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たぶん、少し泣く|第七話 とまる

前回:第六話 もういちど

第七話 とまる


終わりの見える忙しさ

ゴルフ場のレストランは、静かな場所だった。

大きな窓の外には、手入れされた芝生が広がっていた。
朝の光を受けた芝は、時間によって色を変えた。
雨の日には、窓の向こうが白く煙り、遠くの木々がぼんやりとかすんで見えた。

ゴルフ場のレストランは、昼どきに忙しくなる。
ハーフコースを回り終えたお客様が、一斉に戻ってくる。
その時間だけは、店の空気が一変した。
注文が重なり、料理が続けて出て、空いた皿が次々に積まれていく。
水を足し、コーヒーを落とし、会計を済ませ、次の組の席を整える。

昼どきは、たしかに大変だった。
けれど、終わりの見える忙しさだった。
そこを乗り切れば、あとは片付けをして、翌日の準備をする。
そのまま打ち上げが入る日もあったが、それでも夕方には帰ることができた。
それは、レストランの仕事として納得できる忙しさだった。

町なかのレストランとは違っていた。
交差点の店のように、ひっきりなしに人が出入りするわけではない。
夜遅くまで営業が続くわけでもない。
売上を気にしながら深夜まで店に残ることもなかった。

パワハラのような圧力もない。
理不尽に責め立てられることもない。
無理な仕事を押しつけられることもない。

ゴルフ場特有の仕事もすぐに覚えた。
場所が変わっても、仕事の勘は残っていた。
ヴェルデで覚えたことも、クローチェで身につけたことも、活かすことができた。

年配客に冗談を言われれば、一緒に笑うこともできた。
仕事は、できていた。



違和感

はじめは小さなことだった。

注文を取り違えそうになる。
伝票の置き場所を一瞬迷う。
料理を運ぶ順番を確認し直す。
誰にでもある小さなミスだった。
すぐに直せる。
それなのに、身体が先に反応した。

動悸がする。
手の先が冷たくなる。
全身に汗がにじむ。
持っている伝票の端が、かすかに震える。

大丈夫だ。
頭では分かっていた。
それでも、厨房から大きな声が聞こえると、身体がびくっとした。

客席から大きな笑い声が上がる。
お客様が仲間内で冗談を言い合っているだけだった。
それでも、全身から汗が流れることがあった。

身体が勝手に反応してしまう。

一息つけば落ち着いた。
緊張が長く続くことはなかった。
けれど、だんだん、そうではなくなっていった。

ある時、いつも通りにテーブルに置こうとしたコーヒーカップを倒してしまった。
テーブルに置く直前に、手が震えてしまったのだ。
ガチャンという音を立てて、テーブルにコーヒーが広がる。
幸い、お客様にかかることはなく、「いいよいいよ。替りをちょうだい」と許してもらえた。
しかし、その音がいつまでも耳を離れなかった。


やがて、その反応は、店の中だけでは収まらなくなっていった。
帰り道のコンビニで。
買い物に寄ったスーパーで。
大きな音や声、光などに身体が反応してしまう。

動悸がする。
呼吸が苦しくなる。
おつりを受け取る手が震える。
得体の知れない不安が広がる。
家に帰ってからも、身体の緊張が抜けなかった。
お風呂に入っても、布団に入っても、喧騒が耳の奥に残っていた。

厨房から聞こえた声。
客席の笑い声。
食器が重なる音。
伝票をめくる音。
どれも特別な音ではなかった。
それなのに、思い出すだけで動悸がする。


玲がわたしの家に寄れないときでも、毎晩、電話で話していた。
一日の終わりに玲の声を聞くことは、生活の一部になっていた。

電話がつらかったことはない。
むしろ、その時間だけは少し落ち着いた。
けれど、いつの頃からか、わたしから話すことが少なくなっていった。
うまく話せなくなっていた。

「今日、どうだった?」
玲にそう聞かれると、わたしは少し間を置いてから答えた。

「うん。大丈夫だよ」
嘘ではなかった。
大丈夫。仕事はできている。

でも、平気ではない。
その違いを、うまく言葉にできなかった。

仕事ができないわけではない。
むしろ十分にできている。

職場が悪いわけでもない。
むしろ気遣ってもらっている。

時間に追われているわけでもない。
毎日暗くなる前に帰れている。

それなのに、身体が拒みはじめていた。
仕事ができることと、その場所に居続けられることは、同じではなかった。



無理はしないで

働けている。働かなくてはならない。
朝になるたびに自分を起こした。

けれど、家を出るまでに時間がかかる日が増えていった。
玄関で靴を履いたまま動けなくなる。
車のキーを手にしたまま、時計だけを見ている。
そんな朝が、少しずつ増えていった。

