大條道徳/伊達宗亮(大條家第十七世)【上】
復姓後:伊達宗亮
幼名:多門
通称:孫三郎
生誕:天保9年(1838年)1月7日
死没:大正13年(1924年)7月3日
諡名:碩寛院殿竹堂翠雨大居士
父母:大條道洽 / 伊達宗茂(大條家第十六世)、みち(西大條兵庫の娘)
兄弟:なし
妻:延(天童右馬介の娘)
子供:大立目きく、菊地志げ、伊達宗康(大條家第十八世)、伊達敬二郎(早世)、伊達英之進、伊藤梅、大友とみ、伊達亮治、菊地あや、松野亮之進、平沢亀一郎
仙台藩を護り、城下を救った不撓不屈の義──大條家最後の"領主" 大條道徳について記述します【前編】
1. 養賢堂での学びと伝統の名「孫三郎」継承

(明治維新後)
大條道徳は、天保9年(1838年)1月7日、大條道洽(大條家第十六世)の嫡男として誕生いたしました。
幼名は「多門」と名付けられましたが、この名はかつて大條道頼(大條家第十二世)や大條道直(大條家第十五世)という大條家屈指の名君が名乗った伝統ある幼名でありました。
弘化3年(1846年)頃からは仙台藩の藩校である養賢堂に通って学問に励み、
嘉永5年(1852年)に15歳で元服を迎えた際には、養賢堂の学頭であった大槻習斎から「道徳」の名を授かることとなったのです。

「仙台観光情報サイト せんだい旅日和」より転載
「養賢堂」は、元文元年(1736年)に仙台藩の学問所として設立されました。
その後、大槻平泉らによる改革で、漢学や蘭学、武術など12の学科を備える総合的な教育機関へと発展します。現在、唯一残っている遺構は、かつての正門であり、この門は仙台市若林区の泰心院の山門として移築され、今も重厚な姿を見ることができます。
安政5年(1858年)、21歳となった大條道徳は、父である大條道洽(大條家第十六世)の名代として御奉公を命じられることとなりました。
同年3月には、仙台藩主である伊達慶邦の帰国御礼の使者として江戸へ登り、5月7日に無事仙台へと帰国を果たしたのです。
安政5年(1858年)、江戸幕府が朝廷の許可を得ないまま日米修好通商条約を締結したことにより、幕府の専制を非難する「尊王攘夷」運動と、朝廷と幕府の協調による政治改革を目指す「公武合体」運動が全国で急激な高まりを見せることとなりました。このような緊張した情勢の中、仙台藩では表向き「攘夷論」を藩是として掲げていたものの、藩内においては尊王攘夷派と公武合体派の藩士たちの間で激しい論争が繰り広げられ始めていたのです。
安政6年(1859年)8月、大條道徳は御近習御中次番頭兼役に就任した際、
仙台藩主である伊達慶邦から直々に「孫三郎」という通称を賜ることとなりました。
「孫三郎」は、大條家の祖である大條宗行(大條家第一世)が名乗った非常に由緒ある通称でありました。かつて大條道頼(大條家第十二世)の嫡男であった大條実寿が一時的にこの名を継承したものの、早世を余儀なくされたため、最終的に大條家の当主として正式に「孫三郎」の名を継承したのは大條道徳が最初となったのです。
400年も前となる大條家初代の通称をあえて授けるという行為は、単なる形式的な命名にとどまらず、大條家が仙台藩の藩政において極めて重要な地位を占めていたことの明確な証左と言えるでしょう。
この安政6年(1859年)という年は、まさに安政の大獄が吹き荒れ、天下の大名や藩士たちが疑心暗鬼に陥っていた時期でありました。
そうした極度の緊張状態の中で、仙台藩主である伊達慶邦が大條道徳に対して「400年前の大條家初代の通称(孫三郎)」を授けたことには、単なる恩賞以上の強烈な政治的メッセージが込められていたと考えられます。すなわち、「伊達家と大條家は室町時代から何百年も苦楽を共にしてきた血族であり、臣下である。この未曾有の国難においても、原点に立ち返って藩を支えてほしい」という、君臣の結束を再確認するための高度な精神的アプローチであったと言えるでしょう。
その直後に、藩主の側近として江戸や京都という当時の政治の二大震源地へ随行していることからも、若き大條道徳への伊達慶邦の絶対的な信頼が見て取れます。
続いて安政6年(1859年)11月、大條道徳は仙台藩主 伊達慶邦に従って江戸へ赴き、同年12月16日には京都への上洛にも供奉しております。さらに帰国に際しての御礼として再び江戸へ立ち寄り、第十四代将軍である徳川家茂への謁見を賜ることとなりました。

