タンポポに気づける日は、心が少し健康だ
道端の花に気づけない日
道端の花に気づけない時期は、たいてい何かに追われている。
世界は変わらずそこにあるのに、こちらの感覚だけが少し閉じてしまう。空の色も、風の温度も、道端の草花も、毎日ちゃんと変わっている。それなのに、心に余裕がないと、その変化を受け取れなくなる。
花が消えたわけではない。
見えなくなっているのは、こちら側なのだと思う。
タンポポが芽吹いていた朝
タンポポが芽吹いていた。
気がついたのは、ある朝のことだった。玄関を出て、いつもの道を歩き始めたとき、アスファルトの隙間から小さな緑が顔を出しているのを見つけた。
昨日まではなかった、と思った。
けれど、正確には違うのかもしれない。昨日までなかったのではなく、昨日まで私が見ていなかっただけなのかもしれない。
芽はおそらく、数日前からそこにあったはずだ。
ただ、私は気がつかなかった。
あるいは、見ていたけれど、見ていなかった。
立ち止まれたこと
それから数日後、花が咲いた。
鮮やかな黄色だった。朝の光の中で、アスファルトの灰色を背景に、その黄色は不釣り合いなほど明るかった。
タンポポは、場所を選ばない。庭の柔らかい土でなくても、公園の手入れされた花壇でなくても、道路のひび割れた隙間でも、平然と花を咲かせる。
その頑強さと、花の色の明るさの対比に、私はいつも少し驚かされる。
私はその前で、少し立ち止まった。
花が咲いていたことよりも、立ち止まれたことのほうが、私には大きかった。
見えなかった季節
思い返せば、タンポポに気がつかなかった時期がある。
正確に言えば、何も気がつかなかった時期がある。
朝起きて、仕事へ行き、夜帰る。その繰り返しの中で、季節が変わっていることにも、道端の草花が入れ替わっていることにも、空の色が日ごとに違うことにも、気がつかなかった。
毎日同じ道を歩いていたはずなのに、何を見ていたのか、あまり思い出せない。
生活はしていた。
けれど、世界を受け取ってはいなかった。
あの頃の私は、たぶん健康ではなかったのだと思う。
感覚の健康
ここで言う健康は、身体の数値だけの話ではない。
もちろん、身体の健康も大事だ。けれど、それより少し奥にあるものの話をしている。
感覚の健康、とでも言えばいいのだろうか。
世界からの小さな信号を受け取る力。日常の中にある微細な変化に気づく力。何でもない景色の中に、少しだけ美しさや面白さを見つける力。
そういうものが弱っているとき、人は足元の花を見落とす。
忙しさは、足元の花を見えなくする。
世界がつまらなくなったのではない。世界が止まったのでもない。こちらの感覚が、少し閉じてしまっているだけなのだと思う。
私の小さなバロメータ
今年、私はタンポポの芽がほころぶのを見た。
花が咲くのを見た。
そして、ある朝、綿毛になっているのを見た。
白い球体が、朝風に揺れていた。1つ1つの種が、小さなパラシュートを持って、どこかへ飛んでいく準備をしていた。
その光景を見ながら、私は自分が今、かなり健康であることを知った。
タンポポは、私の健康のバロメータだ。
これは単なる比喩ではない。少なくとも、私にとっては、かなり正直な目印になっている。
タンポポに気づけるとき、私は世界と適切な距離にいる。急ぎすぎず、塞がりすぎず、目の前のものを受け取れる場所にいる。
気づけないとき、私は何かに追われている。あるいは、何かに心を占領されている。自分では大丈夫だと思っていても、感覚のほうが先に疲れを知らせてくれている。
毎朝の健康診断
だから私は、毎朝タンポポを確認する。
正確には、タンポポがあれば確認する。なければ、別の何かを確認する。
道端の雑草でもいい。空の雲の形でもいい。隣の家の庭の木の葉の色でもいい。昨日より少し強くなった日差しでも、雨上がりの匂いでも、電線にとまる鳥の声でもいい。
日常の中の小さな変化を、ちゃんと受け取ることができるか。
その前で、1秒でも立ち止まれるか。
それを美しいとか、面白いとか、少しうれしいとか思える隙間が、自分の中に残っているか。
それが、私にとっての小さな健康診断だ。
病院の数値より正確だ、とは言わない。
けれど、病院の数値には出にくい疲れを、足元の花が教えてくれることはある。
あなたにとってのタンポポ
きっと誰にでも、自分の状態を教えてくれる小さなものがある。
私にとって、それはタンポポだった。
ある人にとっては、朝のコーヒーかもしれない。
ある人にとっては、空を見上げることかもしれない。
ある人にとっては、音楽を聴きたいと思えることかもしれない。
ある人にとっては、誰かの話を最後まで聞けることかもしれない。
大きな出来事ではなくていい。
むしろ、自分の状態は、日常の小さな反応にこそ表れるのだと思う。
最近、空を見上げただろうか。
道端の花に気づいただろうか。
風の温度が変わったことを、少しでも感じただろうか。
もし何も思い出せないなら、それは責めることではない。ただ、少し休む合図なのかもしれない。
見ていなかった春が見えている
日常の変化を感じることができるのは、幸せの証だと私は思う。
幸せとは、大きな出来事の中にだけあるのではない。足元の黄色い花に気づける朝の中に、立ち止まれる時間の中に、それを受け取れる心の隙間の中に、静かに宿っている。
今朝もタンポポは咲いていた。
私はそれに気づくことができた。
見ていなかった春が、今年はちゃんと見えている。
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