あなたの世界の、静けさを聴かせて #創作大賞|2/8 銀河鉄道の夜
😺恋愛小説部門 急上昇ランキング1位😺
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第二章 銀河鉄道の夜
神楽坂の石畳は雨に濡れて鈍い光を返す。ガラス張りのビストロの窓から楽しげな男女のテーブルがいくつも見える。細身のグラスでシャンパンを飲む綺麗な女。手首に光る時計。互いのスペックを値踏みするように微笑み合い、当たり障りのない会話のラリーを続ける。
東京の恋はいつだって巧妙なビジネスのようだ。面接が恋愛の形をしている。必死に、自分の柔らかな心を守りながら、それでも、誰かと繋がるための、たった一本の蜘蛛の糸を探している。
その、不器用で、痛々しくて、どうしようもなく愛おしい姿は、ショーウィンドウの内側にいる彼らも、外側にいる私も、何も変わらない。
東京は夜の7時。店へ急ぐ。
◇
学生時代からの友人、由惟と小さなレストランで食事をとる。由惟は、よく喋り、よく笑う。
「鏡花、最近どう?なんか、あんたの周りの空気、色が変わった感じしない? まさか恋?」
「……そういうわけじゃ、ないんだけど。」
理解されないと分かっているのに、誰かに話したかった。言うべきか一瞬ためらった後、呟いた。
「この前、新宿御苑で──」
「へえ!」由惟の目が、途端に好奇心で輝いた。「どんな人?イケメン?」
「顔は、よく見てない。彼、ずっとスケッチをしていたから──建築家か、デザイナーか。ただ、その人がいるだけで、温室の空気がもっと澄んでいくような、そんな背中だった。」
我ながら、乙女な表現に顔が熱くなる。案の定、由惟は「ポエムかよ」と笑い、続けた。
「ふーん、建築家ねえ。あんた、昔からそういう雰囲気系、好きだもんね。」
由惟は何かを考えるように、ワイングラスを回した。私の話にはまるで興味がないかのように。
「そういえば、うちの部の後輩がさ、結婚式の準備で揉めてるらしくて。」
由惟は、私のポエムな恋の話を、彼女の得意なリアルな恋愛の話題で上書きしようとしている。彼女にとって、恋愛は双六だ。“出会い”から“結婚”までマス目を進むだけのゲーム。そのルールに従えば必ず幸せになれる、とでも言うかのように。
「そういえばこの前、会社の人が言ってたわよ。新宿御苑に妙な執着がある建築家がいて、その人がよく行くバーがあるんだって。客がみんな本を読んでるような静かな店。案外、あんたが言ってた“背中の人”だったりしてね。──まあ、私には一生縁のない店だけど。」
由惟は白ワインを口に運んだ。
「いつまで独りよがり?また静かな穴ぐらに逆戻りよ。」
視線を皿へ落とした。パテの味は遠かった。私の心は、まだ温室の静寂の中にいた。昼の光と彼の背中が、瞼の裏で何度も揺らめいていた。
◇
由惟と別れ、一人歩く。ささくれ立った心をどこへ持っていけばいいのか分からなかった。彼女が教えてくれたバーの名前が頭の中で明滅するが、心がそちらを向くことはなかった。あの温室の記憶を、アルコールの気配や誰かの評価の視線で濁したくはなかった。
足は神保町行きの地下鉄へと吸い寄せられていた。目的はない。ただ、本の背表紙が壁となって街の喧騒を吸い取ってくれる、あの静かな空気がどうしようもなく必要だった。走り出す窓に無表情の自分が映る。
ふと、大学時代を思い出す。課題に追われ、心がすり減って、誰とも話したくなくて図書館の隅でうずくまっていた私を、探し出してくれたのは由惟だった。
「あんたの好きそうな静かな場所、見つけといたよ。」
そう言って、キャンパスの裏にある小さな植物園に黙って連れて行ってくれた。あの頃の由惟は、私の静けさを壊さず隣にいてくれた。
