見出し画像

【早期退職】「介護、育児、仕事。自分らしく生きたいので、教師辞めます!」

〈2025.4.11追記 私の「人生の棚卸し」をお願いした方へのリンクを貼りました。〉
〈2025.4.16追記 退職金がわかりましたので、ざっくりですが載せました。〉
〈2025.4.19追記 家族の扶養に入る際の注意点を載せました。〉
〈2025.5.21追記 思いがけない臨時収入があったことを載せました。〉

令和7年3月末に、28年間の教師生活を終わりにしました。
中学校で23年間、特別支援学校で5年間働きました。
50歳。
人生100年時代だとしたら、ちょうど真ん中です。

退職した理由は、大きく分けると2つあります。
一つは、実の母に介護が必要になったことで、私の生活が大きく変化したからです。実家にまつわる様々なことをしながら、自分の家庭(我が家には障害のある娘がいます)も円滑にまわし、その上でフルタイムで働くなんてことは体力的にも精神的にも難しかったです。
そして、もう一つは、これを機に、教師ではない仕事を通して、【縁の下】で人を支える側にまわりたいと考えているからです。これについては、詳しくは後半でお話しします。

辞令が出た後、連日、お世話になった方々にご挨拶をさせていただきました。
皆さん、口々に「まだ若いでしょう?どうして?もったいない!」「まだ教師として働くエネルギーはあるでしょう?」と言ってくださいました。

エネルギーはあります。有り余っています。年相応の病気というか、弱り方もしてはいますけど、働けない、というほどではありません。

ただ・・・私の「暮らしたい生活」が、教師をしていたら時間的に不可能なのです。これが、退職した決定的な理由です。

今回の記事では、自分が退職を決めた時期とか、退職までに考えていたこととか、退職までに準備したこととか、そもそも定年まで働くつもりは最初からなかったこととか、現場で働く先生方への思いなどをまとめておきます。そして、最後には私のこれからについてもお知らせします。

長文になりますし、自分の思いもかなり込めて書いていますし、何より、相当プライベートなことまで書いていますので、この記事は途中から有料にすることにしました。収益は、新たに始めようと思っている仕事の材料を準備するために使わせていただきます。

今回の記事は、
・教師の仕事がつらく、続けようか悩んでいる方
・教師の仕事は好きだけど、いつかは他のことを仕事にしたいな、と思っている方
・突然現れた「介護」という困難な事象に、どのように立ちまわったらよいのか思案している方
・「これからどのように生きていけばいいのか」と悩んでいる方
・悩んでいるときに、どんな人に頼ったらよいのか不安に思っている方
・介護のために仕事を休んでいる間、お金のやりくりをどうしていたのか知りたい方
・退職するためにはどんな手続きがあるのか、いつから動き出せばよいのか知りたい方
・退職する前に何をしておくとよいのかが分からなくて、不安に思っている方

に参考になるように、また、少しでも元気になってもらえるように書いたつもりです。
予測もしていなかった「親の介護」という事態に、私がどのように立ち向かっていったのか、途中で精神的にぼろぼろになっていた時期もありますが、それも含めて、お話していきますね。

16000字超えの長編です。お茶でも飲みながら、ゆっくり読んでいただければと思います。

それでは、どうぞ。


退職までのいきさつ


はじめに、私の家庭の状況をまとめておきます。

我が家は3人家族です。会社員(シフト制の仕事です)の夫、自閉症で軽度知的障害のある娘(16歳)、そして私(特別支援学校教員でした)がいます。娘は特別支援学校の高等部に通っています。成長してはいますが、まだまだ手がかかり、支援が必要です。

私の実家は、私の家のすぐ近くにあります(私は一人娘です。それもあって、実家の近くに家を建てました)。実家では、父と母が二人で暮らしています。父は子どもの頃から目が弱く、手元はほとんど見えていません。心臓にペースメーカーが入っていますが、とても元気です。趣味は水泳です。最近物忘れが激しくなってきたのと、耳が遠くなってきたのが不便なようです。母は、話すことは特段問題はないのですが、もともと字の読み書きが得意ではなく、その面で支援が必要です。今回介護が必要になったのが、母です。現在、要介護2です。

私は娘が生まれてから2年弱、育児休業を取得しました。その後は、教師の仕事を続けるために、娘を父と母に預けている時間がとても多かったです。母に介護が必要になる前は、娘は平日でデイサービスを利用しない日は父と母の家に行っていました。自力での登下校が難しかったため、小学校・中学校のときは、夫と母と私で分担して送迎をしていましたが、特に迎えは圧倒的に母に行ってもらう日が多かったです。また、私の帰宅が遅い日は、母のところで夕飯も食べさせてもらっていました。私が仕事を続けられたのは、父と母のおかげだと思っています。

