大條家の未完の嫡男たち【3】大條実寿
これまで、大條本家を陰で支えた長男の大條宗経、三男の大條宗透、そして家督を継いだ二男の大條宗道(大條家第十一世)の足跡を追いかけてきました。
この三兄弟それぞれの覚悟と決断があったからこそ、大條本家の未来は繋がれていきました。
そして彼らからバトンを託された大條道頼(大條家第十二世)は、歴代屈指の名君として三代の仙台藩主を支え、のちに「坂元四千石」と称される大條家の揺るぎない礎を築き上げます。
では、その大條道頼が築き上げた栄華は、どのように次代へ受け継がれていったのでしょうか。
大條家の歴史において、大條道頼の跡を継いで大條家第十三世となったのは大條道任でした。
しかしその陰には、本家の歴史と期待のすべてを背負い、当主となるはずだった兄(嫡男)が確かに存在していたのです。
今回は、大條家を繋いだ血脈の集大成であり、父 大條道頼(大條家第十二世)が満を持して世に送り出した「幻の完成形」、大條実寿の儚くもまばゆい生涯に迫ります。
1. 大條実寿(大條道頼の嫡男)
大條実寿
幼名:友之進
通称:孫三郎
生誕:元文2年(1737年)
死没:宝暦9年(1759年)6月21日
父母:大條道頼、大條家女中(側室)
兄弟:大條道任(大條家第十三世)、女(布施定誠夫人)、女(亘理倫篤夫人)、他多数
妻:古内志摩義清の娘
子供:なし
2. 分家への想いと「孫三郎」に込めた誓い
このプロフィールを眺めた時、大條家の歴史を知る人であれば、誰もがその「異彩を放つ名前」に目を奪われるはずです。
大條本家の歴代当主は、長年にわたり「宗」の一字を通字として受け継いできました。
しかし父である大條道頼は、先代(大條宗道)の「道」の字を継いで「『宗』を持たない初の本家当主」となり、新たな歴史の扉を開いた人物でした。
そして我が子の代においては、さらに大胆で計算し尽くされた命名戦略を打ち出します。
満を持して嫡男に授けた諱は「実寿」、通称は「孫三郎」でした。
一見すると慣例から外れたこの命名ですが、その意図を紐解くと、大條道頼が長男に託した深い想いが浮かび上がってきます。
まず「実」の文字は、分家の祖である大條実頼の名に由来すると考えるのが自然でしょう。
幼少期に父を亡くした大條道頼には、分家出身の大條頼泰(真庭大條家第一世)に13年もの長きにわたる「名代」として本家を支えてもらった大きな恩義がありました。
嫡男に分家の祖の一字を冠することは、その献身に対する極めて強い感謝のメッセージといえます。
さらに象徴的なのが「寿」の文字です。
正徳5年(1715年)、16歳で自立した大條道頼から297石を分地されて別家(真庭大條家)を立てた大條頼泰ですが、その真庭大條家でやがて第三世となるのが孫の「大條頼寿」です。
元文2年(1737年)、38歳の大條道頼に待望の嫡男(のちの大條実寿)が誕生した頃、真庭大條家にも大條頼寿が生まれていたと思われます。
重要なのは、「実寿」の名が授けられたタイミングです。
幼少期に「友之進」と名乗っていた大條実寿が元服し、諱を与えられたのは15歳前後を迎えた宝暦年間初期(1751-1753年頃)と考えられます。
まさにこの時、20代となっていた真庭大條家の大條頼寿は、頼もしい青年武士として頭角を現していたと推測されます。
その活躍を目の当たりにしていたからこそ、大條道頼は我が子の元服にあたり、真庭大條家の若き俊英にあやかって「寿」の一字を授けたのではないでしょうか。
「実寿」の名で分家への敬意を示した一方で、通称には「孫三郎」を選びました。
これは大條家の始祖である大條宗行(大條家第一世)が名乗って以来、歴代当主が誰も使用してこれなかった「大條家で最も格式のある通称」です。
初代の栄光を象徴するこの名をあえて解禁した背景には、大條道頼の並々ならぬ先祖への誇りがありました。
大條実寿の幼少期にあたる寛保3年(1743年)、
大條道頼は藩主 伊達宗村より、始祖 大條宗行(大條家第一世)の父である伊達宗遠(伊達家第八世)が詠んだ和歌を拝領する栄誉に浴しています。
