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大條道徳/伊達宗亮(大條家第十七世)【下】

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仙台藩を護り、城下を救った不撓不屈の義──大條家最後の"領主" 大條道徳について記述します【後編】 


1. 仙台藩の降伏と「命がけ」の降伏使者就任

明治元年(1868年)1月に鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が勃発すると、新政府軍は東北諸藩に対して会津藩討伐を強く要求いたしました。
仙台藩は当初6,000もの兵を討会軍として出陣させますが、同年4月26日に会津藩から謝罪と降伏の使者が到着したことで情勢は一変することとなります。
仙台藩主 伊達慶邦は5月3日に会津藩からの嘆願書を受け取ると停戦を指示し、5月4日には奥羽追討平潟口総督府に対してこの会津藩や庄内藩の寛典を求める嘆願書を提出いたしました。
さらに仙台藩と米沢藩は東北諸藩の代表を白石城に集めて列藩会議を開き、5月11日には諸藩連署による嘆願書を提出いたします。
しかしながら、5月17日に新政府側からこの嘆願が完全に拒否されると、東北諸藩は一転して会津救援のために結束する方針へと転換いたしました。
この緊迫した状況の中、すでに4月20日には新政府軍の強硬派であった参謀の世良修蔵が福島において仙台藩士らによって暗殺される事件が発生しておりました。
この事件を決定的な契機として新政府軍との戦闘が本格化し、5月6日には奥羽列藩同盟が成立、さらに越後諸藩が加わったことで5月23日には31藩からなる奥羽越列藩同盟が結成されるに至ったのです。
同盟軍は白河口などの各戦線において激しい奮戦を見せたものの、近代的な兵器の装備や指揮系統の差によって次第に圧倒され劣勢に陥ることとなりました。
仙台藩は8月の駒ヶ峰の戦いにおいて激しく抵抗を続けたものの、ついに敗色が濃厚となり、軍議所を坂元へ撤退させることを余儀なくされたのです。

奥羽越列藩同盟旗

8月25日、米沢藩の重臣である木滑要人と堀尾啓助の2名が仙台城へ赴き、仙台藩に対して降伏を勧告いたしました。
一方、かねてより朝廷への恭順を主張していた大條道徳と遠藤允信の両名が密かに連絡を取り合い、藩の反正帰順に向けた具体的な策を進め始めていたのです。
8月28日、仙台藩主 伊達慶邦より「降伏するべきか、それとも戦い続けるべきか」について各人の意見を申し述べよとの沙汰が出されました。これにより大激論が始まり、9月10日には6人の奉行(家老)が最後の議論を行いましたが、3対3で決着がつかず、最終的に伊達慶邦が加わり、仙台藩の降伏が決定しました。

この決定に対して激しい不満を抱いた松本要人ら交戦派の面々は、降伏派の逮捕を密かに謀ることとなりました。
さらに降伏方針が定まると、主戦派は「勤皇狩り」と称して勤皇派を激しく迫害しようと画策したのです。
しかしながら、これらの企ては阻止されることとなり、松本要人らは奉行職を解かれ、代わって大條道徳と遠藤允信の二名が奉行(家老)の職へ復帰することとなりました。

9月、仙台藩の命運を決することとなる降伏交渉の使者選定は、まさに藩の存亡の危機に直面した極めて重大な決断でありました。
なぜなら、これまで戦いを主導してきた交戦派の面々から使者を選ぶわけにはいかず、また戦いを強力に唆してきた者たちの多くは家格の低い家臣であったためです。
そこで、藩の重臣であり、なおかつ筋の通った勤皇派である人物として白羽の矢が立ったのが、大條道徳と遠藤允信でありました。
当初からこの両名は「錦旗への発砲は明白な反逆行為であり、自国を滅亡へと導く道である」と強く主張しておりました。
そのために当時の国論と真っ向から対立し、奉行職を免ぜられたうえで謹慎を命じられていた経緯があったのです。
しかしながら、この壊滅的な危機的状況を救い得る存在はこの両名をおいて他にはおらず、二名は奉行再役を命じられ、仙台藩の存続を賭けたこの重大な大任を全権として担うこととなったのでした。

