あなたの世界の、静けさを聴かせて #創作大賞|6/8 Portrait of Tracy
😺恋愛小説部門 人気ランキング1位😺
はじめましての方、第一章はこちらから
第六章 Portrait of Tracy
◇
衣吹との連絡が途絶えてからひどく長い時間が過ぎた。不在は世界から色を奪い、音を消し去った。遠い夢は荒れ果てた砂漠のように乾ききっていた。
カラーピッカーには汚れた絵の具。彩度も、明度も、境界線もない。春らしく多幸感ある明るいピンクを基調に、という指示。新しい化粧品のランディングページ。
簡単な仕事のはず、だった。白いカンバスに一本の線も引けなかった。色彩は衣吹と共に去った。私の世界は再びモノクロームに戻ってしまった。
◇
僕は鏡花と巡った場所をひとりでなぞった。国際文化会館。あの広い図書室で、彼女の横顔を盗み見た時の、瞳の奥の温かさ。彼女があの空間にどれほどの輝きを与えていたか。薄暗い空間で、彼女のグラスの中の氷が溶けていくのをただ見つめていたあの時間。隣にいるだけで世界が満たされるような感覚。そして、あの神社の、古びた縁側。
◇
私には、まだ帰る場所があった。私の居場所。
「いらっしゃい。」
マスターの無言に救われ、奥の席で息を吐いた。
「ウェザー・リポートを。」
秘密の合言葉のように心地よかったその響きが、今はただの虚しさを含んでいるように思えた。
何が、正しさなのだろう。 由惟のように、世の中のルールに合わせて器用に賢く恋をするのが正しいのだろうか。 私の、この言葉にならない面倒な感情。積み上げてきたはずの毎日は、宛名のない、書きかけの手紙の束だった。
一つだけ、わかっていることがある。 衣吹と過ごした静かな時間。世界が一段クリアになる感覚。
たとえ、それが、ただの私の勘違いだったとしても。
◇
静かに僕の話を聞いてくれた、あの奇跡のような夕暮れ。
僕は、あの時と同じように濡れ縁に腰を下ろした。
最後の西日が差し込む。隣に視線を移すと鏡花が座っている。僕の話に小さく頷き、時折はにかむように微笑む、彼女の幻が。あまりにも鮮やかなその残像に思わず話しかけそうになり、慌てて口を噤む。
そこにあるのは、冷たい木の板だけだ。彼女の温もりは、どこにもない。
彼女の存在が、僕の言葉にどれほどの意味を与えていたか。彼女のいない空間は、ただの美しいだけの抜け殻だった。
意味を失った風景。鏡花という存在が、どれほどの奥行きを与えていたのかを思い知らされた。魂の一部が彼女と共に失われてしまったかのような、そんな絶望だった。
◇
由惟に電話をしたら、こう言うだろう。
「遊びだったんだよ。あんたがポエムみたいなこと言ってるから、相手もその気になっただけだよ。現実見なよ、鏡花。」
彼女はいつだって正しい。しかしその正しさは、今の私をさらに深く凍らせ、孤独へと追いやる。 正しさそれ自体が貨幣のように。信用へと形を変え、流通し、膨張する。
衣吹のいない世界はただの背景でしかなかった。私の世界の解像度は、出会う前よりもずっと低くなってしまったようだった。私に与えてくれた、世界の鮮やかさが、いなくなった途端に失われてしまった。
◇
僕が「心地よい」と感じていたのは、あの温室の空間そのものではなく、その空間に鏡花がいたからだ。あまりに単純で、そして決定的な事実は、遅すぎた気づきだった。なぜ、彼女は、あんなにも寂しそうな顔をしたのだろう。僕の祈りは彼女の喜びではなかったのか。彼女の、あの凍えるような視線と、声のトーンが、僕の心を締め付ける。僕の言葉が届かなかった。永遠に癒えない傷を負ったかのようだった。
◇
私は、グラスに残ったギムレットを一気に飲み干した。アルコールの冷たさが、いつもよりずっと胸に染みた。内側から体を冷やしていくかのように私の心まで冷たくしていった。疑念が、私の心を蝕んでいく。存在価値が認められていなかった。それが、私を深く包み込んだ。
衣吹がくれた言葉も、見せてくれた風景も。そして、私もまた、その風景の一部として、彼の"仕事"だったのだ、と。
◇
──仕事、か。そうかもしれない。でも、この建築という行為は、僕の人生そのもの、僕の存在意義そのものだ。君を、僕の仕事の「風景の一部」だなんて思ったことは一度もない。君は、風景じゃない。君という存在が、僕の原点だ。君がいなければ、僕はただの無機質な構造物でしかない。言葉にすればするほど、僕の心が、言葉という檻の中に閉じ込められてしまう。
僕は、デスクの上に広げた一枚の白紙のケント紙を、じっと見つめた。その白いキャンバスに、何を、どう描けばこの想いが鏡花に届くのだろうか。頭の中で、無数の線が交錯し、形をなしていく。
──鏡花に贈るべきなのは、弁明の言葉ではない。
ロットリングを手に取った。それは、言葉ではなく、空間と魂の設計だった。僕にできる、最も誠実な言葉で、返事を書くために。
レコードプレーヤーからはベース一本だけの独奏。無数のハーモニクスが一つの肖像を描き出していく。言葉ではなく、粒子が空間を満たす。
◇
マスターは、いつものように黙ってシェイカーを手に取った。冷凍庫から取り出したジンが白い気体を吐く。ライムを絞り、氷と共に金属の城へ閉じ込める。リズミカルにシェイカーを振りながら、視線はカウンターの隅の鏡花へ注がれる。いつも本のページの上に落ちていたその瞳は、今、明らかに違う空気をまとっている。
「──ウェザー・リポート。」
注文の響きが、耳に残っている。男が悪戯っぽく頼み、女がはにかんでいた、あの秘密の言葉。今夜は、ひどく虚しく響いた。彼らがこの場所に持ち込んだ、あの満ち足りた静寂はどこにも見当たらない。
シェイカーから冷え切った液体を三角形のグラスへ注ぐ。表面に無数の水滴をまとったそれを、そっと鏡花の前に置く。彼女はただグラスを見つめている。痛々しいほどの空白だけが、彼女を包んでいた。かつて二人の間に満ちていた、心地よい沈黙の代わりに。
(第七章へ続く)