そして翌延享元年(1744年)には大條家代々の重要文書を木箱に収め直すなど、この時期の大條道頼の胸中では「大條家の原点と歴史」に対するアイデンティティが極限まで高まっていたのです。
そうした強い想いを胸に我が子の元服を迎えたからこそ、誇り高き名「孫三郎」を授けたのでしょう。
(本エピソードに関してはこちらをご覧ください)

(仙台市博物館蔵)
分家への感謝と融和を「実寿」の名に込めつつ、
大條家の原点たる誇りを「孫三郎」に託す。
大條道頼はこの嫡男を、「大條本家と分家が紡いできた数百年の歴史のすべてを昇華させ、次代へと繋ぐための象徴」として世に送り出したものと思われます。
とりわけ、大條実寿の誕生時に父 大條道頼自身がすでに38歳という人生の後半期に差し掛かっていたこと、そして何より、設けた子供たちが相次いで早逝するという痛切な悲劇に見舞われ続けていた事実を思えば、この一子に注がれた感情の深さは一層際立ちます。
この時代、天然痘や麻疹といった感染症の流行は容赦なく幼い命を奪い、さらには享保の大飢饉をはじめとする冷害や飢饉が社会全体の栄養状態を苛烈に悪化させていました。
とりわけ風雪の厳しい東北の地において、予防も治療も叶わない環境下では、たとえ仙台藩の重臣という家柄であっても、我が子の早逝を食い止める術はありませんでした。
相次ぐ喪失の果てにようやく手にしたこの一筋の光に、家を未来へと繋ぐための「希望」を託したのではないでしょうか。
3. 盟友 後藤壽康との文武修行
こうして並々ならぬ期待と歴史の総括を込めて名付けられた大條実寿は、やがて仙台藩の将来を担う大條家の嫡男として、極めて手厚い教育環境の中で育っていくことになります。
その幼少期から青年期にかけての足跡を鮮やかに物語るのが、仙台藩の宿老を務めた後藤家に伝わる一次史料『勤功書上』(安永2年/1773年 後藤壽康著)の一節です。
「一忠山様御代私部屋住之節大條故監物忰同氏友之進并私諸稽古事等之儀右監物并亡父孫兵衛を以両人一同御丁寧被仰含候事」
忠山様(藩主 伊達宗村)の御代、私(後藤壽康)がまだ部屋住みであった頃、故 大條道頼の息子である友之進(大條実寿)と私は、文武の諸稽古につきまして、右の故 大條道頼様と私の亡父 後藤元康のお二人から、両名一緒に丁寧なお達し、ご指導を賜りました
この記述は、伊達宗村(第六代仙台藩主)の時代、大條家と後藤家という藩の屋台骨を支える二大重臣の家系において、次世代の後継者育成がどのように行われていたかを示しています。
ここで注目すべきは、友之進(大條実寿)と後藤壽康の二人が、「双方の父親(大條道頼と後藤元康)が手を携え、二人の息子を合同で直接指導した」という点です。
当時の武家社会において、他家の当主が直接関与し、我が子と同等に武芸や学問を教授するというのはきわめて異例の試みであり、両家が同僚以上の、家族ぐるみの深い絆で結ばれていた何よりの証左と言えます。
後藤 壽康(1732〜1800)
通称:孫兵衛
仙台藩家格「宿老」後藤家第六代当主。
19歳で家督を継ぐと、家伝の秘術「水鳥繋玉鉄砲討方」を藩主 伊達宗村へ伝授。
宝暦10年(1760年)には姫君の近衛家輿入れの使者として上京し、京都外交で活躍。
明和6年(1699年)に「奉行職」就任。
しかし安永2年(1773年)に奉行を解任され蟄居。
この際、自らの功績の中で友之進(大條実寿)との鍛錬の日々を綴った『勤功書上』を記す。
のちに「若老御用」として復帰を果たした。
ふたりの生年を並べてみると、そこには非常にリアルで人間味あふれる距離感が見えてきます。
享保17年(1732年)生まれの後藤壽康に対し、大條実寿(幼名 友之進)は元文2年(1737年)生まれと、ふたりの年齢差は5歳でした。
武芸や学問の稽古において、5歳の開きというのは幼少期から青年期にかけて大きな意味を持ちます。
大條実寿が10歳の少年であれば、後藤壽康はすでに15歳の元服を迎える時期でした。
単なる同世代のライバルというよりは、大條実寿にとって後藤壽康は「頼れる身近な兄貴分」であり、後藤壽康にとっても大條実寿は「共に鍛錬を重ねた大切な弟分」であったはずです。
この当時、藩主 伊達宗村は20代から30代前半という働き盛りの若さにありました。
