かぎりない庭 | 十九夜 兄とは別人
-兄とは別人-
兄は、いつもはしっかりしていました。
少し臆病でしたが、わたしよりずっと物を知っていて、算数も教えてくれました。
その朝、兄は茶の間で朝ごはんを食べていました。
兄は左利きです。
けれど、その日は右手で箸を持っていました。
「おにいちゃん、そっちじゃないよ」
わたしが言うと、兄は箸を見ました。
「そうだっけ」
そう言って、左手に持ち直しました。
母も、祖父母も気づきませんでした。
兄は登校するため、通学班の集合場所へ向かいました。
でも、帽子を忘れていました。
「おにいちゃん、帽子」
わたしが追いかけて持って行くと、
兄は、
「ありがとうございます」
と言いました。
すぐに「ありがと」と言い直して、ひったくるように帽子を受け取りました。
指が、少し痛かったです。
兄は、小学校から帰ってきたあとも、どこかおかしかったです。
ランドセルを背負ったまま、茶の間に座っていました。
母が、
「おにいちゃん、ランドセルを片付けてから座りなさい」
と注意しました。
兄は、
「ただいま」
と言って、わたしたちの部屋へ向かっていきました。
「なにか変ね。考えごとかしら」
母が心配そうに言いました。
兄は、茶の間で宿題を始めました。
計算ドリルを開いているのに、そこに漢字を書いていました。
「おにいちゃん、算数の宿題じゃないの?」
わたしは、ときどき兄に算数を教えてもらっていたので、そこに漢字を書くのは変だと思いました。
「いいんです!これで」
兄は、いつもより強めに言いました。
わたしは、計算ドリルに漢字を書き続ける兄を見ていました。
しばらくして、兄の宿題を見直した母が言いました。
「おにいちゃん、宿題でふざけちゃだめでしょ。先生に怒られるよ。どうしたの?」
兄は言いました。
「宿題の漢字、書けてるよ?」
「漢字ノートに書かなきゃだめでしょ!これは計算ドリル!」
母は怒っていました。
兄は、怒られているのに、あまり困った顔をしていませんでした。
茶の間で、母と祖母が話していました。
「おにいちゃん、朝から変なの。どうしたのかしら」
母は心配そうに言っていました。
「あのくらいの子はねえ。ときどきおかしくなるもんよ。あんただって……。まあ、かまってほしいんじゃないの」
祖母は、そう言いました。
夕飯のとき、兄は左手で箸を持っていました。
祖父が言いました。
「おにいちゃん、なんか考えごとでもあったんか。お母さんが心配してたぞ」
兄は言いました。
「気にしすぎです」
母と祖母は、きょとんとしていました。
祖父は、
「こりゃあ重症だな」
と言って、はっはっは、と笑いました。
夜になり、兄とお風呂に入りました。
兄は、わたしをじっと見ていました。
「どうしたの?」
「ん?なんでもないよ」
兄は、そう言って湯船のほうを見ました。
寝る時間になりました。
いつものように、兄と布団を並べました。
「おにいちゃん、おやすみなさい」
わたしが言うと、
兄は、
「たのしかったです。おやすみなさい」
と言いました。
それから、すぐにすーすーと寝息をたてはじめました。
翌朝、兄に起こされました。
「ねぼうだぞ。お母さんに怒られるぞ」
兄は、いつもの兄でした。
箸も、左手で持っていました。
帽子も忘れませんでした。
いつもの、しっかり者の兄でした。
夕方、学校から帰った兄が言いました。
「計算ドリルに漢字がいっぱい書いてあった……」
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