いつから私たちは、違う言葉を話すようになってしまったのだろう。変わったのは彼女なのか、私なのか。あるいは、世界なのか。
◇
夜の神保町は、昼間の熱気を洗い流したように静まり返っていた。裏通りに一本入ると、専門書店のガラス越しに温かい光が漏れている。吸い寄せられるように中へ入れば、そこは古い紙とインクの匂いが支配する。客たちの立てる微かな衣擦れの音さえも、高い天井まで届く書架に吸い込まれていく。
壁の一角で、フィンランド建築の特集が目に留まる。アルヴァ・アアルトの作品集。無意識に手に取ってページを開けば、森の中に佇むサナトリウムの写真が目に飛び込んできた。病める者のために建てられた、癒やしのための建築。光の角度、ドアノブの感触、音が響かないように設計された洗面台。そのすべてが、雄弁な祈りのように思えた。
写真の中の光景に没頭し、時間の感覚を失っていた、その時だった。
「パイミオのサナトリウム、ですか。」
背後からかけられた静かな声にゆっくりと振り返ると、紛れもない、“背中の人”がそこにいた。温室で見た時と同じ、真っ直ぐなまなざし。彼は私の手の中の本に視線を落とし、静かに続けた。
「ここの洗面台、音が響かないように設計されているの、ご存知でしたか。」
彼の問いは、単なる知識の確認ではなかった。同じものを見つめる人間にだけ通じる、秘密の合言葉のようだった。
「はい。そのための、陶器の角度まで計算されている、と。」
私がそう答えると、彼の目に、ふっと光が灯った。それは驚きというより、探し物を見つけた時のような深い安堵の色だった。
「……よかった。」
彼は、ぽつりとそう呟いた。何が「よかった」のか、彼は説明しない。私も、尋ねなかった。けれど、その一言だけで、私たちの間に流れる空気の質が変わったのを、肌で感じていた。
「衣吹、といいます。」
「鏡花、です。」
「人の心を本当に癒やす空間とは、何でしょうか。」
ふと、口から出た。彼は「そうですね。」とだけ答え、本の写真へと思いを馳せるように目を伏せた。
差し出した手は、触れ合わない。私たちの間には、言葉にならない何かが確かに通い合っていた。私たちは同じ問いを、違う場所で、ずっと考え続けてきたのだと思った。二人の名前だけが、その確かな輪郭だった。
「もう少しだけ、お話ししませんか。僕が、よく行く店があるんです。ここから、そう遠くない。」
階段を上り、扉を開ける。焙煎コーヒーと、古い紙の匂い。
カウンターの奥で、バーテンダーが静かにグラスを磨いている。
由惟が言っていた、あのバーだ。驚きで固まる私に気づかず、衣吹は慣れた様子で奥へ向かう。そして、私を振り返り、柔らかく微笑んだ。
◇
「先日は、すみませんでした。あなたの大切な場所に、僕が土足で踏み込んでしまった気がして。ずっと気になっていました。」
申し訳なさげに眉を伏せた。ささくれだった心が、衣吹のその一言で魔法のように静まっていくのを感じた。誰にも見せるつもりのなかった心の柔らかな部分に、彼がそっと触れた、そんな気がした。
「だから、あれから、あの温室には行っていません。あなたの静けさを、これ以上壊したくなかったので。」
優しさに触れ、心がゆっくりと溶けていくかのようだった。私の凍てついた心に、温かい光を灯してくれた。
「──でも、」衣吹は少しだけ間を置いて、続けた。
「あんなに素晴らしい場所。なのに、老朽化で、再開発の計画があるんです。」
胸が締めつけられた。聖域が書き換えられる怖さ。
「設計コンペがあって、僕も参加しようと思っています。──僕は、あの空間が持つ本当の価値を探しています。」
衣吹の手でなら守られるかもしれないという予感。失われるのではなく、彼とともに息を吹き返す。そんな未来が、輪郭を帯びてゆくのを感じた。
(第三章へつづく)
