見出し画像

大條家と伊達天正日記【2】

【1】はこちら

現代語訳は、素人の私が独自に翻訳したものであり、学術的な正確性を保証するものではありません。
あくまで参考程度にご利用いただき、必要に応じて専門資料をご確認ください。


1. 天正16年3月23日:葛西からの帰還

 天正16年(1588年)3月23日
むま廿三日
一天気よし、大条越前守・遠藤将監か才より罷登被申候、夜二入、御西館ニ而御談合御座候

人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年

天正16年(1588年)3月23日
廿三日(馬の日)
一、天気が良かった。大條実頼と遠藤将監が、葛西から登城し、申し上げた。夜に入り、西館で談合が行われた。

筆者訳

大條実頼と遠藤将監は、葛西領(現在の宮城県南部から岩手県南部にかけての地域)から米沢城に到着し、登城したというニュアンスですね。
しかし、『伊達治家記録』の方は「廿三日丙午。大條越前実頼、遠藤将監、葛西より歸ル」と記されているため、あくまで「帰ってきた」というニュアンスのようです。
この点については、現時点では明確な結論を出せませんが、ただ、永住的な居住ではなく、一時的な出向のような形で葛西に滞在していた可能性は考えられますね。

2. 天正16年4月5日:嫡男 元頼を伴う拝謁

天正16年(1588年)4月5日
むま 五日
一天気雨降申候。高屋しやかの御鷹にて青鷺一ツ合上被中申候、従北条参候御馬御本走被成候、
大条越前守息両人参御申候、湯目なへニ御具足・甲被下候、大条越前守ハか黄鷹上御申候、
田副帯刀助松森より被帰申候。樋口所へ参候具足十リやう御めし被成候、

人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年

天正16年(1588年)4月5日
五日(馬の日)
一、雨が降っていました。御鷹屋にて、青鷺を一羽捕まえました。その後、北条の方へ参上し、馬を走らせました。大條実頼とその息子の両人がご挨拶に参上しました、湯目鍋丸に甲冑を賜りました。大條実頼は若い黄鷹を献上しました。田副帯刀助は松森から帰ってきました。樋口の所へ参上し、甲冑十領を賜りました。

筆者訳

「大条越前守息両人参御申候」とは「大條実頼とその息子の両名が御挨拶に参上した」という意味であり、この「息子」は当時生まれて間もない嫡男 大條元頼(後の着座大條家第二世)を指すものと推察されます。
なおこの日の「謁見」に関して、こちらの記事で背景や目的を考察しております。

3. 天正16年4月9日:伊達政宗からの朝食振る舞い

天正16年(1588年)4月9日
戌 九日
一天気よし
大森より本沢源七罷帰被申候、 支倉紀伊守御さかな上被申候、あさニ御ふる舞・伯蔵・七伯州・田むら孫九郎殿・大枝越前守・富塚内蔵頭・旧拙斎ニ御めあか鳥にてかん一ツあわせ、又二郎上被申候、御にかいのそかきとらせられ候、自本庄東船斎罷帰被申候、御鷹屋にて申あけられ候、大内方へ五十嵐豊前守被差越候、

天正16年(1588年)4月9日
九日(戌の日)
一、天気が良かった。
大森より本沢源七が帰参し、申し上げた。
支倉紀伊守が御肴(贈答品)を献上した。
朝に食事の振る舞いがあり、伯蔵、七宮伯州、田村孫九郎殿、大條実頼、富塚内蔵頭、原田旧拙斎が御目通り(お目にかかること)をした。
赤鳥にて雁を一羽合わせ、湯目又二郎が献上した。
御二階の塀や柵を整えさせた。
本庄東船斎が帰参し、申し上げた。
御鷹屋にて申し上げがあった。
大内定綱の元へ五十嵐豊前守を派遣した。

筆者訳

伊達政宗から朝食をご馳走になっていますね。
細かい点ですが、この日は「大枝」表記です。
兄の大條宗直は一貫して「大枝」と記されているのに対し、大條実頼は「大条越前守」とこの前後は記されているので、少し珍しいですね。
ただ、この時代は「条」と「枝」が入り混じっているので、単なる表記の揺れでしょう。

4. 天正16年4月21日:葛西家への使者

天正16年(1588年)4月21日
いぬ廿一日
ー天気雨少。中御ミけんのふしん御さ候。かん一ツ遠藤わかさあハせ上被申族、夜ニ入かさいへ御使ニ大条越前守おほせつけられ候、

人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年

天正16年(1588年)4月21日
二十一日(犬の日)
天気は雨が少し降っていた。中御殿の普請が三箇所で行われていた。雁一羽、遠藤若狭に献上された。夜になると、葛西(葛西氏)への使者として、大條実頼が派遣された。

