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#創作大賞2025 あなたの世界の、静けさを聴かせて|1/8 カラーフィルムを忘れたのね

都会のノイズに心をすり減らすデザイナー・鏡花が逃げ込むのは、新宿御苑の朽ちた大温室。そこで出会ったのは、空間の「静寂」を設計しようとする若き建築家・衣吹だった。効率や流行に囚われず、心を癒やす「余白」にこそ価値を見出す衣吹に鏡花は抗いがたく惹かれていく。だが温室の再開発計画が持ち上がり、鏡花にとって唯一の聖域が揺らぎはじめる。静けさの中で衣吹と心を通わせる中で、鏡花は胸に秘めた想いを自らの「声」として世界に響かせる勇気を見つけていく。これは、自身のシェルターに閉じこもっていた女性が、世界と向き合い、自分たちだけの〈再生の空間〉を築くまでを描く物語。静かな夜に、やさしい恋の調べが響く。

あらすじ:295文字

#創作大賞2025 #恋愛小説部門 応募作品です。全8回、読みやすい2.1万字の短編。いま、ここに巡り合ったあなたのことを想いながら書きました。



第一章 カラーフィルムを忘れたのね

見えない壁に囲まれている──そう感じたら、ノイズを切って静けさへ潜る。それが私の小さな儀式だ。乾いた根に、水音だけを吸わせる。

事務所のデスクで無機質な画面を眺めながら、私は深く、しかし誰にも気づかれないようにため息をついた。ディスプレイに並ぶ文字が風に舞う砂のように心を素通りし、私の内側だけを静かに削っていく。

耳元では同僚たちの雑談が途切れなく続く。言葉の羅列が、私の心を少しずつ、しかし確実にすり減らしていく。私の精神もこの都会の日常の中で摩耗していくのを感じていた。誰もが何かしらの話題で繋がろうと必死で、その渦に巻き込まれるたび自分という存在がどこか薄れていくような感覚に襲われた。

私だけが東京のざわめきを拾いすぎているのかもしれない。欲望と焦燥と無関心──入り組んだ配管のように絡み合ったエネルギーが高層ビルの躯体を振動させる。都市という巨大建築の荷重で、私の骨が軋む。

静かな時間を渇望していた。そういうとき私は決まって、新宿御苑の深緑の奥へ足を向ける。




都会の真ん中にこれほどまでに豊かな自然が息づいていることに、私はいつも驚きと感謝を感じていた。この場所にだけ時間がゆっくりと流れているかのようだ。その豊かな緑は、疲弊した目に深く染み渡る。

特に私の心を惹きつけるのは、その片隅にひっそりと佇む、取り壊しの危機に瀕した朽ちた大温室だ。風雨に磨かれた曇りガラスが郷愁を呼び覚ます。多くの年月を見守ってきた賢者のような存在感を放っていた。

オフィスビルが無機質な光で人々の活気を吸い取る時間。私は、淡い金色の光に満たされた温室に身を置く。その光は植物の鼓動を凝縮したかのように柔らかく滲む。温室の中は、外の世界とは隔絶された深い静寂に包まれていた。

耳まで澄み渡り、時間さえ滞った。ガラス一枚の向こうで喧騒は消えた。葉脈を伝う雫の音、蝶の羽ばたき、遠い鳥の声だけが届く。湿った空気に混じる緑の匂いが鼻をかすめた。土と緑と、微かな水の匂いが混じり合い私を深く安らぎへと誘う。湿った空気が肌を撫で、心へ沈む。私という存在がこの温室の一部になったかのように、溶け込んでいく。

いつも、温室の一番奥まった場所に置かれた、古びた木製のベンチに腰を下ろす。長年磨かれた木肌は手のひらに吸い付くように滑らかで、微かに軋む音さえも心地よい響きだった。

