英語は毎日書かなければ、使えなくなる。
この記事を読んであなたが得られるかもしれない利益:なぜ自己満足的に英語のnoteを書こうとするのか。それは書かないと、英語が使えなくなるからだ。書くときにこそ英語は、書き手に英語の作法を厳しく教えてくれるからだ。受験英作文は、そこに英語のエスプリ(精神)は存在しない。
英語を書こうとすると英語にやられる件
20世紀最高のプロレスラー、鉄人ルー・テーズについて、きのうは英語で書いてみました。
先に書いたルー・テーズの記事の内容は変えずに、英語にしようとの試みです。
でも、いつものように日本語の内容を英語にすると、まったく違う表現になってしまうのです。
それは、英語の論理性と具体性という性質が理由です。
日本語ではいい加減な推論で書き進めていても、書けるというか違和感がないのですが、英語だとお前がいま書いた言葉はロジカルなの?という英語の変化身が肩を叩いて、直すように促します。
アウトラインを記して、ディテールを書かせる、というのも英語の性質で、ルー・テーズについて書くときも、テーズとは何かを1行で書いて、具体的な事実を続けるといった具合です。
いや、この全体→具体という鉄則は、文章のはじめに載せないとならないのです。
ですから、文の冒頭に「何を書くのか、こういうのが出てくる」と書き記す必要があります。
英語を書かなければ、内臓を突き上げるようなパンチのある表現にならず、つまり上っ面で伝えているだけの、文章しか書けない、そんな気持ちになり、英語で書いている、というわけです。
いや、これは僕が自分を騙しているだけなのです。
皆さんは日本語で書いても、しっかり人の心にタッチしています。
僕は、何か腹に含めている、それを吐き出したくて、英語にしてみるんです。
そうすると、自分の言いたいことが、日本語より正直に、ときに力強く表現されていることに気が付きます。
毎日書かねばならない理由
それは、貧弱なボキャブラリーに気づくためです。
英語が最も嫌うのはリダンダンシー(redundancy 重複=同じ言葉の繰り返し)です。
同じ単語を使わせてくれないのです。
前の文でレスラーを使ったら、次の文ではファイターとか、グラップラーにしなければなりません。
でも情けな、僕の言い換え能力はここで終わりです。
これでは、英米人に尊敬されません。
ディセンシー(decency上品さ)という言葉を使ったら、次の文章にはオーセンティシティ(authenticity正統性)と言い換えねばなりません。
でも、この辺が僕の限界です。
英語を毎日書くことにより、いかに自分が言葉の言い換えができないか、つまり、単語を知らないかを痛感します。
でも、それが単語獲得への意欲につながるのです。
結局、日本が世界でとかく下に見られるのは、書く英語が拙いからだと僕は個人的には、考えています。
そのキモとも言うべきなのは、言い換えが拙いことなのです。
へたな英語でも、僕は今日から毎日書くことに決めました。
ダメな英語しか書けないことを、実際に書くときちんと自覚できて、英語習得の基本であるリーディングをおろそかにしないようになります。
書かないことは、組手をやらない空手のようなものです。
組手という実戦をやってこそ、基本や型といった他の空手の動きの意味がわかり、本当に強くなれるのです。
武智倫太郎先生の慧眼
note界ひろしといえども、森羅万象を面白おかしく、時に文学者の筆致で説得力豊かに毎回書き下ろすかたは、武智倫太郎をおいていません。
大論文をおくびにも見せずに、カジュアルに仕上げて平然としている超人。
その武智先生は最近、日本人の英語力について警鐘を鳴らしています。
未だ日本人は、最新技術において英米人の科学者が英語で書かれたものを「待っている」状態、英語で発信するチカラが足りないから、議論して深めることができない、とおっしゃっています。(武智先生はもっと深い意味を込めており、それは見逃していると思いますが。)
まさに同感ですね。
「議論」しないと、考えが深まらないんですよ。
だから僕も英語で文章を書いて、電脳空間に出すことで、世界と議論したいのです。
今度のアジア訪問も、英語でプレゼンして彼の国の人を啓蒙しようなんて事はまったく考えておらず、ただ「議論」したいだけなのです。
さすがは武智先生、先んじて議論することの大きな意味を僕は、改めて教わりました。
野呂 一郎
清和大学教授
