荒波を越えて「ネットゼロ」へ:世界を変える海運規制の最前線
国際海運業界がいま、地球規模の脱炭素化に向けた「歴史的な転換点」に立っています。IMO(国際海事機関)による規制は、世界貿易の9割を支え、全世界のCO₂排出量の約2〜3%を占める船舶からの排出を抑えるための世界統一ルールです。その必要性は明確でありながら、策定を巡っては各国の思惑が激しく交錯してきました。2023年に合意された「2050年頃までのネットゼロ」目標に向けた具体的なロードマップがいま、どのような現在地にあるのか。ロンドンで開催された最新会議MEPC84の議論と、今後の展望を詳しく解説します。
1. 本記事の要点
本記事は、2026年4月末から5月にかけて行われたMEPC84の議論を中心に、海運業界の脱炭素化を加速させる「ネットゼロ枠組み」の進捗をまとめたものです。
今回の会議では、米国などが主導した「炭素への価格付けを外し、技術基準のみに絞り込む」代替案が多数の賛同を得られず否決されました。その結果、当初のネットゼロ枠組みをベースに交渉を継続することで各国が合意したため、交渉が再び「軌道に乗った」という見方が広がっています。
今後の重要なスケジュールとして、2026年9月と11月に実務レベルの「閉会間会合」 を開催し、詳細を詰めた上で、同年12月のMEPC85において「ネットゼロ枠組み」の正式採択を目指す方針です。最終決断まで残り半年強。合意成立・骨抜き合意・再延期の3シナリオを念頭に置きながら、各国の動向を注視する必要があります。
2. 押さえておくべき主要ポイント
「排出強度」の段階的引き上げ
船舶が使用する燃料の炭素強度を、2028年に4%、2035年に30%削減するといった段階的な目標を設定する案が検討の土台となっています。これらの数値は、2023年に改定されたIMO温室効果ガス戦略(2050年頃のネットゼロ)およびIPCCの1.5℃シナリオとの整合性を踏まえて設定されており、単なる政治的妥協点ではなく、科学的根拠に基づく水準です。
世界初の「カーボン手数料」と基金の創設
目標を達成できない船舶から「補正ユニット(排出超過罰金)」を徴収し、それを原資として途上国の脱炭素化やクリーン燃料(ZNZ燃料)の開発を支援する「IMOネットゼロ基金」の設立が、議論の核心です。
この基金の設計において重要な未解決課題が一つあります。それは「誰が資金を管理・配分するのか」という課題です。IMO事務局が直接管理するのか、世界銀行などの既存国際機関に委託するのか、あるいは新設の独立機関を設けるのかによって、途上国への支援の実効性や透明性が大きく変わります。MEPC85に向けた閉会間会合では、この統治構造(ガバナンス設計)が交渉の焦点の一つになる可能性があります。
「野心派」と「慎重派」の熾烈な攻防
EUや太平洋諸国などが高い削減目標と課税を求める一方で、米国、サウジアラビア、そしてリベリアやパナマといった「便宜置籍船国」(外国の船でも比較的簡単な条件で自国の船籍(船の国籍)を与える国のことです。税金が安い、規制が緩やかといったメリットがあり、船の登録料が国の重要な収入源になっています。そのため、環境規制などの厳格化には慎重になりやすいのが特徴です)が、経済的負担や技術的中立性を理由に価格メカニズムの排除や目標の緩和を求めています。
「暫定的な妥協」か「真の合意」か
今回の会議では「米国主導の骨抜き案が否決された」という事実により、現行のネットゼロ枠組みが生き残りました。ただし、詳細設計(補正ユニットの価格水準・配分方法・免除規定等)は今後の閉会間会合に委ねられており、実質的な中身は依然として流動的です。「船はほぼ完成したが、内装の仕上げに多大な努力が必要」という状況です。
3. 「規制の断片化」が最大のリスク
IMO規制に先行する形で、EUはすでに2024年から海運をEU排出権取引制度(EU-ETS)に組み込み、FuelEU Maritime(燃料GHG強度規制)も2025年から施行しています。IMO規制が発効すれば、EU寄港船は以下の3つの規制に重複して対応することになります。
IMO ネットゼロ枠組み:補正ユニット購入・余剰ユニット取引
EU-ETS:排出枠(EUA)の購入・提出
FuelEU Maritime:燃料GHG強度の段階的削減
この重複構造はコンプライアンスコストの二重負担を生みます。MEPC85で採択される枠組みの中に「EU規制との調整条項」が盛り込まれるかどうかが極めて重要な点です。