激動の渦中にあった大條道徳は、幾度も命の危険に晒されることとなりましたが、中でも特に顕著であったのがこの時期の出来事であります。
奥羽越列藩同盟の崩壊後、仙台藩には最新のフランス式軍事訓練を受けた「額兵隊」が駐屯しておりました。
その隊長である星恂太郎は、降伏を推し進める大條道徳と遠藤允信の両国老の仙台屋敷を焼き討ちし、二名を処刑したうえで官軍に向けて進軍すべきであると激しく主張したのです。
しかしながら、その場に同席していた横尾東作が「両国老はすでに仙台城内に入っておられる。罪のない妻子を巻き添えにするような卑劣な真似は止めろ」と強く諫めたため、この凄惨な計画はかろうじて中止されることとなりました。
しかしながら、収まりのつかない額兵隊は、仙台城下の中心地である芭蕉の辻の御札場に対して「大條や遠藤らの奸臣を斬るべし」との脅迫的な立札を掲示いたします。
さらに9月15日には、藩校である養賢堂の前において威嚇のために大砲を三発発射したのち、本堂口へ向けて進軍を試みることとなったのです。この時、すでに謹慎の身であった仙台藩主の伊達慶邦が自ら出馬してこれを制止いたしました。
さらにその夜、大條道徳の屋敷にはピストルを携えた額兵隊の隊員が刺客として突如現れ、面会を強く求めてきたと伝えられています。

新政府軍への降伏に向けて、遠藤允信は相馬口における謝罪使の重任を務めることとなりました。
一方、大條道徳は単身で仙台城内に残り、降伏にともなう膨大な諸事務を一手に引き受け、実に五日間にわたって不眠不休で応対にあたったと伝えられています。
9月24日、仙台城の引き渡しが執り行われる際、大條道徳と遠藤允信の二名は白衣に裃を身につけた姿で城門に立ち、新政府軍をお迎えいたしました。
その身なりや佇まいは「あたかも自ら切腹して果てる覚悟のようであった」と後世まで語り継がれております。
新政府軍の参謀の一人は、「仙台藩の降伏がわずか三日遅れていれば仙台の市街は兵火に包まれていたはずであるが、大條道徳と遠藤允信の命を懸けた尽力によってこの惨事を免れることができた」と述べ、両名の決死の行動と功績を高く讃えたのです。

この時、二名が身につけた白衣の姿は、かつて仙台藩の藩祖である伊達政宗が豊臣秀吉の天下に対して命がけの覚悟を示すために白装束で臨んだ有名な逸話を強く彷彿とさせるものでした。
敗戦の責任を全身で引き受け、自らの命と引き換えにしてでも領民や城下を救おうとした大條道徳と遠藤允信の立ち振る舞いは、まさに仙台伊達家の誇りと不屈の精神を象徴する歴史的なオマージュであったと言えるかもしれません。

仙台城大手門
(昭和13年撮影)

2. 新政府首脳との交渉と28万石安堵の達成

降伏を果たした後、仙台藩の命運を全責任として背負い、遠藤允信と大條道徳の二名はそれぞれ東西に分かれて不眠不休の行動を開始いたしました。
遠藤允信は京都へ赴いて公家や朝廷関係者との緊迫した折衝に奔走する一方、大條道徳は東京において官軍の参謀である林半七と会談を重ね、仙台藩に対する懲罰的処分の緩和を粘り強く働きかけたのです。
さらに大條道徳は、宇和島藩の前藩主である伊達宗城をはじめ、岩倉具視や木戸孝允、勝海舟、土方久元といった新政府の中枢を担う首脳陣と幾度も直接面会を重ねました。
仙台藩が置かれた悲壮な苦境を繰り返し訴えながら、藩の存続と寛大な処置をどこまでも熱心に嘆願し続けたのです。

