あなたの世界の、静けさを聴かせて #創作大賞|3/8 光の中に
😺恋愛小説部門 急上昇ランキング1位😺
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第三章 光の中に
二人で訪れたこのバーは、まだ少しだけ肩が張る場所だった。先に来ていた衣吹は、カウンターの隅でラフロイグを静かに傾けている。その姿は店の風景の一部だった。
「何を飲みますか?」
メニューを眺める私に、衣吹が優しく尋ねた。
「──ギムレットが、好きです。」
「ギムレット、ですか。では、面白い注文の仕方をしましょう。」
そう言うと、衣吹はマスターに、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「マスター、『ウェザー・リポート』を一つ、彼女に。」
私が不思議そうな顔をすると、衣吹は答えを教えるように、そっと囁いた。
「ただのギムレットなんです。昔、そういう風に注文する常連さんがいて、その名残がメニューの片隅に残っているだけで。」
「秘密の言葉、みたいですね。」
私がそう言うと、衣吹は嬉しそうに頷いた。
「ええ。ここのマスターが大切にしている、ささやかな歴史です。──あなたなら、この言葉の意味を、面白がってくれるかと思って。」
彼の聖域に、私がそっと招き入れられたようだった。一人でいることを許してくれるだけでなく、誰かと分かち合う静けさもここにはあった。
ウェザー・リポートが照明にきらめく。シェイカーの音をBGMに、とりとめない会話を重ねた。その日の天気の話、最近読んだ好きな作家の話、子供の頃の思い出、互いの仕事に対する考え。グラスの氷が輪郭を失っていく。私たちも声を失い、その変化だけを目で追った。
◇
「もう一軒、付き合ってもらえますか。」
バーを出た後、衣吹に言われるまま夜の街を少しだけ歩いた。辿り着いたのは、地下へと続く小さな階段の先にあるクラシックな喫茶店だった。店内には、壁一面のレコード棚と、巨大なスピーカーが鎮座している。
店主に断ると、衣吹は棚から一枚のレコードを抜き出した。ビル・エヴァンスの、静かなピアノ・トリオ。彼は、慣れた手つきでレコードをターンテーブルに乗せ、そっと針を落とした。
音楽が始まる前の、小さなノイズ。レコード盤が、小さく息を吸うような音がした。流れ出したピアノの旋律は、その息を纏うことで、不思議なほど立体的に響いた。
「この、パチパチという音。これをノイズだと嫌う人もいる。」
コーヒーカップを手に、衣吹が囁いた。
「でも僕は、この音も、音楽の一部なんだと思うんです。レコードが、これまでに再生されてきた時間の記憶。針が、溝をなぞる摩擦の温もり。そういう、消し去れないノイズごと愛することで、音楽は、ただの綺麗な音じゃなくて、誰かの体温を持つようになる。」
彼の言葉を聞きながら、私は、ピアノの音の向こうにある、その小さなノイズに、じっと耳を澄ませていた。
温かい、ノイズ。
私が温室に救いを求めていた静けさも、きっと、これに近い。完全な無音ではない。蝶の羽ばたきや葉脈を伝う水の音といった、命の気配がするノイズに満ちた静けさ。
私の好きなものを、この人も同じように好きでいてくれる。言葉にしなくても、その事実がどうしようもなく嬉しかった。
◇
由惟にランチに誘い出された。
あの夜、彼女に背中を押される形で行ったバーで、本当に“背中の人”──衣吹に再会できたことを、私は報告した。
「へえ、本当に会えたんだ。すごい偶然じゃん。」
口端がわずかに上がった。由惟は、さも他人事のように言いながら、パスタのメニューに目を落とした。
「まさに『ポエム男子』だね。鏡花が好きそうな。」
由惟は、衣吹のことをそう一言で片付けた。私が大切にしたいと思っている世界を、いとも簡単に。
「で、そのポエム君とは、どうにかなりそうなわけ? 次はいつ会うの?」
「まだ、何も。再開発のコンペに出るって。」
私は、それ以上話すのをやめた。由惟が既に興味を失っていたからだ。彼女の関心は、あくまで「出会い」というイベントそのものにあったらしい。
「でも、もし次があるなら、たぶん、彼も静かな場所が好きだと思う。」
そう答えるのが、精一杯だった。
◇
私たちは、都心を外れた丘の神社にいた。社殿の瓦が西日を浴びて光る。澄んだ冷気が意識を研ぎ澄ます。衣吹に導かれるまま、本殿の濡れ縁に並んで座る。木肌は風雨に磨かれ鈍い艶を帯びていた。
西の空が燃え尽き、世界がゆっくりと夜の青に沈んでいく。鳥たちが巣へ帰る前の最後のさえずりを交わしている。境内に響くのは葉擦れだけだ。
「手すりに触れてみて。」
低い声が夕暮れの静寂に溶けた。私は言われるままに、手すりにそっと手のひらを乗せる。ひんやりとなめらかで、指が吸い付く。それは、自然な、しかし深い歴史を感じさせるものだった。幾千の掌が磨いた年月の温度が宿る。
「木の角は、人の手の油で少しずつ削れていくんです。百年くらいかけて、この形になるんです。」
物理学者のような語り口も不思議と不快な感じはしなかった。名もなき願いや不安、わずかな希望まで、この木に染みている。それらが、ただ堆積していた。言葉では表現しきれない、尊いもののようにも思えた。この手すりには、人々の想い、人々の記憶を宿す器であるかのように感じられた。
「無数の人々の祈りや願いが形になったものなんです。ただの木ではなく人々の想いなんだと、僕は思います。」
最後の西日が差し込み、葉と景色を光で染め上げる。衣吹がこれまでに設計してきた建築、そこで揺れる光と時間の話。語意より低い余韻が先に染み、静謐な世界が覗いた。私は、時々相槌を打つだけで、彼の声を、ただ聴いていた。言葉、声色、合間の静寂。
「鏡花さん、大丈夫ですか?体調が良くないようなら出ましょう。」
「──色を、探しているんです。」
「色、ですか?」
不思議そうな顔をする衣吹に、私は説明する。
「日本の伝統色に、『月白』という色があって。月が東の空に昇り始める、ほんの短い間だけ世界に現れる光の色。でも、その色見本と本物の色とはやっぱり違うから。私はいつも、自分の目で本物の『月白』を探したいんです。」
変わりゆく空を眺めていた。街の灯りが、一つ、また一つと増えていく。衣吹は、今まで見ていたのとは違うレイヤーで世界をスキャンしているようだった。建物の構造や光の角度ではなく、ただひたすらに空の微細な色の変化だけを見つめている。
太陽の最後の残光が消え、世界が深い藍色に沈んだ、その一瞬。
「……今。」
東の空の、地平線と夜の境界線。ほんの一瞬だけ、白く、淡く、青みがかって、発光した。
「光。あれが、私の探していた、『月白』。」
衣吹は、その残像を目で追うようにじっと東の空を見つめていた。そして、心の底から感嘆したように息を漏らした。
「鏡花さんといると──」
衣吹が不意に、少しだけはにかむように言った。その言葉に、私の心臓が小さく跳ねた。目には、優しくも確かな光が宿っていた。
「同じ景色が別の顔を見せます。見落としていた微細まで鮮やかに。」
鳥のさえずりが溶ける。胸の錠が外れた。夕闇に洗われた笑顔には、少年の無垢が宿っていた。その笑顔に心が静かに跳ね、未知の色が差した。彼の言葉と笑顔が、私の心を満たしていった。
その影で、別れの予感が芽を出す。依存してしまっているかのような、そんな不安だった。失うのが怖かった。
(第四章へつづく)
