にも重なった術式が、
クラーケンの娘の上半身へ浸透していく。
⸻
「ああああああああああ——!!」
娘が、
びくりと痙攣した。
「痛いの?」
ルナミナが不思議そうに首を傾げる。
「いや……
この場合の書き換えは……」
リオが微妙な顔をする。
「全身をゾワワワってされる感じかな」
「うわぁ」
真琴が引いた。
お前がやったんだろ、
という視線が集まる。
⸻
「はい、完了!」
真琴が、
ぱんっと手を叩いた。
「思いっきり歌っていいよー!
海の男達へ捧げる、
“ど演歌恋歌バージョン”です!」
しばらく沈黙。
そして——
ルナミナが、
苦虫を噛み潰したような顔でウニを下げた。
⸻
甲板で。
クラーケンの娘が、
さめざめと泣きながら歌い始める。
『あなたぁぁぁ……
なぜに港を出たのぉぉ……』
波間に響く、
異様に情感たっぷりな演歌。
『帰ると約束したじゃないぃぃ……』
「場末の港町スナック感だわ」
真琴が引き気味に言う。
これは、
シュール以外の何物でもなかった。
⸻
「まあ、僕達も悪魔じゃないから、君が依頼を受けてくれたら
歌声を戻してあげてもいいんだよ?」
ニヤリと笑って言うリオが小悪魔にしか見えん。
クラーケンの娘は、
涙を流したまま何度も頷く。
海面が、
ゆっくりと静まっていった。
まるで、
先ほどまでの怪異が嘘だったかのように。
⸻
「では、依頼なんだけど」
リオが、
笑顔のまま口を開く。
「——『ヒュドラ』の所まで案内してくれる?」
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