ベンチから見える景色は鬱蒼と茂る熱帯植物の緑一色で地球の裏側にいるような錯覚を覚える。そこで何かをするでもない。ただ、植物のように柔らかな光を浴びゆっくりと深く呼吸をしていれば、それでよかった。そうすることで、すり減っていた心が少しずつ潤いを取り戻していくのを感じるのだ。私の心が温室の静けさを吸い込んでいく。誰にも邪魔されない、魂の再生を許してくれる、私だけの特別な場所。

私のシェルター。私の、聖域だ。




祖父の庭の片隅にあった、骨組みだけの小さなビニールハウス。夏には青く尖ったトマトの香りが、秋には掘り返したばかりの土が濡れて蒸す匂いが満ちる、幼い私のための城だった。

とりわけ、雨の降る日が好きだった。ビニールの天井を──とん、とん、と──規則正しく叩く雫の音。その一枚の薄膜が、外のざわめきをすべて呑み込み、柔らかな鼓動へと変えてしまう。耳に届くのは、変容した雨音と、植物のかすかな呼吸、そして膝の上で図鑑をめくる私の指の音。

一枚の膜が世界を二つに隔てていた。騒がしい現実のむこう側と、守られた静寂のこちら側。私は“自分がいられる場所”を見つけたのだ。


──答えは、雨と土の匂いを抱いた遠い午後に眠っていた。曇ったガラスの向こうに都会のノイズを置き去りにし、光と緑と柔らかな音だけを許すこの大温室は、あのビニールハウスの記憶が成長した姿だ。




朽ちた大温室に、長身の男が一人、熱帯植物特有のフェニックス・ロベレニーの木の前に静かに立っていた。背中からは微動だにしない集中力が伝わってくる。空気までも彼に集中し、静止していた。その手には、使い込まれたスケッチブックと芯が短くなった鉛筆が一本だけ。石膏粉ですれた六角軸を親指で転がしながら呼吸するようにページに線を置いていた。

私は、いつものベンチにそっと腰を下ろし、鞄から取り出した文庫本を開いた。ページをめくる音さえも響くように感じられた。意識の半分は自然と彼の背中に向けられていた。彼の描くものへの好奇心と、この聖域を侵されたくないという相反する感情が胸の中で渦巻く。それは、未知の扉を開きたい衝動と今の安穏とした世界を守りたい本能が心の中でせめぎ合っているかのようだった。

しかし、彼の存在は決してこの空間の調和を乱すものではなかった。




どれくらい時間が経っただろうか。彼はゆっくりとスケッチブックを閉じ、ゆっくり振り返った。お互いに目が合った。真っ直ぐなまなざしが私の奥底を覗き込む。深く、しかしどこか好奇の火を宿していた。

彼は少しだけ驚いたような表情を見せた後、小さく、しかし丁寧な会釈をした。この空間の静寂を尊重しているかのようにその動作は控えめだった。

彼が立つと、静寂に色と匂いが芽吹いた。そして、私の横を静かに通り過ぎて温室のガラス扉の向こうへと消えていった。去った後には温室の湿った空気と混じり合ったかすかな余韻だけが残った。後ろ姿が見えなくなるまでただじっと見送っていた。彼の存在が、私の心を揺り動かした。


第二章へつづく


#創作大賞2025 #恋愛小説部門 #せかしず


第一章 カラーフィルムを忘れたのね
https://note.com/not4u/n/nd86ef7575a30
第二章 銀河鉄道の夜
https://note.com/not4u/n/nb690f0fa91dc
第三章 光の中に
https://note.com/not4u/n/nd84b83ba0b5a
第四章 波よせて
https://note.com/not4u/n/n6c7662f515d6
第五章 流動体について
https://note.com/not4u/n/ne74842a21bd6
第六章 Portrait of Tracy
https://note.com/not4u/n/n0d8a50ed1019
第七章 夜、光る。
https://note.com/not4u/n/n9ef19b472515
最終章 琥珀色の街、上海蟹の朝
https://note.com/not4u/n/n4d1107757e82

『あなたの世界の、静けさを聴かせて』合計21,403字
 by よる|静かな夜に、言葉を紡ぐ


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