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【ビジ哲】再生編 #4 コスト削減案が「わかっていない」と言われる理由 — スピノザと感情の論理

コスト削減の提案をして、「間違っている」と言われるのは構いません。数字の話なら、数字で議論すればいいからです。

本当に手強いのは、「あんたはわかっていない」と言われたときです。

この言葉が出たとき、金額の妥当性をいくら説明しても事態は動きません。若い頃の私は、これを「現場が感情的になっている」と整理していました。論理の話に感情を持ち込まれては議論にならない、と。しかしキャリアを重ねるほど、考えは逆になりました。「わかっていない」と言われたとき、本当に何かをわかっていないのは、たいてい提案した側なのです。

では、何をわかっていないのか。第4回はこの問いを、17世紀オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザとともに考えます。感情を「論理の敵」ではなく、それ自体が厳密な法則を持つものとして扱った哲学者です。

「年間3200万円」と「うちの看板」

東和自動車の競争入札切り替えという衝撃は、田中製作所の再建計画を直撃した。売上側の前提が崩れた以上、コスト側で確実に手を打つ必要がある。三島は削減項目のリストを携えて、会議に臨んだ。

🧑‍💼 三島「削減候補は14項目。中でも効果が大きいのがこちらです。最終仕上げの研磨工程を外注に切り替える。年間3200万円の削減になります。外注先の品質は検証済みで、図面公差は問題なく満たせます」

その瞬間、会議室の空気が変わったのを沖田は感じた。現場リーダーの一人が立ち上がった。

「……あんた、本気で言ってるのか」

🧑‍💼 三島「数字の根拠をご説明しましょうか」

🧑‍🏭 野村「そういうことじゃない。あの研磨はな、田中製作所の看板だ。『最後の仕上げは田中さんに頼みたい』——そう言われて70年やってきた。俺自身、この会社に入って最初に叩き込まれたのがあの工程だ。それを、外に、出す?」

🧑‍💼 三島「お気持ちは理解します。しかし『看板』の価値は、少なくとも現在の受注価格には反映されていません。つまり顧客はその価値に対価を払っていない。維持コストだけが残っています」

🧑‍🏭 野村「——あんたは、わかっていない」

議論は、そこで終わった。反論ではなく、拒絶だった。

会議後、沖田は三島に尋ねた。

👩‍💼 沖田「三島さん。あの工程が現場の人たちにとって何なのか、誰かに聞いたことはありますか」

🧑‍💼 三島「意味や思い入れは、損益計算書には載りません」

👩‍💼 沖田「ええ。でも、意味を失った人が働かなくなることは、損益計算書に載ります。少し時間はかかりますけど」

スピノザ — 感情を「幾何学のように」扱った哲学者

スピノザは合理論の系譜に立つ哲学者です。主著『エチカ』は、定義と公理から定理を証明していく、まるで数学書のような体裁で書かれています。ここまで聞くと、三島側の援軍に思えるかもしれません。

ところがスピノザが『エチカ』でその幾何学的手法を向けた先は、意外なものでした。人間の感情です。

スピノザ的に言うなら、感情は理性の失敗でも、ノイズでもありません。感情は、原因と結果の連鎖の中で必然的に生じる自然現象です。雨が降るのに法則があるように、人が怒り、悲しみ、誇りを抱くのにも法則がある。だから感情は、嘲笑したり嘆いたりするものではなく、線や面を研究するのと同じ厳密さで理解すべきものだ——これがスピノザの立場でした。

その分析の中心に、シンプルな定義があります。スピノザは、自分の力が増大し活動へ向かうときに感じるものを喜び、力が減少し縮こまるときに感じるものを悲しみと呼びました。人間は喜びをもたらすものを愛し、悲しみをもたらすものを憎む。感情の複雑な渦も、突き詰めればこの力学で動いている、と。

このレンズで、田中製作所の会議室を見てみましょう。

三島にとって研磨工程の外注化は「3200万円のコスト削減」、つまり単なる数字の付け替えです。しかし現場にとってあの工程は、「最後の仕上げは田中さんに」と言われ続けた70年の証であり、野村が最初に叩き込まれた原点であり、自分たちの力の源泉でした。それを失うことは、スピノザの定義でいえば、自分の力が決定的に減少する出来事——純度の高い悲しみです。

「わかっていない」の意味が、ここで明確になります。現場は3200万円という計算を否定したのではありません。その項目が現場の力と誇りにどう接続しているかという、もう一つの厳密な事実が、三島の計算から丸ごと抜け落ちている。それを指摘する言葉が「わかっていない」だったのです。感情的なのは現場ではありません。感情という現実を計算に入れ損ねた分析の方が、スピノザ的には「非合理」なのです。