またトランプ政権下の米国は、パリ協定再離脱に象徴されるように多国間の気候変動枠組みへの参加に消極的な姿勢を示しています。今回のMEPC84でも代替案の提示にとどまり、ネットゼロ枠組みへの積極的な支持は見られませんでした。こうした動向が続けば、単なる「交渉上の慎重論」を超えて、IMOという多国間機関の権威そのものを揺るがすリスクになりかねません。米国抜きのグローバルルールは形骸化しやすく、地域ごとに異なる規制が乱立する「規制の断片化」につながります。これは業界にとって、単一の厳しい規制よりも対応コストが高くなりかねないシナリオです。
4. 日本企業へのインパクト:コストか、機会か
見えにくい「炭素コスト転嫁」問題
日本の製造業・商社など荷主企業が見落としがちなリスクがあります。IMOの規制では補正ユニット(罰金)の支払い義務を負うのは船主・船舶運航会社です。しかし船主はそのコストを運賃に上乗せして荷主に転嫁しようとします。
たとえば日本のある輸出企業が海外に製品を送る際、運賃の中に「脱炭素コストがいくら含まれているか」を請求書から読み取ることは現状ほぼできません。近年、上場企業を中心にサプライチェーン全体のCO₂排出量(Scope 3)の開示が求められるようになっていますが、運賃に脱炭素コストが「見えない形」で混入してしまうと、荷主は自社の排出量を正確に把握・報告できなくなる可能性があります。
なお「どれだけ転嫁できるか」は市況次第である点も重要です。船腹が逼迫した好況時は転嫁可能ですが、供給過多の不況時は船主が損失を抱えます。炭素コストの実質的な負担者が市場の需給によって変わるという非対称性が、業界全体の課題として横たわっています。
日本の「妥協案」の戦略的背景
日本は、目標の緩和や基金への支払い義務の免除なども含めた独自の妥協案を提示しており、業界の負担軽減と脱炭素の両立を模索しています。日本はアンモニア燃料船や水素対応船の開発・建造において世界的に高い技術力を持っており、グローバルな脱炭素規制が強化されれば、これらの船種への需要が高まることが期待されます。
ZNZ燃料のボトルネック:規制と並行して解決すべき課題
アンモニアや水素といったZNZ燃料への転換に向けては「港湾インフラが整っていない」という供給側の制約も、大きな課題の一つです。IMOの補正ユニット制度や基金からの支援が、こうした港湾インフラ整備に実際に向けられるかどうかが、規制の実効性を左右します。
5. 炭素クレジット市場への影響
IMOネットゼロ枠組みには、排出削減を達成した船舶が「余剰ユニット」を取得し他の船舶に売却できる仕組みが含まれており、これ自体が海運版カーボンクレジット市場の誕生を意味します。
注目すべきはその価格設計です。EU-ETSでのCO₂コストが1トンあたり約60ユーロなのに対し、IMO補正ユニットの上限は最大380ドルと設計されています。この価格差があると、EU寄港船はどちらの制度で義務を履行するか、あるいは余剰ユニットをどの市場でいつ売るかを計算しながら動くようになります。これが「裁定取引」と呼ばれる行動で、ちょうど為替差益を狙うトレードに似たイメージです。ただし両制度の調整ルールが未確定な現時点では、こうした動きがどこまで実現するかは未知数です。
一点注意が必要なのは、EU-ETSでは排出枠が市場で売買され需給によって価格が変動するのに対し、IMO基金への拠出は「排出量に応じた固定の手数料」であり、価格が市場で決まるわけではないという点です。税金に近いイメージで、そのため純粋な「炭素市場」とは性格が異なります。船会社にとっては将来のコストが予測しやすい反面、「市場の価格シグナルによって脱炭素を促す」効果は限定的になるかもしれません。
6. 総合的な考察
排出削減という理想と、エネルギー安全保障という現実の狭間で、各国がいかに「信頼」を再構築できるか。米国の動向に左右されるIMOの権威をいかに維持するか。荷主と船主の間の炭素コスト帰着問題をいかに可視化するか。これらの問いへの答えが、2026年末の最終決断を左右することになるでしょう。
「船はほぼ完成したが、内装の仕上げに多大な努力が必要」という現状は、ゴールではなく、詳細設計に向けた新たな号砲です。今後の閉会間会合(9月・11月)の動向を引き続き注視していきます。
出典
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