16.自分と向き合えるかどうか、それがいつも問われている
見聞きする様々な出来事も、自分の体験したことも全ては結局、自分とどう向き合うか、それが問われています。
つまり
体験したあとに何を選択していくのか、それが問われているんですね。
選択肢は、目の前に転がってます。
わき上がる感情に飲まれ、出てきた思考にコントロールされるのもひとつ。
感情は味わい切り、恐れを乗り越えて不要なエゴを手放すのもひとつ。
この違いは天と地ほどの差があります。
たとえば子どもが、親や先生から怒られることを恐れるあまり、噓をついたとします。すると、自身の正当性を守るため、さらに嘘をつき続けていくことになります。
その子は一時的にホッとする場面があるかもしれません。でも、こころのモヤモヤや罪悪感は消えません。やがてその出来事を忘れたとしても、潜在意識に刻まれた記憶は、やがて様々な場面で自身の言動をネガティブにコントロールしていくことになります。
昔、一件落着した後に、うちの子どもが言いました。嘘をつくのは苦しいんだね。嘘だってバレてなんだかホッとしたと。
自分の非を認め、結果を受け入れた先には、別の未来が開けていきますね。
最近の社会の出来事をあれこれ見るにつけ、当事者も見ている人も自分とどう向き合うか問われているんだと、あらためて考えさせられます。
それは、個人の問題だけではありません。組織、団体、グループ、企業など、人の集合体も同じですね。
どうしたら、しっかり向き合える?
自身の正しさに強くとらわれるほど、向き合えません。
だって、自分の中にある正しさから外れた自分を見たくないから。
認めたくない自分を見てしまうショックや悲しさから守るため、怒りを発動し、自分以外の人を悪者にするという選択をしてしまうんです。
歪んだ見方をしてこじつけ、自身の正当性を守り通そうとする可能性もあります。
自分を守るためにとった選択なのに、もっと自分を追い詰めていくことになっていきます。
こころの奥の更に奥の方で、「実は私が間違えているんだ」と、声にならないような声を上げていることがあります。すると、知らず知らずのうちに、自分の非を認めていないことに対する罪悪感を抱くようになり、苦しさは増すことになります。
つまり
自分の中にある価値観や判断基準等に執着しない方が、向き合いやすいんです。その方が、見たくない自分の存在を認めやすくなりますから。
頭の中で出来上がった価値観に強くとらわれるほど、自分のことも人のこともそこから外れていると、強く責めるんです。
執着し過ぎないためにはどうしたらいい?
必要なのは、日々の練習です。
出てくる感情も思考も全て、否定することなく出てきたことを認めてしまいます。
それは、人に感情をぶつけたり自分の考えを押し通したりすることとは違います。こころの中で、感情や思考の存在を認める作業です。
こんなこと考えちゃだめだとか、こんな感情が出てくるようじゃダメだと、責める必要はありません。
出てきたものをただただ、出てきたんだなと認めるだけ。その繰り返しです。
こんな自分じゃダメだと責めたなら、そうやって責めたこともただ認めるだけ。自分責めした自分を更に責める必要はないんです。
この練習だって、日によってできたりできなかったりします。それでいいんです。だから練習を続けるのみ。
練習に終わりはありません。何日、何週間、何か月、何年と続けるうち、執着の力は徐々に着実にゆるんでいきます。
そもそも完璧な人間なんていないということを忘れている
自分の正しさに強く執着してしまい、感情に飲み込まれたり恐れや不安にコントロールされてしまうなんて、誰にでもあることです。
大なり小なり誰だって経験してきています。
気付いたときふと立ち止まって、執着を手放していけばいいだけです。
私たちは、完璧なほど不完全な存在。成長する存在ともいえますね。
自分を責めることなく、出てきた感情や思考を認められるようになると、人に対する見方も変わってきます。
価値観・判断基準に対する執着が弱まるほど、自分にいい意味で寛容になれます。すると、面白いように人にも寛容になれています。
そういう人同士のかかわりは、新しい何かを生み出す可能性に満ちているように感じます。
だって、古い価値観にとらわれない発想がしやすいですから。
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