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大條家と伊達天正日記【3】

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現代語訳は、素人の私が独自に翻訳したものであり、学術的な正確性を保証するものではありません。
あくまで参考程度にご利用いただき、必要に応じて専門資料をご確認ください。


1. 天正16年7月21日:泉田重光の迎え

天正16年(1588年)7月21日
廿一日
天気よし、御野陣はらい也、佐御ちんひきハ夜半時分より御除候、こなたにて日出時分地、宮森迄御入馬にて候、晩かた御風呂へ御入候、晩ニ白石殿御めしあけ申され候、御相半衆元安斎・雪斎・伯蔵・七伯・原左御参候、従郡山中村主馬助・菅のひつ中守・大まち宮内少輔・松田七左衛門尉・太宰金七被罷帰候、大条越前守・松岡与惣左衛門尉、長井泉田殿御むかい被差越候、

天正16年(1588年)7月21日
二十一日、天気は良かった。野営の陣を撤収した。佐竹氏の陣引き(撤退)は夜半から始まり、こちらでは日の出の頃に宮森まで馬を進めて到着した。夕方、風呂に入られた。夜には白石宗実殿へ食事を振る舞い、御相伴衆として亘理元宗・留守政景・伯蔵・七宮伯耆・原田宗時が同席した。
郡山から中村主馬助・菅野備中守・大町宮内少輔・松田七左衛門尉・太宰金七が帰参し、大條実頼・松岡与惣左衛門尉を長井まで泉田重光を迎えに行かせた。

筆者訳

大條実頼は、伊達家と相馬・佐竹連合軍との間で勃発した郡山合戦で人質となっていた泉田重光を迎えに行きました。
これは大條実頼が単なる武闘派ではなく、交渉事にも長けた信頼厚い家臣であったことがわかりますね。
捕虜の扱いをめぐるこうしたやり取りは、戦国時代の合戦が単なる武力衝突ではなく、複雑な政治的駆け引きの場でもあったことも示しています。

2. 天正16年7月26日:泉田重光の帰還饗応

天正16年(1588年)7月26日
廿六日
天気雨ふり申候、福原殿御まいり候、石沢しゆりの助・同平十郎被罷出候、増田殿・西大枝殿被越候、大立目宮内少輔も被参候、米沢在郷衆各々被参候、御ゑず御ミせ候、夜ニ入泉田殿御めし御申候、御ひき出物御太刀被下候、御相伴衆打月斎・伯蔵・七伯・原左・大越にて候、岩城へ浜田、大筑被罷越候、

人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年

天正16年(1588年)7月26日
二十六日、雨が降っていました。
福原内蔵頭殿が参上しました。石沢修理之助と同平十郎も出仕しました。増田宗繁殿と西大枝殿が来訪され、大立目宗行も参上しました。米沢の在地衆(地元の武士)もそれぞれ参上しました。
(主君が)絵図をご覧になりました。
夜になって泉田重光殿をお呼びになり、御太刀を下賜されました。御相伴したのは、打月斎・伯蔵・七伯・原田左馬助・大條実頼でした。
また、岩城へは浜田景隆と大和田筑後が派遣されました。

筆者訳

天正16年7月21日、大條実頼は泉田重光を迎えに行きましたが、5日後の7月26日、饗応の宴が開かれ、大條実頼も相伴しています。

3. 天正16年7月29日〜30日:伊達政宗との鉄砲

天正16年(1588年)7月29日
(廿九日)
天気よし、藤田殿・たかたま殿御参候、
其後宮内大輔殿・右近大輔・鬼生田殿・内臓頭殿御参候、泥蟠斎も御登候、左馬助殿より鮭上御申候、
晩ニ高壱・伯蔵・大越・石見守御振舞候、
あさニ御鉄砲はせられ候、御鉄砲衆の御日起つき申候、

人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年

天正16年(1588年)7月29日
二十九日、天気が良かった、藤田宗和様と高玉様がお越しになった、その後で田村顕康殿・田村右近大輔・鬼生田殿・田村内蔵頭殿が参上された、小梁川泥蟠斎も一緒に来ていた、原田左馬助殿から鮭が献上されるとの申し出があった、夕方には高野壱岐・伯蔵・大條実頼・鬼庭綱元が酒宴を振る舞われた、朝には鉄砲を撃たれ、鉄砲衆の訓練が行われた

筆者訳

3日後にも大條実頼が再登場し、やはり酒宴を振る舞われています。この時は原田左馬助から献上された鮭が膳に上ったのではないでしょうか。
当時の鮭は貴重な食材で、献上品として届けられた鮭は、塩焼きや汁物、なます(刺身の酢漬け)などに調理されることが一般的だったようです。