筆者訳

大條実頼は葛西への使者として派遣されていますね。この時期はやはり葛西家に対する任務が多いです。

葛西家居城 寺池城
(Wikipediaより)

5. 天正16年5月13日:田村家への使者

天正16年(1588年)5月13日
うし 十三日
天気雨ふり申候、四時分宮森へめしつけられ候、自田村青木大和守被罷帰御やうたい被申上候、すなハち大条越前守さしそへられ御使ニ被指越候、

人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年

天正16年(1588年)5月13日
牛(うし)の日、13日
天気は雨が降っていました。四時ごろに宮森(宮森城)に到着されました。田村の青木大和守が帰参し、その様子を報告しました。すぐに大條実頼が加わり、使者として派遣されました。

筆者訳

葛西家への任務を終えて帰還した大條実頼は、早くも田村家への使者として再び起用されました。
この時、伊達政宗が駐留していた宮森城(二本松)から三春城へ向かった大條実頼の使命は、田村家中の伊達派を糾合し、相馬義胤の介入を阻むことにあったと考えられます。
当時の田村家は、田村清顕の死後、伊達派と相馬派に分裂しており、閏5月には相馬義胤が三春城乗っ取りを画策するも、伊達派の橋本顕徳らに阻まれるなど、情勢が緊迫していました。
こうした中、翌6月に田村月斎・田村梅雪斎が伊達軍の援軍として参戦していますが、その背景には、大條実頼の外交努力によって田村家中の伊達派が結束を強めたことが大きく影響していたと推察されます。
大崎合戦の敗北後、蘆名・相馬・佐竹の包囲網に苦しんでいた伊達家にとって、田村家の支持は戦略上不可欠でした。

6. 天正16年6月10日:伊達政宗との会食

天正16年(1588年)6月10日
たつ 十日
天気よし。
くろかこより何事無御座候由御注進申上御申候。はん方くひきらせられ御出候。三人御座候ヲ、二人きらせられ候、一人ハ日向ニきらせられ候、共後原田左馬助・即休斎・旧拙斎・大条越前守御ふるまいさせられ候。

天正16年(1588年)6月10日
今日は十日、天気は良かった。
黒籠からの報告によると、特に問題はないとのことだった。夕方になって、斬首刑が執行された。三人いたが、そのうち二人は斬られた。一人は日向(人名?)で斬られた。その後、原田左馬助、錦織即休斎、原田旧拙斎、大條実頼に振る舞いをなさった。

筆者訳

この日は伊達政宗からお茶や食事を賜りました。


7. 天正16年7月17日:伊達政宗と陣中相撲

天正16年(1588年)7月17日
天気曇申候、
しらと遠江参候、きる物被下候、志賀越中も被参候、
自福島大越・相馬通路へくさいたし二人うち参候。其後夜ニ入御鷹屋にてをのすもうとらせられ御覧し候。御上意御あいてニ大越参候。ほにまけ御申、しばらくうち御申なくして、やうやうこしをひきはい御申まかりたてれ候。
葛巻、大越・牛内・湯右御しはり候。松山遠藤使上被申候。御まく御したてなされ候。

天正16年(1588年)7月17日
天気は曇り。
白士遠江が参上し、着る物を賜った。志賀越中も参上した。福島より大越紀伊と、相馬通路から草を刈りに来た二人が参上した。
夜になると、御鷹屋で相撲を取らせ、それを見物した。御上意(伊達政宗)は、大條実頼と相撲を取った。
本番では投げ飛ばされて負け、しばらくの間何も言えず、ようやく腰を引きながら這うようにして土俵から立ち去った。
葛巻、大越紀伊、牛越内膳、湯村右近が取り仕切った。
松山の遠藤の使者が上申した。
御幕(陣幕)を仕立てられた。

筆者訳

『伊達天正日記』全体の中でも、この相撲のエピソードは特に有名なものの一つです。
この時期は郡山合戦の陣中で、伊達軍が佐竹・蘆名連合軍と40日以上も対峙していた最中でした。
兵数では600騎対4,000-8,000騎と圧倒的不利な状況下で、伊達政宗は岩城氏を仲介に和平交渉を進めており、まさに和議成立前日(7月18日締結)の緊張感が続く中での出来事でした。
大條実頼は、そんな中で安易に接待相撲をせず、あえて本気で投げ飛ばしてしまうところから高いコミュ力が窺えますね。

伊達政宗像
東福寺霊源院蔵

続きはまた次回に記述いたします。


◼️参考資料
人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年
平重道『伊達治家記録』1973年

いいなと思ったら応援しよう!