それでは、私が退職するまでの15か月を振り返ってみます。

2024年1月~2月:母の骨折が発覚、父の気疲れ、私は体力気力ともにダウン

母が脊椎圧迫骨折のため、自力で歩行ができなくなりました。これに伴い、実家(父と母の2人暮らし)の生活が破綻し始め、私が家事を手伝ったり、通院の介助(送迎がメイン、診察や会計は父に付き添ってもらいました)をしたりすることが多くなりました。私は全力で仕事をしていた頃なので、本当にへとへとで、「どうしてこの忙しいタイミングで母が・・・」といういらだちと、老いて弱っていく母を受け入れることの難しさで、気持ちの整理がつかないまま、気力だけで過ごしていたように思います。私自身も、とても不安定でした。

2月には、「もう無理です」と管理職に訴え、短期看護休暇(5日間)を取得しました。このころには「退職」の2文字は既に心によぎっていました。

2024年3月:娘の進学に向けての準備

実家には頻繁に様子を見に行っていましたが、母は痛みを訴えることが減りました。私は自分ができる範囲で、通院の手伝いや食事の差し入れ等を続けました。
母の状態が以前に比べれば落ち着いたので、私は娘の特別支援学校高等部への進学のために、時間をかけることができました。春休みは、支援学校の制服を手間取らずに着る練習(不器用なので、ワイシャツのボタンやリボンをつけることに苦労します)、スクールバス停までの自力通学の練習(道路横断の判断が難しく、慣れるまで練習しました)、細かいところの練習を繰り返し行うことで自信をつけてあげることができました。

2024年4月:母の度重なる体調不良、私が再びダウン

母がデイサービスに通い始めたため、父が週に2度、自分一人でゆっくり過ごす時間ができました。これは、父の気持ちの安定面でとても大きかったです。

しかし、下旬に、母が体調不良で4回も救急病院にかかりました。この時にわかったのは、「父が(私が思っていた以上に)母の状況について医師に説明できない」ことでした。母は、自分の状況を伝えようとすると感情的になってしまい、「苦しい、痛い」しか言えません。「どの部分が、どのように」と説明できないのです。だから、父に一緒に診察室に行ってもらっていました。しっかりしている父だと思っていた(それまでは、頼んだことを忘れるようなことはなかった)ので、私は病院への送迎だけをして、母の診察のときは父に説明を任せていました。しかし、毎度毎度救急病院から帰される(薬さえ出ずに帰されることも多かった)ので、「どう具合が悪いのか伝えた?」と父に尋ねると「ああ、それ、言わなかった」ということが重なりました。

診察のときに、誰かが母の体調について説明をきちんとしなければいけない、と思いました。父が難しいのであれば、私がやるしかない、と腹をくくり、5月から介護のための休業をとれるように、管理職に伝えました。

実は私自身も、仕事で新年度が始まって、一緒に働くメンバーがかなり変わり、円滑に仕事をすすめていくために気を遣い過ぎてストレスを感じていました。そこへ、両親のこの状態です。体が悲鳴を上げていました。持病が悪化し、私自身も体調が悪くなってきていました。「このままでは私がつぶれてしまう。私が今つぶれたら、実家も、うちも、大変なことになる」と思って、一気に介護のための休業取得へと動き始めたのです。

最初は、母の状態が落ち着いたら仕事に復帰しようかと思っていましたが、管理職から「介護のための休業は、1回しか延長ができない。長くとっておいて、戻れるならば休業を取りやめて戻ってくればいい。」とアドバイスを受け、年度末までの約10か月間、「介護のための休業」を申請することにしました。

2024年5月:介護のための休業に入る

初旬にケアマネさんにすぐ連絡し、「こんなに頻繁に救急病院を利用していては(しかもすぐ帰されていては)家族も困るし、医療側にも迷惑をかけてしまうので、訪問看護を利用したい」と訴えました。すぐに訪問看護ステーションとつないでいただいて、契約をしました。

契約の場で(正確には、手続きが終わり、家の外に見送った時でしたが)看護師さんからそっと言われたことは「娘さん、この夏が勝負ですよ。」でした。
実は契約の最中に、母から発せられた言葉はなかなか重たいものでした。身体面でも弱っていましたが、どちらかといえば精神的に参っていて「こんなに家族に迷惑をかけるぐらいなら、早くあの世からお迎えに来てほしい。毎朝、ああ今日も目が覚めた、今日も生きてしまったと思っている。」と母が言ったのです。

ここまで頑張って家族のために尽くしてくれた人が、体が動かなくなったのを理由にどうしてこんな思いをしなければならないのか、私も本当に悲しかったです。看護師さんの「この夏が勝負です。」はその通りだろうな、と思いました。夏の暑さで、食べなくなる、外に出なくなる、具合が悪くなれば起き上がらなくていい、寝ていればいい、そのうちに衰弱して・・・となるのは、想像ができました。

そんな終わり方、させてなるものか。

このときのことは印象深かったので、リンクを貼っておきます。

そして、私は正式に介護のための休業(私の勤務する自治体では「看護休業」と言います、「介護」の名のつく休暇はありませんが、一般的な「介護休業」と保障される内容がほぼ同じなので、このしくみを使いました。)を年度末まで取得し、休み始めました。