休むほどではない。
行ける。
そう思って、ゴルフ場へ向かった。


その日、仕事のあとに玲が来てくれた。
いつものように、玲が食事を用意してくれた。
いつものように、話しているつもりだった。
いつものように、笑えているつもりだった。

ふいに、玲の右手がわたしの左手に添えられた。

茶碗を持つわたしの左手はガタガタと震えていた。

「あっちゃん。もう無理しないで」



生活は続く

退職の話をしたとき、支配人はわたしを責めなかった。
「病み上がりの相沢君の事情は分かっていて採用したのに、入ってすぐにゴタゴタに巻き込んでしまった。申し訳なかった」
そう言って、支配人は頭を下げた。

……また、謝られてしまった。

申し訳なさと、情けなさと、無力感が残った。
今の自分に何ができるのか、分からなくなっていった。
足が震えていた。

そのあと、わたしは以前働いていたコンビニのアルバイトを続けた。
店長は、詳しいことを聞かなかった。
「相沢君だったら、短い時間でも入れる日に入ってくれるだけで助かるよ」
そう言ってくれた。

生活が完全に止まってしまったわけではなかった。
わたしはレストランから離れた場所で、なんとか日々をつないでいた。



やわらかな光

コンビニのアルバイトは続けられていた。
決められた時間に行き、決められた仕事をして、決められた時間に帰る。
それなら、なんとかできた。


「ねえ。久しぶりに外で食べない?」
ある日、玲が言った。

以前から気になっていたけれど、なかなか行けずにいた洋食店だった。
車で少し行ける距離にある、小さな店だった。

混み合う時間を外して、昼どきを少し過ぎてから入ったが、客席は半分ほど埋まっていた。
厨房からは、活気のある声とともに、料理の匂いが流れてきた。

幸い、震えなどはでなかった。

わたしたちは窓際の席に案内された。
レースのカーテンが日差しを柔らかくさえぎっていた。

わたしは、ぼんやりと店内を見ていた。
席の間隔。
照明の明るさ。
料理が出てくるタイミング。
店員の声のかけ方。
入口から客席までの流れ。

「やっぱり、あっちゃんは見るところが違うね」
玲が笑った。

「そうかな?」

「うん。わたしは料理ばっかり見ちゃうけど、あっちゃんはお店全体を見てる」
そう言われて、少しだけ照れた。

玲は、少し真剣な表情になった。
「あっちゃん。レストランで働くことだけが、レストランに関わることじゃないよ」
「ねえ、あっちゃん。あっちゃんはホームページ作れるよね?」

もともと機械いじりやパソコンが好きだったわたしは、趣味でHTMLの勉強もしていた。
「遊びみたいなものだよ」

「でも、あっちゃんは、お店のことも分かるし、料理のことも分かるし、接客のことも分かるでしょ。そういう人が作ったホームページの方が、ちゃんと伝わると思う」

「そうだね。うん……そうだね」

当時は、今ほどインターネットが身近ではなかった。
もちろん、スマートフォンもない。
それでも少しずつ、自前のWebサイトを持つ飲食店は増え始めていた。
玲は、そんなことまで考えてくれていた。

「あっちゃんは未経験からフロア長になれたし、料理もできるようになったんだよ。ぜったいにできるよ」
玲は、迷いなくそう言った。

注文したパスタが運ばれてくると、玲は「へえぇ」とつぶやきながら皿を見つめた。
それから、ひと口食べて、小さく頷いた。

「レモンと醤油が合うんだよねぇ」
玲が言った。

「少しのレモンで、後味がさっぱりするよね」

「こんど、家で作ってみるね」
そう言う玲の声は、少し楽しそうだった。
その顔を見ていると、昔に戻ったような気がした。

ヴェルデで働いていた頃。
休みの日に二人で店を回っていた頃。
料理の話をして、店の話をして、いつか自分たちの店を持てたらいいねと話していた頃。

なんだか、とても懐かしく感じた。



ヴェルデの味

数日後、玲は先日洋食店で食べたパスタを作ってくれた。
大葉とレモンのパスタだった。
隠し味に、ほんの少し醤油を使っている。

「この前のやつ、少し変えてみた」
玲はそう言って、皿を置いた。

ひと口食べると、レモンの香りが先に来た。
そのあとで、大葉の匂いと、醤油のやわらかい味が残った。

「お店の物よりレモンが強い。でも、玲の方がさっぱりしてておいしい」

「ふふふ。そうでしょ?」
玲は少しだけ得意そうに笑った。

昔も、こういうことがあった。
二人で食べに行った店の料理を、玲が家で再現する。
わたしはそれを食べて、あの店はもう少し塩が強かったとか、盛りつけはこっちの方がきれいだとか、そんなことを言う。

