あなたの世界の、静けさを聴かせて #創作大賞|4/8 波よせて
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第四章 波よせて
私たちは麻布にある国際文化会館の図書室にいた。衣吹が好きだという場所だった。
「この建物は、コルビュジエの弟子だった三人の建築家が共同で設計した、日本の近代建築の傑作なんです。コンクリートの力強さと日本の伝統的な木の意匠が、見事に融和している。」
熱っぽく語る衣吹を見た。目には、ただの建物ではない尊敬する師への想いや歴史への敬意が映っていた。
窓が日本庭園を一枚の生きた絵画として切り取っている。私たちは、それぞれの本を読み、ときおり窓の外を眺める。衣吹は、分厚いコルビュジエの作品集を熱心に読み耽っていた。
建築が静かな問いを投げかけ、人間がその存在でそっと応える。ただ雨風をしのぐための箱ではない。窓の大きさ、天井の高さ、差し込む光の角度。そのすべてが、そこにいる人間の感情をデザインしていく。声にならない対話がそこにあった。
ふと顔を上げると、衣吹と目が合った。彼は、本当に小さく、口の端を上げて笑った。私たちの間のすべての言葉が交わされたような気がした。満ち足りた午後。何もいらなかった。
その完璧な充足感が、終わりを静かに告げている。
◇
ポール・オースターの最後のページを読み終え、本を閉じた。その音を合図にするように、衣吹が言った。
「そういえば──」
顔を上げる。
「『現代建築』に、コンペの話が載りました。」
「僕のインタビューも、少しだけ。まだ、コンペに勝ったわけでもないのに。」
洗練された表紙を開くと、温室の写真と緊張気味の衣吹の顔と、彼の言葉。
『この空間の静寂を、現代技術で翻訳することが今回の挑戦です。例えば、都会の喧騒に疲れた女性──ユーザーインサイトを設計に落とし込むことで、主役である"名もなき個人の魂"を癒す空間が生まれるのです。』
“ユーザーインサイト”。私は指でなぞった。温室の湿った土の匂いが消え、代わりに乾いたインクの匂いが立ち上る。
「──すごいね、仕事。」
自分でも驚くほど、平坦な声が出た。
衣吹は動きを止めた。スプーンがカップの縁に当たって乾いた音を立てた。彼は、かすかに眉をひそめて私の顔を見た。
彼の視線から逃れるように、窓の外に目を向けた。街路樹が西日を浴びて、金色に光っている。綺麗だと思った。ひどく、他人事みたいに。
衣吹は、何かを言いかけてやめた。カップの中に視線を落としたまま、その表面に浮かぶ泡をスプーンの先で意味もなくそっと潰した。そして、かろうじてそれだけを呟いた。
「……ええ。まあ。」
衣吹は私の目をまっすぐに見られないようだった。カップの中に視線を落としたまま、かろうじてそれだけを呟いた。肯定も、否定もない。沈黙が私たちの間に壁を作った。何を話せばいいのか、二人とも分からなかった。
◇
「じゃあ、また。」
いつもより少しだけ早く別れた。次に会う約束はしなかった。帰り道の電車は混んでいた。窓に映る自分の顔は無表情だった。衣吹と会うようになってから、私の世界は色鮮やかになったはずだった。
衣吹のインタビュー記事。ビル街のように理路整然と並んだ言葉たち。
それは、都合のいいペルソナを見つけた、才能ある建築家の完璧なプレゼンテーション。私の祈りの言葉さえも、衣吹にとっては勝ち筋を見通すための格好の素材だったのではないか。
私の愛した静けさは、彼の秩序という光に照らされた瞬間、影に消えた。どうしようもない事実に、めまいがした。
電車が、地下から地上に出る。
夕日が、車内を、オレンジ色に染め上げた。
あまりにも美しい光の中で、私は一人だった。
◇
数日の沈黙を破ったのは衣吹だった。電話口の声は、少しだけ固かった。
「鏡花さん、僕が、雑誌のインタビューで語ったような人間だと思われたのなら、誤解を解きたい。それに、少し付き合ってほしい場所があるんです。」
連れていかれたのは、表参道のガラス張りオフィスビルだった。カフェスペースには同じ設計図から起こされた人間が、同じ種類の眼鏡をかけ同じ角度にMacを開き美しい標本のように並べられている。
「僕の、大学の同期のアトリエです。今回のコンペに彼も参加しています。」
案内された会議室は、床から天井まで白一色で塗られていた。泉と名乗る、涼しげな、しかし、温度の感じられない目をした男が私たちを迎えた。
「やあ、衣吹。一次通ったんだって? あのポエム、審査員にはウケたみたいだな。」
衣吹の顔に苦虫が棲んでいた。泉は、悪びれもせず言うと会議室の中央に置かれた模型を指し示した。
正反対の思想で作られた、ガラスの箱。内部の植物は標本のように等間隔で並び、無駄がない。
「都会のノイズを遮断する。俺が創るのは、完全な──無菌室だ。感情や記憶といった不純物が入り込む余地はない。完璧な無音空間、それこそがポストナラティブ時代の癒やしだよ。俺は絶対に勝ちたい。ゼネコンにはできない、アトリエの意地だ。」
揺るぎない自信と自負に満ちていた。
「見事だ。」
衣吹の声は、静かだった。諦めに近い響きにも聞こえた。彼の作る『心地よい静寂』が、泉の掲げる『完璧な無音』という、より強く、より絶対的な概念の前に霞んでしまう。そう直感した。
泉が興味深い実験動物でも見るかのように、私を見た。
「衣吹。君が連れてきた、その女性。彼女はどう思うんだろうな。俺の無音と、君のノイズ混じりの静寂。どちらが、より人間にとって心地よいか。」
傲慢だが純粋な問い。怒りからではなかった。私は、ゆっくりと顔を上げた。
「静か。──きっと、怖いくらいに。」
泉の眉が、ぴくりと動く。
「──本のページをめくる音さえも、なんだか、この完璧な静寂を汚す、邪魔なものに、聞こえてしまいそうだから。」
沈黙が、落ちた。泉の自信に満ちていた顔から感情が消えた。隣で、衣吹が息を呑む音がした。
私は衣吹のほうを、一度も見なかった。
空虚なほど美しいガラスの箱を、見つめ続けた。
◇
──静かにして。お願いだから、静かにして。
病室のベッドで、いつもそう言って泣いていた。窓の外で鳴く鳥の声に、廊下を歩く看護師の足音に、配膳ワゴンの車輪が立てる軋みに、隣の部屋から漏れるテレビの音に、まるで全身を針で刺されるかのように苦しんでいた。
俺は、ただ耳を塞ぐしかなかった。
葬儀場で流れるG線上のアリア。誰もが涙するその美しい旋律。親戚のすすり泣きの声。事務的な足音。空調の低い唸り。そのすべてが、ただの汚れたノイズだった。棺の中で、まだ苦しんでいるんじゃないか。そんな妄想に取り憑かれた。
火葬場の外へ出ると、真夏の蟬しぐれが揺さぶるように降り注いだ。空気を震わせる逃げ場のない音の波。死さえも静寂を連れてはこない。この世界は生きている限り、いや、死んだ後でさえ無数の音で飽和しているのだと絶望的なほどに理解した。
無を、創る。
鳥の声も、人の涙も、夏の蟬も、美しい音楽さえも、すべてを等しく遮断する、完璧な無音を。感情や記憶といった不純物が入り込む余地のない、絶対的な静けさを。
それが俺の、たった一つの祈りになった。
それは建築ではない。音を弔うための、静寂の墓標だ。
(第五章へつづく)