両親は、私が思い切って長く休みをとったことに驚き、そして申し訳なく思ったようです。両親から「休みをとってほしい」とは言われませんでしたが、はっきり言ってしまえば、この休みは両親のためでもありながら、私自身のためでもありました。
弱っていく母や荒れていく父をこのままにしておくことが、家族の一員としてできなかったのです。それは、思いやりや感謝を大切に生きてきた、私の信条に合いません。教師という仕事は、代わりがいても、「娘」には代わりはいないのです。私が介入することで、状況を変えたい!と、介護をする覚悟が決まりました。

2024年6月:両親が元気を取り戻し始める

調子がよくなったのは、まず父からでした。私が毎日実家に長くいることで、母の弱音を一人で聞かなくてよくなりました。それまでは、弱音を聞くたびに、「俺だってつらい、家事をさせられるとは思わなかった」などと母に言っていたようです。母も「なりたくてこんな状態になったわけじゃない」と、口喧嘩になることもあったそうです。私がいれば、やんわりと仲介できるので、殺伐とした時間が続かずに済みました。

そして、父を楽にするために、大好きな水泳を再開してもらいました。母を家に一人にすることができず、父が我慢をしているのがわかりました。だから、父には安心して家から離れて、一日に数時間でも好きな水泳をしてほしいと思ったのです。父はみるみる明るくなりました。

その後を追うように、母も少しずつ元気になっていきました。母も父と離れる時間ができ、父から言われて傷ついたことを私に伝えることができるようになりました。

私は仕事柄、虐待についてもよく学んでいたので、父が言った言葉は「それって心理的虐待になるんじゃないかな」と思うようなものもありました。それをやんわりと父に伝えると(娘だから聞いてもらえた、というのも大いににあったでしょう。嫁の立場だったらきっと言えなかったです)、父からの荒れた言葉がなくなりました。「お母さんは、言葉の理解が難しいから、文字通りの受け取り方をしてしまうよ。お父さんは軽い気持ちとか、冗談のつもりかもしれないけど、お母さんは冗談とは受け取ってないみたいだよ。」そんな感じに伝えたと思います。

母も気持ちが落ち着いてきて、前向きな気持ちになったのでしょう。5分程ですが、歩行器を押しながら家の周りを歩くようになりました。見守りなく一人で歩くことはできませんが、歩こうという意欲が湧いてきていることがありがたかったです。(3月の今は、10分ぐらい歩けています。成長ですね!)

そして驚いたのは、母が「お父さんに申し訳ないから、私も料理の手伝いをしたい」と言ったことです。母は、どこかにつかまることなく立ったり、歩いたりすることができません。まして、立ったままで料理など到底できません。でもそこまで思うなら、と、福祉用具の会社の方に連絡をとりました。トレーのついた歩行器があれば、作った料理を運んだり、冷蔵庫から物をとってトレーに載せて運んだりすることができると思ったからです。母の体型に合った、トレーの付いた歩行器が1種類だけあり、それをレンタルしました。このおかげで、母は料理の手伝いをするようになり、自分にも役目があることが嬉しいようで、家の中もよく動くようになりました。

福祉用具の会社からは、これを機に、歩行器だけでなく、トイレの手すりを貸与する契約をし、さらに浴室の椅子も自己負担1割で購入しました。「レンタルなんか面倒だ。」と、全てをホームセンターで買おうとしていた父を説得してよかったです。体の状態もは変わりますし(いつまで歩行器で歩けるかもわかりません)、定期的にメンテナンスもしていただけるし、後期高齢者の母にはレンタルの方が結果的には安いと思います。そして専門の用具は頑丈で、安全です。こういうものを安く借りられる介護保険制度が本当にありがたいと思います。

また、私の勤務先からは朗報が届きました。教員や講師が不足しているというニュースが流れる中、私の抜けた後に年度末まで入ってくださる講師の方を見つけることができたそうです。一安心しました。「年度末まで休むと言ったけど、人がいないなら、母が落ち着いたら仕事に戻ろう」と思ったこともありましたが、講師の方が入ってくださることが分かったので、しっかり休んで、焦らずに父と母の生活を安定させよう、と決めました。

【豆知識①介護のための休業中のお金】

※私のように「年度末まで一日も勤務しない、完全に休んでしまう」という場合です。半日休みをもらいながら働く、という場合はまた違いますので、お気をつけください。

私の場合は、まず勤務する自治体の共済組合から、「勤務していない日について、66日間は、標準報酬日額の67%または15778円(この額は年によって変動します)のうちの少ない方の金額」が支給されました。なので、ざっくり言えば、総支給の3分の2ぐらいの額は支給されていました。ここから、自分で社会保険料や税金などを払っていきますので、実際の手取りはもっと少なくなりますが。
そして、66日間が過ぎると、あと54日間分は、互助会から看護休業給付金として「一日につき7000円」が支給されました。
おかげで、合わせて120日間は、お金をもらえていたことになります。
ちなみに休んでいる間にも、「給与」が毎月少しだけ入金されていました。明細を見たら、「給料」「地域手当」「教員特別手当」でした。

2024年7月~8月:私が精神破綻の危機に


ここから先は

11,234字

¥ 400

Amazon Payで支払うと最大2%還元のチャンス! 9/30まで

記事を気に入っていただけたら、次への期待も込めてチップで背中を押してもらえると嬉しいです🙌