後年、大條道徳の嫡男である伊達宗康(大條家第十八世)は以下のように語っています。
「処分について父はまず第一に宇和島の伊達宗城公をはじめ、勝安房(勝海舟)、木戸孝允などと交渉したのであるが、最も力があったのは木戸さんであったようだ。この時、木戸さんは桂小五郎という浪人から一躍して天下の参与という大官になっており、父は逆に亡国の臣という立場だったから、初対面の時などはしばらく待たされ、やがて羽織袴の姿で現れた木戸さんが、落ち着いた様子で『仙台藩として別段、天子様に弓を引く意思などないのだから、悪いようには取り計らわぬ』と言われた時は、胸のつかえがすっと下りるほど安心して帰ったようだ。実にあの態度といい、風格といい、室内の様子といい、見上げたもので、こんな人物と比べて、俗悪で酒ばかり飲んでいる藩士たちでは、とても戦をしても勝てるわけがないとつくづく感じたという」

木戸孝允
(旧名 桂小五郎)

木戸孝允(1833年〜1877年)は、長州藩出身の幕末から明治維新期にかけて活躍した政治家であり、西郷隆盛や大久保利通と並ぶ「維新の三傑」の一人に数えられます。
桂小五郎の名でも広く知られ、尊王攘夷運動に深く参加したのち、倒幕運動の中心人物として獅子奮迅の活躍を見せました。
明治維新の後は新政府の主要な要職を歴任し、五箇条の御誓文の起草や廃藩置県、学制制定といった近代国家の建設に絶大な尽力を重ねました。
特に早期の憲法制定や議会政治の実現を強く主張し、現実的かつ漸進的な社会改革を推進していったのです。
1877年、西南戦争の最中に病のためこの世を去ることとなりましたが、木戸孝允の持っていた高い理性と先進的な思想は、近代明治日本の揺るぎない基盤形成に極めて大きく貢献しました。

大條道徳と遠藤允信は密に連絡を取り合いながら、まさに決死の覚悟で新政府との厳しい調整を進めました。
こうした精力的な外交努力がついに実を結ぶこととなり、同年12月、明治新政府は伊達宗基(伊達家第三十一世)による家督相続を承認し、減封後の所領28万石の安堵と日比谷新屋敷の下賜という、仙台藩にとって極めて寛大な処分が正式に決定されたのです。
そして大條道徳は、仙台藩の全権としてこの28万石の処分決定を受け取ると、12月31日には速やかに早馬を駆って東京を出発し、途中の宇都宮で元日を迎えた後、吉報を携えて仙台へと帰国することとなったのでした。

仙台藩は従来の62万石から28万石へと減封されることとなりました。
これは、新政府軍に抗した朝敵として、会津藩のように領地の大半ないし全てを没収されても決して不自然ではない絶望的な状況において、28万石もの所領安堵と伊達宗基の華族列席、さらには名門伊達家の家名存続が認められた極めて寛大な処分でありました。
この奇跡的とも言える成果は、大條道徳や遠藤允信らによる命を懸けた献身的な折衝工作が実を結んだ結果に他ならないのです。

明治2年(1869年)4月、仙台藩の存亡を懸けた戦後処理という歴史的な大役を果たし終えた大條道徳は、静かに奉行職を退くこととなりました。
安政5年(1858年)からのわずか11年間という奉職期間でありましたが、激動する幕末の動乱の中において仙台藩の国事に奔走し、幾度も死を覚悟するほどの波乱に満ちていた「仙台藩士としての日々」が、ここに幕を閉じることとなったのです。

同時期において、朝廷では仙台藩士に対する処分や評価の方針が決定され、大條道徳はその卓越した先見性と命がけの功績が認められ、「勤王尽力者賞」という誠に大きな名誉を受けることとなったのでした。

大條道徳
(明治維新後)