それからしばらくして、玲は少し手の込んだ料理を作ってくれた。
皿がテーブルに置かれた瞬間、香りで分かった。
ヴェルデのメイン料理の一つだった。

「カチャトーラだ」
わたしが言うと、玲は笑った。

「そう。ヴェルデではうさぎ肉だったけど、今日はお手軽に鶏肉だよ」

ヴェルデで出していたものとは少し違う。
それでも、懐かしかった。

何度も見た料理だった。
何度も運んだ料理だった。

「懐かしいでしょ?」
玲が言った。

「うん……すごく、おいしい」
下を向き、そう答えるのが、やっとだった。

玲は、わたしを元気づけようとしている。
ヴェルデで働いていた頃のように、料理の話をして、店の話をして、一緒に笑えるようになってほしかったのだと思う。

でも、皿の上にある懐かしい味は、わたしをあの頃へ戻してはくれなかった。

わたしは、自分が今居る場所を思い知らされてしまった。



カチャトーラの香り

その夜、玲が帰ってからも、部屋にはカチャトーラの香りが残っている気がした。
トマトの酸味。
ローズマリーの香り。
ヴェルデの頃の、明るい厨房の記憶。

玲は、わたしがわたしに戻れる道を探してくれている。
レストランで働けなくても、レストランに関われる道を探してくれている。
あの頃のわたしが戻ってくると信じてくれている。

けれど、わたしは何も返せなかった。

ゴルフ場のレストランには、半年もいられなかった。
コンビニのアルバイトは続けられている。
それでも、玲と暮らしを作っていけるだけの自分には戻れていなかった。

二人の結婚資金として、そして、いつかお店を出すためにと続けてきた貯金もとまり、徐々に持ち出しが増えていった。

玲を守ると誓った。
もう二度と泣かせないと誓った。
だけど、この二年ほど、わたしは何ができたのか。
何ひとつ形にできていない。

玲に心配をかけている。
玲を待たせている。
玲に余計な苦労をかけさせている。
それでも玲は、わたしの前に料理を置いてくれる。

わたしはもうすぐ30歳だ。
玲も28歳になっていた。
このまま玲の時間を止めていて良いのか。
その思いは、消えなかった。

なんども引き出しを開けては、そこに置かれた紙を見つめる。
布団に横になり、カーテンの向こうが白くなるのを見つめていた。



静かな夜

ある日の夜、仕事帰りの玲が、いつものように部屋にやってきた。
わたしは布団に横になっていた。

「具合はどう?」
心配そうに声をかけてくる。

「ありがとう。大丈夫だよ」
「玲、ちょっと来て」
わたしは玲を呼ぶ。

「うん。何か飲む物持ってこようか?」
そう言いながら、わたしの向かいに座る。

わたしは半身を起こし、玲に言った。
「玲。いつもありがとう……大好きだよ」

玲は、困ったように聞いた。
「どうしたの?具合でも悪いの?」

「玲、やっぱり、もう駄目だよ。別れよう」


玲は、ちょっと黙った後、言った。
「……なんで?」
「……結婚、するんでしょ?」

わたしは、なにも言えなかった。

玲は続ける。
「わたしは一緒に居るよ」
「あっちゃんなら、大丈夫だよ」
「そんなこと言わないで」
玲は、わたしを見ながらそう言った。

わたしは何も言わずに立ち上がり、引き出しに向かった。

玲。ありがとう。でも、もう駄目だ。
玲は、きっと、ずっと、わたしから離れない。
わたしは、その気持ちを壊さなければならない。

引き出しを開けて、しまってあった薄い紙を手に取る。
玲は、じっとわたしの動きを見ていた。

それがどれほど玲を傷つけるかわかっていた。
わたしは玲の向かいに座り、その紙を、玲の目の前で、できるだけ大きな音が鳴ってほしいと願いながら、ゆっくりと破いた。

破れる音とともに玲の目が見開かれていく。
玲は、そのまま動きをとめた。
やがて、ひゅぅっと息を吸う音が聞こえ、全身が痙攣のように震えた。
とても長い時間に感じられた。


「わかった……」
玲はそれだけ言うと、ふらふらと立ち上がり、こちらを振り返ることなく玄関へ向かった。

鍵を閉める、ガチャっという音がした。
その音を遠くに聞きながら、わたしは眠った。



たぶん、少し泣く

次回: 第八話 迎えに行く 


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