(江戸幕府第十四代将軍)
2. 23歳での若年寄抜擢と緊迫する幕末情勢
万延元年(1860年)、仙台藩主である伊達慶邦の江戸下向に随行し、その道中にて御小姓頭および江戸番頭を命じられることとなりました。
同年7月27日には御徒御小姓頭を兼任し、さらに9月23日には御小姓組番頭へ就任、そして同年12月15日には、わずか23歳という若さで若年寄へ抜擢されるなど、極めて短期間のうちに藩の重要な役職を立て続けに歴任していったのです。
3. 尊王攘夷をめぐる「上洛問題」と失脚の試練
文久2年(1862年)、近衛忠煕が関白へ就任した出来事は、仙台藩の幕末政治史における極めて重要な転換点となりました。
この時期、開国か攘夷かを巡る政局はますます緊迫の度を深めており、薩摩藩の島津久光が兵を率いて上京するなど、有力な雄藩による中央政治への介入が急速に本格化しつつありました。
こうした激動の情勢下、仙台藩は遠藤允信を祝賀の使者として上京させましたが、この際に朝廷から攘夷決行に向けて「仙台藩単独での上洛」を命じる沙汰を受け、そのまま帰藩することとなります。
その一方で、江戸幕府も同年11月に「将軍の上洛に際しては仙台藩もこれに随従するように」との命令を出しており、朝廷と幕府の間で仙台藩を自陣営に取り込もうとする熾烈な主導権争いが生じていたことが明確に見て取れます。

