大ボスの家族 ワシントン州 1980年~1982年
80歳近い農場の大ボスは引退し、実質的な農場の経営と管理を末っ子である次男が行っていた。次男と大ボスは名前が同じでジュニアと呼んで区別していた。当時で40歳前後くらいだったろうか。大ボスの子供は、長女、次女、長男、次男(ジュニア)の構成で、長女家族は隣に住み果樹園経営をしており、次女家族も近くの果樹園の中に住み、長男は10分ほど離れた所ではやり果樹園を経営していた。ジュニア自身は、高校生、長男は中学生、次男が小学生の子供たちを持っていた。どこを見回しても家族関係だらけだった。季節雇いで働きにやって来た白人の一人は、東西南北を家族で固めているのが気持ち悪いと言っていた。なるほどそうかもしれないが、実際にはその生活もその後数年続いただけで、80年代後半から始まった農業関係の大企業の攻勢で小規模農家は全て駆逐されることになったらしい。22年後この農場を再訪した時に、その後起こったその辺の事情について次女が説明してくれた。
ボス(ジュニア)は温和で滅多に怒ることはなかった。細かいことにこだわらず、少なくとも表から見る限りかなり大らかだった。農場にいる間は、本当によくしてもらったと思う。短期間働いたアイダホのジャガイモ農場のボスが発する雰囲気と全ての面で対照的だった。どこでも同じだが、いい奴もいるし気に入らない奴もいるのは当たり前だが、少なくとも大体の日本人が持つ神経質な部分がなかったことは確かだった。というのは、日系人二世の所へ行く機会があるたび、かなりの部分が英語を話すアメリカ人になっているのに必ずどこかに神経質さを感じることがあったからだ、そしてそれが気になって仕方がなかった。
ボスが何を考えているかは、普段のちょっとしたやりとりではわかりようもなかった。そんなものだろうと思っていた。積極的に英語を話そうともしなかった。当然、英語はうまくなりようがなかった。それが2年間続いてしまった。
大ボスとの場合など、誤解があったとしても英語でうまく説明できなかったのでいつもそのままの状態になった。時々、当時の中国と日本を完璧に勘違いしていることがあった。そばにいたジュニアに目配せをすると、わかっているよと返してきたことが何度かあった。

見出し画像 1981年春