天正16年(1588年)7月30日
晦日
あさニ御風呂へ御入候、御鉄砲はなさせられ候、御あいて衆鬼石・大越にて候、晩かたも御はなし候、田村衆新館肥前守・なかとろ源兵衛・かとうの平内被参候、国井丹波守従三春被罷帰候、

人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年

天正16年(1588年)7月30日
晦日(月末)
朝、主君(伊達政宗)は風呂に入られた、その後、鉄砲を撃たれた、お相手役は鬼庭綱元と大條実頼であった、夕方にも彼ら(鬼庭綱元、大條実頼)と会話をされた。
この日、田村家の家臣である新館肥前守・長瀞源兵衛・上遠野平内が参上した、また、国井丹波守が三春(田村氏の本拠地)から帰還した

筆者訳

大條実頼はまた翌日も登場します。
射撃を共にし、夕方には談話を重ねるなど、頻繁に伊達政宗に近侍していた様子が記録から伺えます。
帰参から一年未満で既に伊達家中で重要な地位を築き、伊達政宗からの厚い信頼を得ていたことがわかります。

4. 天正16年8月15日:伊達政宗との「謡」の稽古

天正16年(1588年)8月15日
八月十五日
一天気よしあさニ郡山殿大かん上御申候、名取谷津口文二郎与申者はやふさうちあけ申候、卵刻御うたい御けいこなされ候、御あいて七右衛門尉・大越・伯州伯蔵まいり候、福原殿鷹上申され候。
御礼衆泥蟠斎、其後盛重・桑折殿・自石殿・石河との・増田殿・藤田殿をののさふらい中御参也、
其後孫七郎殿・起雲斎・在郷衆被参候、そののち御ひかしへ御迎いとして御越候。御かへりニ鬼生田殿被懸御目候、そくも同前まいり候、いし沢しゆり被参候、そののち明王町御覧しに御出候、うりくそく参候、また大越ひき申候由、申来候、

人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年

天正16年(1588年)8月15日
八月十五日
一日中良い天気で、朝に郡山殿が大型の雁を献上し、名取谷津口の文二郎という者が隼を放って獲物を捕らえたと報告があった。
午前8時頃(卵刻)、政宗公は鈴木秀信大條実頼・七宮伯州・伯蔵を相手に謡の稽古をなさり、その後福原殿が鷹を献上した。
小梁川泥蟠斎が挨拶に訪れ、続いて国分盛重・桑折政長殿・白石宗実殿・石川照光殿・増田宗繁殿・藤田宗和殿ら多くの家臣が参上し、さらに孫七郎・起雲斎・在郷衆も挨拶に来た。その後、政宗公は東の方(お東の方=政宗の母親・義姫の居館か)へ迎えに出向かれた。帰り道では鬼生田殿とその息子がお目にかかり、石沢修理も参上した。
明王町を視察なさった後、具足の売り立てに関する報告があり、また大越紀伊が何らかの引き継ぎをしたとの知らせがあった。

筆者訳

大條実頼は伊達政宗の謡の稽古相手を務めるほどの教養人でした。
当時の謡は武家の最高教養の一つで、能の詞章を節付けて詠む高度な芸能でした。
これに付き合えるということは、大條実頼が単なる武人ではなく古典文学や音楽に通じた知識人だったことを示しています。

5. 天正16年8月16日:大條実頼の「指南役」

天正16年(1588年)8月16日
十六日
一天気雨降申候、あさニくそく御覧し候、夕めし桑折幡州へ御ふる舞被成候、御相伴衆富近・伯蔵軒・遠文・七伯、其後大条越前守御しなんにて商人より帯にてわかきたくひめしあけられ候、

人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年

天正16年(1588年)8月16日 
16日、一日中雨が降っていた。朝に(伊達政宗公が)具足をご覧になった。夕飯は桑折宗長のもとで御振舞(饗応)があった。お供として同席したのは、富塚近江・伯蔵軒・遠藤文七郎・七宮伯耆らである。
その後、大條実頼が指南役となり、商人から、帯を使って若木を固く結び目を作らせました。

筆者訳

ここはよく理解できませんでした。AI翻訳を使っても毎回異なる訳文が出てきて、結局曖昧な現代語訳のままです。
ただ、大條実頼が指南役を務め、商人と帯をめぐって何らかのやり取りがあったということは確かなようです。

続きはまた次回に記述いたします。


◼️参考資料
人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年
平重道『伊達治家記録』1973年

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