アイダホ州、グランドビューの夏 1980年 / ワシントン州、果樹園の労働 1981/1982年
見出し写真:1980年夏 スネーク・リバー
フォード 4X4 ピックアップの荷台に乗せられてカウンティーフェアーから農場へ戻って来る途中に撮った写真ではなかったかと思う。最初、フォアマン(監督責任者)のまだら毛の飼い犬は、自分の居場所だとばかりにドライバーとの仕切りに近い方に陣取っていた。荷台後部に座っていると犬のよだれが走行中の風圧でビュンビュンと飛んできた。たまらず、まだら犬を足で蹴飛ばして後ろへ追いやった。
◎グランドビューの夏 アイダホ州 1980年夏

8月からアイダホ州ナンパの農場に2週間程、その後車で2時間半離れたスネークリバー沿いのグランドビューという集落の近くに位置する別農場へ移送され、10月末まで働いた。忘れたくとも忘れられないほど過酷な仕事だった。
雲一つない快晴が毎日続き、雲の気配が全く無いことに恐怖を覚えるようになった。
アルファルファヘイ(牧草)を育てるための、早朝と夕方に行う灌水パイプ移動作業が地獄だった。まず、ウン百メートルの長さに連続して繋げられた直径10cmくらい、一本の長さ20メートル弱のアルミニウム製灌水パイプラインの水の元栓(ライザー管)を締める。各パイプの中央にある高さ60cmくらいのスプリンクラースタンドからの散水が停止する。その後、連結されたパイプを一本ずつ、15~20メートルくらいずつ、隣の列の元栓に全て繋ぎ直す作業だった。はずしては繋ぎ、はずしては繋ぎながら移動させる。全部繋ぎ、ウン百メートル端までたどり着いたら、最後のパイプに栓をする。元栓(ライザー管)の位置までウン百メートル走って戻り、栓を開ける。その開けた瞬間、水圧とともにパイプとパイプを繋げるフックが、端からピシッピシッと水圧が増して、最後に各スプリンクラーから勢いよく少しずつ回りながら水が出始めるのだ。それが1ライン。その1ラインを仮に早朝4回なら、夕方4回繰り返された。水は、当然場所を移動しながら24時間出続ける。
船乗りが使うような腰まで長いゴム長を履いての作業だった。もちろん、動きづらい。体力的にしんどい。だがそれだけではなかった。パイプとスプリンクラーやフックなどの局所に24時間の間、猛烈な水圧がかかるのである。少しずつ緩んでくる。ある日、突然スプリンクラースタンドが知らないうちに外れるのだ。当然、フィールドの中に高い水柱が立ったりする。ちょうど、消防車から出る消火の水と同じ勢いのようものだった。一旦、事故が起こると水柱の周辺は、池のようになり膝頭より深くなった。
つまり、移動作業でびしょ濡れのパイプを持ち上げながらも、きちんとアルミニウムパイプとスプリンクラースタンドのねじ込みの装着部分が緩んでないかどうか注意をもしなければならない。だから、結構大きめのパイプレンチが必需品で携行しなければならなかった。
人件費の安いメキシコ人を使って行う灌水が人力で行うのが、農場経営者にとって当時一番安くあがる経済的な方法だった。メキシコ人には、時間給ではなく出来高払(ピースワーク、1ライン当たりいくら)だった。(想像だが、少なくとも、1980年代末までは続いたのではないだろうか、わからない)
仕事を始めた当初は、あまりに辛くて気が狂うのではないかと真面目に思った。辛い作業も少しずつ慣れるものだ。そのうちに問題は、いつまでこの仕事が続くのかということに気がついた。いつ雨が降り始めるのかと。
フォアマンの言うとおりだった。
短期実習でのアイダホ州グランドビューへ移動した8月中旬から9月20日まで雲ひとつない完璧な快晴が毎日ずっと続いた。どこにも日陰のない土地で働き続けるのは、つらくて農場から抜け出してどこかへ逃げてしまいたいといつも思った。実際に試すだけの度胸はなかった。そのうちメキシコ人労働者と働き始めるようになった。小柄だが鳩胸のような分厚い胸の若い不法労働者達は、どいつもこいつもタフだった。自分の精神的ひ弱さを感じざるを得なかった。
ただ、小麦、じゃがいもなど畑作での労働は、言いたいことを英語で説明できない分だけフォアマンの言う事が完全に理不尽になってしまった。だが、仮に英語が話せても喧嘩して辞めていくメキシコ人は絶えなかったくらい、やはりひどかったのだ。基本的に労働内容が無茶苦茶きつかった。フォアマンを背後からパイプレンチでぶん殴って逃げてしまおうかと本気で思ったくらいだった。正面からだととてもかなわない相手だったから。
相手を尊重しつつ殺すアメリカでは、殺される心配をしなければならないが、尊重されることなく生殺しされる日本(終いには自殺)との違いがわかったのは、アメリカでの生活から数年後のことだった。
◎果樹園の労働 ワシントン州 1981/1982年

