あなたの世界の、静けさを聴かせて #創作大賞|5/8 流動体について
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第五章 流動体について
「──この間の、泉のアトリエでのこと。」
泉の事務所を訪ねてから数日後。私たちは新宿御苑の閉ざされた門前に立っていた。大温室が金網越しに夕陽を浴びる。
「なぜ、彼が、あそこまで"完璧な無音"に執着するのか。大学の同期に、少しだけ、聞いてみたんです。」
衣吹は言葉を選ぶように話す。
「母親が、体調を崩され、重度の聴覚過敏だったそうです。僕らが心地よいと感じる葉擦れの音でさえ、彼女にとっては、ガラスが割れる轟音のように聞こえた、と……」
泉の温度のない瞳が浮かぶ。すべての音を拒絶した果てに、彼自身の感情まで置き去りにしてしまったのだろうか。
「来る日も来る日も、耳を塞ぐ母の手を握りしめることしかできなかった。──彼が創ろうとしているのは、建築じゃないのかもしれない。たった一人、愛する母のために作りたくても作れなかった、あらゆる『音という暴力』から守るための、祈りだった。」
泉の傲慢な自信。それは、途方もない無力感の裏返しだったのかもしれない。彼の聖域は、母を救えなかった少年の痛切な願い。私の聖域とは違う。けれど、その根底にあるただ安らぎたいという渇望は同じだったのかもしれない。
私たちの静けさと、彼の静けさ。
どちらが、魂を救うのか。
問いは夕暮れに溶けた。私たちは、どうやって日常に戻ればいいのか分からなかった。
◇
自動車のヘッドライトが、私たちの間の見えない距離を何度も無遠慮に照らし出す。
言わなければいけないことが、あったはずだ。雑誌のこと。彼の、本当の気持ち。私の、このどうしようもない感情。でも、泉の母親の話を聞いた後ではあまりに些細な個人的な感傷に思えて、どの言葉も喉の奥で意味をなさずに消えていった。
次に会う約束も、その口実さえも、私たちは見つけられないまま、別々の電車に乗った。
ドアが閉まる、無機質な音。私たちの間に引かれた新しい境界線だった。
◇
由惟から半ば強引に呼び出された。「鏡花が心配だから」というのが、言い分だった。
「で、どうだったのよ、例のポエム建築家と、ライバルさんの対決は?」
泉のアトリエでの出来事を説明した。"完璧な無音"を私がどう感じ、どう答えたかということだけを、感情を挟まず。
「ふーん。まあ、よくわかんないけど、あんたがスッキリしたならよかったんじゃない?」
由惟は、興味を失ったようにワイングラスを揺らした。彼女の関心は、常に具体的な進展にある。その先の、曖昧で数値化できない世界の話は退屈なのだろう。
「まあ、とにかく。」
由惟は満足げにワインを口に含む。
「その建築家、あんたに夢中ってことよ。よかったじゃない。で、コンペ、勝てそうなの? 勝ったらその温室アンタのものじゃん。自慢できる彼氏とお洒落なデートスポット、両方ゲットだね。」
由惟の言葉は、私の心を切り刻む鋭利な刃物だ。きっと、本心から私のために喜んでくれている。彼女の世界の「正しさ」においては、それが幸福の形なのだ。それが彼女の戦いであり、誠実さだった。
◇
大学の入学式。東京に出てきたばかりの由惟は、少しでも都会に馴染もうと慣れないヒールと精一杯のお洒落をして必死に背伸びをしていた。だが、同じサークルのグループから、聞こえよがしに「ああいう頑張ってる感じ、ちょっと痛いよね。」と笑われた。
あの日がきっかけだ。由惟が、「普通」であることに、「間違えない」ことに、固執するようになったのは。もう二度とあの日のような惨めな思いをしたくなかったのだ。彼女が私に押し付ける正しさは、彼女自身が傷つかないために身につけた、硬い鎧だ。そして、その鎧で私を守ろうとしてくれている。たとえ、そのやり方が私を深く傷つけるものだとしても。
由惟を責める気にはなれなかった。私たちは違う鎧を身にまとって、違うやり方で、このどうしようもなく騒がしい世界と戦っている、ただの戦友なのだ。
◇
「で、どうなのよ、その後?彼とは。」
由惟の問いかけに、我に返る。
「……連絡、とってない。」
由惟がまとう空気の色が変わった。緊張が走る。
「はあ? なんでよ。」
「色々、あって。」