幕末の仙台藩において、様々な思想立場の藩士たちは、その選ぶ手段こそ異なれど、藩の未来を憂う熱き志は同じでした。戊辰戦争で武力抗戦の道を選んだ派閥の中には、明治新政府から汚名を着せられ、苛烈な最期を遂げた人々も少なくありません。
しかし、これらは混沌と激動の坩堝の中で下された裁断であり、その行動の根底には、それぞれが抱いた確固たる大義がありました。
この時代に、伊達家と仙台藩の行く末を案じ、己の信念に従って奔走したすべての藩士たちに、謹んで哀悼の意を捧げるとともに、深甚なる敬意を表します。


3. 「伊達宗亮」への本姓復帰と西南戦争での指揮

その翌年となる明治5年(1872年)5月14日、前藩主である伊達慶邦より旧藩士に対して本姓復帰令が出されました。
これを受け、大條道徳は「伊達宗亮」へと名を改めることとなり、これ以降における大條本家は再び伊達姓を名乗ることとなったのです。

この本姓復帰令により、仙台藩主家である伊達本家は、かつて徳川将軍家より賜っていた松平姓を返上し、正式に伊達姓へ復帰することとなりました(それまでの伊達本家における公的な呼称は「松平」でありました)。
これに伴い、仙台藩における諸分家もそれぞれの旧姓へ復することとなります。
たとえば、涌谷伊達家は亘理姓へ、水沢伊達家は留守姓へ、岩谷堂伊達家は岩城姓へとそれぞれ改められ、大條本家におきましても約450年ぶりに伊達姓を名乗ることとなったのです。

大條道徳から伊達宗亮へと名を改めてから5年の歳月が流れた明治10年(1877年)3月、西南戦争の鎮圧に向け宮城県において募集された臨時徴募巡査700名の総括責任者に任じられるました。
明治政府は西郷隆盛らの士族反乱に対処するため、全国各地の旧藩士族から名望と高い戦闘能力を有する人材を選抜する方針を採り、伊達宗亮(大條道徳)はその指揮と選抜の全権を託されるに至ったのです。

西南戦争とは、明治10年(1877年)に発生した士族による日本史上最大規模の内乱であります。
西郷隆盛を中心とする鹿児島の旧士族勢力が、明治政府の推し進める廃刀令や秩禄処分といった急進的な近代化政策に激しく反発し、武力をもって抵抗いたしました。
戦いは熊本城を巡る激しい攻防戦から始まり、九州各地で激戦が繰り広げられたものの、近代的な兵器と豊富な物量を誇る政府軍の前に、西郷隆盛らの軍は次第に圧倒され追い詰められていきます。
約8か月に及ぶ壮絶な戦いの末、西郷隆盛は鹿児島城山において自刃を遂げ、反乱は終結を迎えました。
この戦争の結末によって武力による士族の抵抗力は完全に失われ、明治政府による中央集権体制の構築が一気に加速することとなりました。
西南戦争は、明治維新がもたらした社会構造の歪みと矛盾が一度に表面化した未曾有の動乱として、日本近代史において決定的な意味を持っているのです。

西南戦争
鹿児島暴徒出陣図

同年3月12日、伊達宗亮(大條道徳)は巡査隊を率いて東京へと出発いたしました。
東京に滞在中は朝廷の指揮下において軍事支援の任務に従事し、隊員たちに対して「一致協力して忠勤を尽くすように」と厳格に指導するなど、士族出身者を一つに束ねる重要な役割を果たしたのです。

西南戦争の終結後、戦時における多大な功績が認められ、明治11年(1878年)2月には慰労金25円を下賜されました。
さらに明治12年(1879年)12月にも、戦時中の熱心な尽力に対して賞金35円が授与されています。