長期実習での毎週月曜の朝はいつも絶望的な気分になった。
これから果樹園労働の長い1週間が始まるのかと思うとため息が出た。
だが、仕事を始めものの1時間で気持ちは急激にアップして攻撃的になり、やっと今日一日の何分の一かが過ぎてしまったのだと考えられるように変化した。月曜日の夕暮れには、まあ今週もどうにかなるかぐらいの精神状態になった。
ハイライトは時期によって異なるが、金曜日の午後か土曜の朝だった。
幸せ一杯という気持ちだった。それに、どんな仕事をしてもスポーツ感覚で最初から最後まで全力で行い終了、だから続いたのだろうと思う。精神的にいじめられることもなく、理不尽なことを要求される訳でもなかった。
仕事がきついとは言っても、他の分野、例えば酪農や肉牛といった分野と比べたら比較にならないくらい果樹園の労働は恵まれていた。休みが毎週きちんとあったからだ。肉牛農家のボスと喧嘩してその農場を出るはめになり、一時的に果樹園で働くことになった他の州から来た研修生本人から直接話を聞いて内実を知り改めて納得した。
彼が果樹園で最初に働いた日のこと、夕方5時30分になって仕事が終わりだと告げられた時、これは何かの冗談かと思ったそうだ。夕方の早い時間に仕事が終わることが信じられなかったそうだ。つまり肉牛、酪農農家の場合は、1日の仕事が長く、1週間に1、2日の休みではなく、1ヶ月に1日とかほとんど奴隷のような労働を強いられていたとのことだった。しかも給与体系も異なるらしく、トータルの労働報酬は果樹園の方がはるかに優っていた。
労働は、毎日コンスタントに4月以降、11月のりんごの収穫終了まで、そして朝4時から夕方6時までだった。冬の間は剪定、4月以降の潅水が一旦始まると朝一番4時、夕方5時の1日2回の頻度で、トラクタを使っての潅水パイプの移動、午前4時と午後5時の間は季節ごとに違う種類の労働を行っていた。昼は1時間休むことができた。果樹園の灌水パイプ移動は、畑作とは比べ物にならないくらい楽だった。
現在でも当時も、どこの果樹園、農場でもそうだが、メキシコ人労働者抜きにアメリカ農業は絶対に成立しない。思い出したように移民局が不法就労を取り締まるために訪れることはあるが、移民局と農場主は当然敵対関係にあった。政府も暗に現実として認めており、ほとんど年中行事みたいな規制だった。運悪く捕まえられてメキシコに戻されても、1週間後には同じ農場に戻っていたなどという話を始終聞いていた。しかも、当時、彼らは各州の自動車免許証を堂々と取得することができた。
過酷な上に、英語は聞き取れない、話せない、メキシコ人のスペイン語はわからないという状況がますます労働をつらくした。ウイークデイの楽しみは寝るまで白黒テレビを見ることだった。言葉はわからなくても意味は理解できた。
「マッシュ」「ヒルストリートブルース」「スリーズカンパニー」「タクシー」、特に毎週木曜夜9時から始まる「タクシー」は、テーマ音楽を聞いただけでうれしくなった。心の緊張が少しずつ溶けていくのがわかった。
只々、毎週末に買い物がてらウェナチーへ行くことと、同じ研修生宅に泊まることだけが楽しみだった。そして、日曜夕方、毎度いつものように暗い気持ちのまま、嫌々ながら果樹園に戻った。
もちろん何のための労働かといえば、単にアメリカにいることだけが目的だったかもしれない。研修どうのこうのなんて考えることはなかった。そして、カリフォルニアやニューヨークに行ってみたかっただけかもしれない。

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