遠藤允信(1836~1899)は、幕末期の仙台藩重臣。通称 文七郎。家老を務めた遠藤大蔵の長男として仙台城下に生まれ、養賢堂で朱子学を修め、水戸学に傾倒しました。1854年に家督を継ぎ、藩主 伊達慶邦に仕えます。文久2年(1862年)、上洛した際に尊王攘夷思想に共鳴し、帰藩後は藩論を尊攘で統一しようと奔走。朝廷への勤王表明を主張し、近衛忠煕に攘夷実行を働きかけました。晩年は塩竈神社宮司を務め、64歳で没。気性の激しさと明晰な言動で知られ、仙台藩の幕末動乱期を象徴する人物です。
すなわち、朝廷からは「単独での上洛」、江戸幕府からは「将軍への随従による上洛」という真っ向から対立する命令が下されることとなり、仙台藩の内部ではその対応を巡って激しく意見が紛糾いたしました。
これに対し、遠藤允信や大條道徳をはじめとする尊王攘夷派の面々は、関白である近衛忠煕の勅諚を再度獲得しようと画策し、仙台藩主 伊達慶邦へ精力的に働きかけることで、再び京都へ使者を派遣する指示を取り付けるに至ったのです。
4. 奉行職への復帰と大政奉還・王政復古
文久3年(1863年)1月、特使として三好監物を京都へ派遣したところ、関白である近衛忠煕からの書状に「正義の者を随従するように」との一節が記されていたことで、これが藩内に新たな紛糾を招くこととなりました。
遠藤允信や大條道徳らの尊王攘夷派はこの機に乗じて「単独での上洛」を強く主張し、藩論を一気に尊王攘夷主義で統一しようと画策したのです。
これに対し、保守派である但木土佐らは「将軍への随従による上洛」を譲らず、同年1月18日には片倉小十郎、但木土佐、佐々雅楽、遠藤允信といった重臣たちが仙台藩主である伊達慶邦の御前で激しい論争を繰り広げました。
しかし互いに意見の対立は極めて深刻であり、容易に結論へ至ることはできませんでした。
文久3年(1863年)は、全国において尊王攘夷運動が最高潮に達した年でありました。
長州藩を中心とする急進派の志士たちは「夷狄を撃つべし」と強く主張し、孝明天皇の強固な攘夷の意思を背景として一気に勢力を拡大していきました。これに対して、江戸幕府や親藩および譜代大名たちは「公武合体」路線を堅持し、朝廷と幕府が協調することによってこの国難を乗り切るべきであると主張したのです。
この年の5月、十四代将軍である徳川家茂は攘夷の実行を朝廷へ約束して上洛を果たしたものの、幕府が現実的な開国政策を維持し続けたことにより、両陣営の対立はいよいよ決定的なものとなりました。
この大激論が行われた翌日である1月19日、大條道徳、遠藤允信、中島恒康らは協議を重ね、但木土佐らの姿勢を強く弾劾いたしました。
これに対して但木土佐も遠藤主税らと会合を開き、「大條道徳、遠藤允信、中島恒康らが私党を結成し、国政を私的に決定しようとしている」と主張して、尊王攘夷派の排斥を激しく訴えたのです。
こうした熾烈な政治的対立が続く中、1月28日に形勢は急転することとなります。
大條道徳が処罰されて蟄居処分となり、遠藤允信と中島恒康は閉門処分、さらに佐々雅楽も奉行職を解任されるに至りました。
これにより、大條道徳をはじめとする尊王攘夷派は仙台藩の主流派から完全に排除されることとなったのです。
この仙台藩における劇的な政変は、その後の藩の命運に極めて重大な影響を及ぼす決定的な出来事でありました。
仮にこの時、大條道徳らの尊王攘夷派が藩政の主流としての地位を保ち続けていたならば、仙台藩が辿った幕末の結末は全く異なるものになっていたと言えるでしょう。
文久3年(1863年)当時における仙台藩の主な対立派閥の顔ぶれは、以下の通りでありました。
主な尊王攘夷派
大條道徳、遠藤允信、中島恒康
主な佐幕派(保守派)
但木土佐、坂英力、遠藤主税
後年に伝えられる、この時期に大條道徳が3度にわたって自刃を決意したという逸話は、単なる失意の表れにとどまらず、自らの政治的信念と武士としての矜持が極限まで試された結果と言えるでしょう。
この壮絶な試練は、大條道徳のその後の人生観や政治姿勢に対して、極めて深い刻印を残すこととなったのです。
文久3年(1863年)2月3日、仙台藩主 伊達慶邦は、但木土佐をはじめとする佐幕派の家臣らを伴い、上洛の途につくこととなりました。
同年3月1日に京都へ到着いたしますが、第十四代将軍である徳川家茂が3月4日に到着したため、これはわずか数日先行しただけの形ばかりの単独上洛という形式をとったに過ぎませんでした。
さらに、道中の閏2月14日には江戸にて将軍に謁見を果たしており、その実態は将軍への随従による上洛と何ら変わらない行動でありました。
このように、仙台藩は形式上の体裁を取り繕いつつ、朝廷と幕府の双方に顔を立てようとする中立主義を貫いたのです。
入京後もわずか23日間という極めて短期間で京都を去った姿勢は、あたかも政局から逃避するかのような印象を周囲に与えることとなりました。
こうして仙台藩は、激動の幕末において中央政局の主導権を握る決定的な機会を、永久に失う結果となったのです。
文久3年(1863年)1月の上洛問題を巡る政変から時が流れ、元治元年(1864年)8月には大條道徳が藩政の表舞台へ復帰を果たし、奉行職に就任いたしました。
この人事を契機として、仙台藩における政治の主導権は再び大きな変化を見せ始めることとなります。
慶応2年(1866年)から慶応3年(1867年)にかけて、中央政局はまさに激動の連続でありました。
第二次長州征伐の失敗によって江戸幕府の権威が大きく揺らぐ中、慶応2年(1866年)12月には徳川慶喜が十五代将軍へ就任し、さらに翌慶応3年(1867年)1月には明治天皇が即位されるなど、時代は決定的な転換期を迎えておりました。
こうした中央政界における怒濤の激変は、仙台藩の内部にも多大な影響を及ぼし、いよいよ新たな時代への対応を強く迫られることとなったのです。

(江戸幕府第十五代将軍)
仙台藩はこれまで、朝廷と徳川将軍家の間で付かず離れずの姿勢を維持し続け、上洛や上府の要請に対しても仙台藩主が自ら直接応じることはせず、名代や使者を派遣することで対応をすり替えてまいりました。
慶応3年(1867年)10月、朝廷から仙台藩主自らの上洛が強く命じられた際にも、仙台藩主である伊達慶邦は但木土佐を名代として京都へ派遣するという、従来通りの曖昧な対応を重ねたのです。
そして、まさにその直後となる同年10月14日、第十五代将軍 徳川慶喜が大政奉還を断行することとなりました。

