【短編小説】⑦ブラッドオレンジに染まるマンションの給水塔の前で
第7話 回転する腕の教え
夕焼けには
まだ早い、
空の色。
雲は薄く、
塔の影だけが
地面に滲んでいた。
《今日は、風が追いかけてこない。自分で迎えに行く日だ。》
非常階段は乾いていた。
雨の檻を越えた後の鉄は、
少しだけ柔らかく見えた。
足音を一段ずつ
落としながら、
胸の呼吸が整っていく。
扉の向こう、
給水塔が
いつもの高さにいた。
そこには、すでに凪がいた。
遠くを見るでもなく、
ただそこに“在る”だけで。
《訊くな。
訊いたら
壊れる距離もある。》
海斗はいつもの場所に
腰を下ろした。
凪もこちらを見ない。
それが合図だった。
風は弱い。
会話の代わりには
ならない程度の風。
沈黙が呼吸を
締めつけすぎないように、
二人は同じ景色を、
別々に眺める。
どれくらい時間が
経っただろう。
凪が静かに立ち上がった。
制服のスカートが、
小さく風を拾う。
何をするのか、
海斗はわからなかった。
ただ、
目を逸らしては
いけない気がした。
その直感だけが、
胸の奥に触れてくる。
凪は、腕を――広げた。

まるで
小さな風見鶏のように。
そして、ゆっくり、
回りはじめた。
最初は、一回転。
スカートの裾が、
円を描く。
凪の表情は、
泣いても笑ってもいない
……そう見えた。
しかし、
二回転目――
ほんの一瞬だけ、笑った。
微笑みというより、
呼吸の緩み。
海斗は息を止めた。
理解ではない。
ただ、胸が震えたが
笑みを少しこぼした。

《これが、この人の、生き延びの作法。》
凪は回転を止めず、
ただ言った。
「……回れ。怒りも、
悲しみも、角のままだと
刺さるから」
声は風に混ざり、
届いたのか
どうかも曖昧だった。
「丸くできる?」
海斗は問わなかった。
代わりに立ち上がった。
足元が不安定で、
腕はぎこちなく広がる。
回る。

ぎこちない一回転。
視界が揺れ、
夕空が歪む。
二回転目。
風を切る音が、
耳の横をかすめる。
少しだけ、
胸のざらつきが
溶けた気がした。
「……こうか?」
海斗は誰にも
聞こえない声で呟いた。
凪は答えない。
ただ、円の外側で
立っていた。
回転を止めたとき、
足元が少しふらつく。
地面は揺れていない。
揺れているのは
胸の奥だけ。
《落ちない場所は、
高さじゃない。
形の問題だ。》
凪は夕空を見たまま、
ぽつりとこぼした。
「丸くしても、全部消えるわけじゃないよ」
「……でもさ、丸いと、持てるんだよ。手で」
海斗は返事をしない。
代わりに、胸の内で
声なき言葉が回りだす。
《じゃあ、僕も回そう。撮れなかった瞬間を、丸くして持てるように。》
太陽が傾き、
給水塔が
赤く染まりはじめた。
風が、今日初めて、
頬を撫でた。
それは“慰め”ではなく、
“同意”のようだった。
沈黙のまま、
二人は座りなおす。
もう話す必要は、
どこにもなかった。
言葉より、回転が残った。
塔の影が細く伸び、
地平に溶けていく。
その影は、もう剣ではなく、一本の糸に見えた。
《生き延びの術を、
初めて教わった。》
帰り道、足取りは軽くない。
ただ、足は前に出る。
一歩。一歩。
ビル風が、
背中を押した。
それは誰の手でもなかった。
――でも確かに、
届いた風だった。