「色々って何。」
私は、雑誌の件をかいつまんで話した。“ユーザーインサイト”という言葉に、私がどれだけ傷ついたかを。
由惟は私を見た。呆れを通り越して、ほとんど絶望に近い色をしていた。
「もう、信じられない。あんたって、本当に……」
本気でがっかりしたように、大きく息をついた。
「こっちが、どれだけお膳立てしてあげたと思ってるのよ!」
「え──?お膳立てって、何が──」
私の言葉に、由惟の堪忍袋の緒が切れた。
「新宿御苑!建築家!って聞いた瞬間に、ピンときたに決まってるでしょ!前に聞いてた、彼が行きつけだっていうバーの情報、わざわざ裏取って!あんたが一人になりたがってるのを見計らってあの店の話を振ってあげたんじゃない!」
言葉が堰を切る。私の不器用さに対する由惟の憤りそのものだった。
「ポエムだろうがユーザーインサイトだろうが、そんなのどうだっていいじゃない!才能があって、あんたのことをちゃんと見てくれそうな男をやっと見つけてあげたのに!幸せになってほしいだけなのに、あんたは、いっつもそうやって、一番肝心なとこで、自分から殻に閉じこもって……!」
まくし立てた、由惟の物差しで測られた善意。言い終えると、深く息をついた。もうあんたには任せておけない、とでも言うように、ほとんどヤケクソな動きで店員を呼び、近くのテーブルにいた男を手招きした。
「広野くん、こっちこっち!紹介する、私の親友の鏡花!」
広野くん、と紹介された男は人の良さそうな笑顔で私に頭を下げた。当たり障りのない会話が始まる。
作り笑いしかできなかった。目の前で繰り広げられる、あまりにも一方的な善意の応酬。私の気持ちは、全部、置き去りだ。
理解した。私と唯一の親友の間には、きっと永遠に埋まらない深い溝がある。由惟の不器用な愛情ごと受け止めることも、振り払うことも、今の私にはできない。
その事実は、もう誰も傷つけなかった。
スマートフォンのロック画面には、衣吹と訪れた神社の手すりの写真。彼の隣で、思わず撮ってしまった一枚。
画面の中の、あの静かで、満ち足りた世界。
それを、テーブルの上の騒がしくて空っぽな世界が上書きしていく。由惟の甲高い笑い声が、私の聖域に土足で踏み込んでくる。
画面を消し、息を吸う。ここには、私の居場所はない。
「ごめん、ちょっと、気分が。」
そう言って席を立った。由惟が何かを言っていたが、もう聞こえなかった。
店を出て、日曜の西麻布。冷たい夜の空気を吸い込む。
◇
衣吹のアトリエ。今日も鏡花からの連絡はない。デスクライトの光が精緻な建築模型の影を長く伸ばしていた。
「──すごいね、仕事。」
たった一言が、ガラスの破片のように、頭の中で反芻する。
デスクに積もるコンペの資料。歴史的価値、構造計算、予算──乾いた数字が思考を鈍らせる。違う。僕が惹かれたのは、そんなことじゃない。
鏡花と出会ってから、ずっと考えている。僕という建築家の、原点になった風景を。
フィンランド。大学の卒業旅行の目的は、アルヴァ・アアルトの建築を見ること。中でもパイミオのサナトリウム。ヘルシンキからバスを乗り継いで、何時間もかけてたどり着いた、森の中の療養所。
そこは、ただの病院ではなかった。 結核患者のために作られた、その建物にあるすべてが、患者の「心」のためにデザインされていた。目に優しい、直接光が入らないように設計された照明。患者が咳をしても、音が響かないように特別に作られた洗面台の陶器。そして、患者が一番長く過ごすであろう、病室の窓から見える、ただ静かな森の風景。
建築家の無言の祈りが満ちていた。建築は箱ではない。魂を包む器だ──そう確信した。
──鏡花を見つけた時、僕は、パイミオの光を思い出したんだ。 彼女は、何をするでもなく、ただ、そこにいた。ベンチに座って、目を閉じて、光を浴びていた。植物のように静かに、確かに空間と一体化していた。
鏡花こそが静けさの理由だった。 あの空間の、最後のピース。
僕は、知りたかった。 君の世界を。魂の形を。心地よいと感じる、光の角度を。 本を読む時の、ページの音を。ギムレットのグラスを持つ、指の形を。
それは、鏡花という人間を理解するための、僕だけの方法だった。
この想いを、どう伝えればいい。
言葉ではきっと何かがこぼれ落ちる。
(第六章へつづく)