感情は、論理では動かない。では何で動くのか

ここでスピノザは、実務家にとって決定的に重要な定理を残しています。『エチカ』第4部にいわく、「感情は、反対のより強い感情によらなければ抑制されえない」。

つまり、感情を打ち消せるのは論理ではなく、別の感情だけだということです。

これは現場で毎日起きていることの、正確な記述です。誇りを傷つけられた悲しみは、「数字を見てください」という正論では消えません。正論はむしろ、悲しみに怒りを上乗せします。悲しみを動かせるのは、それより強い喜び——たとえば「自分たちの力がこれから増していく」という実感だけです。

だとすれば、コスト削減の設計は根本から変わります。問うべきは「どの項目を削れば数字が最大化するか」だけではなく、「削減によって生じる悲しみを上回る喜びを、どこに用意するか」です。たとえば研磨の技能を、外注品の品質を審査する側の仕事に転換する。あるいはその技能を高付加価値品の新ラインの核に据える。削る話と、力が増す話を、必ずセットで出す。それはきれいごとではなく、スピノザの定理に従った、感情の力学的に唯一成立する打ち手なのです。

コンサルタントの現場観察

私はコスト削減リストを作るとき、金額の欄の隣に、もう一つ非公式の欄を設けることにしています。書き込むのは「感情の温度」です。

同じ100万円の削減でも、誰の誇りにも触れない「冷たい項目」(たとえば使われていないシステムの保守料)と、誰かのアイデンティティに直結する「熱い項目」(たとえば創業以来の看板工程や、現場が育てた改善活動)があります。この温度は金額とはまったく相関しません。数十万円の項目が組織を燃やすこともあれば、数億円の項目がすんなり通ることもあります。

やり方はシンプルで、項目ごとに「これは誰の、どんな誇りに触れるか」を現場に近い人に聞いて回るだけです。そして冷たい項目から先に実行し、熱い項目は必ず「力が増す話」とセットで、時間をかけて扱う。この順番を守るだけで、削減の総額は同じでも、組織の消耗はまるで違ってきます。

逆に、最悪の手順も書いておきます。それは「金額の大きい順に、一律に、スピード重視で」やることです。合理的に見えるこの手順は、熱い項目を最初に踏み抜くことになりやすい。そして一度「わかっていない」の烙印を押されたら、残りの13項目は、どれほど冷たい項目でも通らなくなるのです。

マネジャーへの3つの問い

  1. あなたがいま進めようとしている施策のリストに「感情の温度」の欄を付けるとしたら、最も熱い項目はどれですか。それは誰の、どんな誇りに触れますか。

  2. 最近、部下やメンバーに「わかっていない」という反応(言葉にならない拒絶を含む)をされたことはありませんか。相手が守ろうとしていた「力の源泉」は何だったのでしょうか。

  3. 何かを削る・やめる話をするとき、それを上回る「力が増す話」をセットで用意できているでしょうか。

今回のまとめ

  • 「わかっていない」は感情的な反発ではなく、「この項目が現場の力と誇りにどう接続しているか」という事実が計算から抜けていることへの指摘

  • スピノザは感情を、嘲笑や排除の対象ではなく、幾何学と同じ厳密さで理解すべき自然現象として扱った

  • 力の増大が喜び、力の減少が悲しみ——コスト削減が触れているのは金額だけでなく、この力の感覚である

  • 感情は論理では消えず、より強い反対の感情によってしか動かない。削る話には「力が増す話」をセットで

  • 削減項目には金額とは別に「感情の温度」がある。冷たい項目から実行し、熱い項目を最初に踏み抜かない

次回予告

第5回は「なぜベテランの直感は正しいことがあるのか」。今度は経験の「力」の側に光を当てます。ロックの経験知をレンズに、野村たちの直感の正体を解剖します。

シリーズの全体像は紹介記事をご覧ください。

■ 再生編についてのお断り

このシリーズでは、議論をわかりやすくするために、コンサルタントを「論理的・合理的」、既存社員を「感情的・経験的」という対比で描いています。

実際には、感情を大切にするコンサルタントもいれば、論理的思考に長けた現場のプロフェッショナルも数多くいます。また、コンサルタントも現場社員も、それぞれの立場で誠実に仕事に向き合っています。

この対比はあくまで「合理論と経験論」という哲学的概念をわかりやすく体験していただくための設定です。特定の職種や立場を批判する意図は一切ありません。

登場人物・企業はすべて架空のものです。

なお、ビジ哲は哲学研究ではなく、哲学をレンズとしてビジネスの現実を考えるコンテンツです。本シリーズに登場する哲学者の思想は、原典の再現ではなく、物語のための翻案的な解釈だとご理解ください。

ビジ哲は哲学研究ではない——それでも哲学をビジネスに持ち込む理由

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