大政奉還とは、慶応3年(1867年)に江戸幕府の第十五代将軍である徳川慶喜が、朝廷に対して政権の返上を申し出た歴史的な出来事であります。
これにより約260年間にわたって続いた徳川将軍家による政治支配が終わりを告げ、その後の明治維新へと繋がっていくこととなりました。
この背景には、薩摩藩や長州藩をはじめとする雄藩の急速な台頭、外国との不平等条約を巡る諸問題、ならびに国内における凄絶な政情不安が存在しており、徳川慶喜は政権を朝廷へ一旦返上した上で、自らを頂点とする新たな諸侯会議形式の政治体制を構築することを構想していたのです。
そして同年12月9日、朝廷は「王政復古の大号令」を発布し、徳川幕府の廃絶ならびに総裁、議定、参与からなる新政府の樹立を公式に宣言いたしました。
これにより、260年余りにわたって続いた江戸幕府による統治体系は完全に終焉を迎え、明治維新という新たな時代の幕が開けることとなったのです。
「王政復古の大号令」とは、慶応3年(1867年)12月9日に朝廷から発せられた政変の宣言であります。徳川慶喜による大政奉還を受けて、徳川幕府の廃止と天皇を中心とする新政府の樹立を宣言し、それまでの摂政や関白ならびに幕府の諸役職をすべて廃止いたしました。
これにより、朝廷が直接政治を司る体制が確立され、江戸時代の政治構造は完全に終焉を迎えることとなりました。この政変は薩摩藩や長州藩をはじめとする倒幕派が主導したものであり、徳川慶喜に対して辞官および納地を強く要求したことが、その後の戊辰戦争へと発展していく大きな引き金となったのです。
5. 鳥羽伏見の戦いと建白書を携えての京都上洛
明治元年(1868年)1月、情勢はさらに急転することとなります。同月3日の鳥羽伏見の戦いを契機として、10日には第十五代将軍である徳川慶喜が朝敵として認定され、
さらに翌11日には伊達慶邦に対しても朝廷から直接の上京命令が下されるという重大な事態へ至ったのです。
「鳥羽・伏見の戦い」とは、明治元年(1868年)1月に勃発した戊辰戦争における最初の戦いであります。
京都の鳥羽街道ならびに伏見の地において、薩摩藩や長州藩を中心とする新政府軍と、旧幕府軍とが真っ向から衝突いたしました。
戦況の途中で新政府軍が錦の御旗を掲げたことで自らを官軍と称するに至り、これによって旧幕府軍は賊軍とされることを恐れて士気を大きく喪失することとなったのです。
戦いはわずか4日間で決着を迎え、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸へ撤退いたしました。この戦いによって新政府側の圧倒的な優位が確定し、その後の戊辰戦争全体の行方を大きく左右することとなったのです。
しかし伊達慶邦は病気を理由として上京に応じず、代わりに三好監物を御守衛御人数隊長に据えて上京させるにとどめました。
明治元年(1868年)1月17日、仙台藩に対して会津征討の勅命が伝えられると、大條道徳は伊達慶邦に対して自ら上京されるよう強く進言いたしましたが、伊達慶邦の決断はなおも定まりませんでした。
やむなく第二の策として、朝廷に対して建白書を提出することが決定されます。
この建白書には、会津討伐の命令に対する疑問と、その再検討を求める切実な内容が記されておりました。
当初は一門である伊達邦成を正使、大條道徳を副使とする予定でありましたが、伊達邦成は「仙台藩主自らが上京を果たさず、ただ文書のみを提出するという形式は受け入れがたい」として固辞いたしました。
すでに時機が極めて差し迫っていたため、大條道徳が単独で正使の重任を引き受け、建白書を携えて京都へ上京することとなったのです。

(亘理伊達家第十四世)
そして、まさにこの時期、仙台藩においては分家である宇和島藩から伊達宗敦を養子として迎える手続きが進行中であり、大條道徳は朝廷への建白書提出という重大な任務に加えて、世子奉迎という極めて重要な役目も兼ねて担うこととなりました。
金300両を支給されたことに加え、同年2月10日には鉄砲10挺ならびに紋付の武具や装備を拝領し、58名もの供を従えて仙台を出発することとなります。
建白書の提出という破格の使命を帯びて京都へ向かう大條道徳でありますが、この試練もまた激動の歴史における序章に過ぎませんでした。
幕末の京都という大舞台で刻まれた歴史の一頁につきましては、次回詳しくお伝えすることといたします。
◼️参考資料
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年
山元町歴史民俗資料館『大條孫三郎道徳と伊達宗亮 幕末を生きた仙台藩士の生涯』2009年
伊達宗行『翠雨山房夜話(上)』 1988年