こうして、波乱に満ちた幕末の動乱を生き抜き、新たな時代の治安維持にも力を尽くした伊達宗亮(大條道徳)の公的な歴史の表舞台における活躍は、ここに静かに幕を下ろしたのです。
450年にも及ぶ大條家の歴史を継承し、伊達姓として新たな歩みを始めたその人生はその後も続いていきますが、公職を退いたこの時をもって、一つの時代がたしかに幕を閉じました。

4. 「伊達翠雨」としての活動

伊達宗亮(大條道徳)は、公的な役職から退いた後、「翠雨」「翠塢」「古蓑城」などの雅号を用いる文人として、穏やかな第二の人生を歩み始めます。
主に書画を中心とした活動を行い、数多くの南画作品を残しました。また詩や書を嗜み、骨董蒐集にも親しむなど、芸術に囲まれた晩年を過ごしたのです。
特に「伊達翠雨」の名で知られる画家としての活動は特徴的でした。「古画二倣い敢えて師伝受ケズ」と紹介されている通り、特定の師を持たず、代わりに様々な画家の作品を模写することで技法を習得していました。現存する模写資料からは、円山応挙・呉春・森徹山・森一鳳・椿椿山・渡辺崋山・岡本秋庫といった全国的に著名な画家から、仙台四大画家(東東洋・小池曲江・菅井梅関・菊田伊州)や茂庭竹泉など地元仙台の画家まで、実に幅広い作品を研究していたことがわかります。
明治中期から大正期にかけては、仙台を中心に開催される「書画会」に積極的に参加し、渡辺小崋・野口幽谷・茂庭竹雨・川村雨谷ら多くの文人と交流を深めながら、自らの画法を磨いていきました。さらには仙台で開催されていた書画・美術講究会の幹事・補佐を務めるなど、地域の美術界において指導的な役割を果たしています。こうした活動を通じて、「伊達翠雨」としての芸術はさらに深みを増していったのでしょう。

その後、明治40年(1907年)に隠居し、嫡子である伊達宗康(大條家第十八世)へ家督を譲りました。
大正2年(1913年)には仙台市公会堂において金婚式を執り行うなど、家族とともに穏やかで平和な晩年を過ごしたのです。

5. 87年の天寿と「不撓不屈の義」の遺産

そして大正13年(1924年)3月2日、幾多の風雪を越え、雅やかな晩年を慈しんだ87年の尊い人生に幕を下ろしました。
幕末の動乱から明治維新、そして大正の時代へと、激動の歴史を生き抜いた伊達宗亮(大條道徳)の人生は、ここに静かに終止符が打たれたのです。
伊達宗亮(大條道徳)の生涯は、まさに幕末という激流そのものを体現するものでありました。
伊達家存亡の絶体絶命の危機に際し、大條家十七代にわたって絶えることなく受け継がれてきた武門の覚悟を一身に背負い、不退転の決意で事に臨んだその姿は、戊辰戦争の混迷を極める政局の中にあって、仙台藩そして伊達家を守り抜く不動の支柱としての使命を見事に全ういたしました。

その後の文人としての人生は、この激闘の記憶を静かなる創造へと昇華させた実り多き時期でありました。
筆が紡ぐ一幅の絵画や一首の詩には、武士としての厳しさと文人としての優しさが気高く共存しています。

大條宗行(大條家第一世)以来連綿と続く「大條家の血脈」は、大條道徳(伊達宗亮)において最高の形で結実いたしました。
幕末における果断な決断、明治新政府との緻密な折衝、そして文人としての深い研鑽――
これら三位一体の活躍は、大條道徳(伊達宗亮)の卓越した才覚と、大條家十七代にわたって受け継がれてきた家風の真髄が美しく響き合い、成し遂げられた不朽の偉業であったのです。

今もなお奥州の地に深く根づくこの結実の光は、静謐に包まれながら燦然と輝き続けています。


◼️参考資料
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年
山元町歴史民俗資料館『大條孫三郎道徳と伊達宗亮  幕末を生きた仙台藩士の生涯』2009年
伊達宗行『翠雨山房夜話(上)』 1988年


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