大條道頼や後藤元康(当時40代)らにとって、自分たちが健在なうちに若い藩主を支える次世代の精鋭を育てることは急務であり、伊達宗村にとっても10代の後藤壽康や幼い大條実寿は、将来の仙台藩を託す期待の若手であったと推測されます。
双方の父親たちが残した合同教育という仕掛けは、過酷な政治の世界を生き抜くための「生涯揺らぐことのない誇りと絆」を、二人の胸の中に確かに植え付けていたと言えるでしょう。
4. 大役と若手精鋭としての活躍
こうして、兄貴分である後藤壽康との切磋琢磨を経て成長した大條実寿は、やがて父の病気療養に伴い、大條家の「名代」として仙台藩の表舞台へと躍進していきます。
まず、宝暦3年(1753年)、父の奉行職辞任に伴い名代として「御近習申次」に就任。
宝暦6年(1756年)に父親が奉行職へ復帰すると、部屋住みの身でありながら独立した生計を立てるための「部屋住料」として300石を下賜されました。
さらに翌宝暦7年(1757年)3月には御近習として江戸詰を命じられ600石を賜るなど、藩主の身近で順調にキャリアを重ねていきます。
そんな中、同年6月に大役が舞い込みます。
伊勢神宮や春日大社などを含む「上方5社(伊勢神宮・春日大社・伊勢神宮別宮・石清水八幡宮・談山神社)」への参拝名代という、極めて格式高く重要な公務を命じられたのです。

(Wikipediaより)
江戸を出立し、藩の顔として見事にこの大役を果たし遂げたその姿は、父にとっても、大條家にとっても、まさに「数百年におよぶ本家と分家の深い絆が結んだ、満開の結実」そのものでした。
しかし、歴史はあまりにも苛烈な暗転を用意していました。
5. 21歳での悲痛な逝去
宝暦9年(1759年)6月21日
御近習御申次としての職務に励む中、大條実寿は病に倒れ、そのまま還らぬ人となったのです。
享年はわずか21歳でした。
大條本家の家督相続を目前に控え、父と藩からの期待を一心に集めていた矢先の、あまりにも早すぎる訃報でした。
現代のような高度な医学が存在しなかった当時、20代前半の若者が突如として死に至る背景には、過酷な時代的要因が潜んでいました。
猛威を振るう天然痘や麻疹、あるいは肺炎などを引き起こす急性の感染症は、予防法も治療薬もないまま猛烈な勢いで若い命を奪い去りました。
さらに、大條実寿が直前まで江戸詰や上方参拝といった重責を担っていたことも見逃せません。
長距離移動による激務と疲弊、そして精白米中心の都市生活によって当時猛威を振るった「江戸患い(脚気)」が急性の心不全を引き起こした可能性など、現代の視点からは様々な暗雲が推測されます。
こうして、父 大條道頼が命を削るようにして手に入れた「最大の希望」は、家督を継ぐことすら叶わぬまま、残酷にも途切れてしまったのです。
しかし、どれほど悲しみに包まれようとも、大條家の名跡を途絶えさせるわけにはいきませんでした。
跡取りの座は弟の悦之進(のちの大條道任/大條家第十三世)へと引き継がれることになりました。
6. 『勤功書上』に刻まれた未完の遺産
一見すると、この結末は「早逝した悲運の嫡男」という悲劇のように映るかもしれません。
しかし、大條実寿の生きた証は、決して虚無の中に消え去ったわけではありませんでした。
大條実寿がこの世を去ってから14年が経過した安永2年(1773年)――
かつての盟友 後藤壽康は、奉行解任という人生最大の窮地に立たされていました。
自らの全キャリアと家格の正統性を証明し、起死回生をかけて藩へ提出したのが『勤功書上』です。
自分を解任へ追い込んだ勢力や藩の中枢に対し、「後藤家の由緒とこれまでの奉公に一切の不備なし」と突きつける極限状態の弁明書であり、一文字たりとも無駄な記述が許されない、いわば武士としての矜持と人生を賭けた迫真の公文書でした。
華々しい役職への抜擢や、京都外交における功績といった「公的な実績」が整然と並ぶその記録において、後藤壽康はあえてこの一項を加えました。
私がまだ部屋住みであった頃、友之進(大條実寿)と私は、文武の諸稽古につきまして、故 大條道頼様と私の亡父 後藤元康のお二人から、両名一緒に丁寧なお達し、ご指導を賜りました
※本文の現代語訳は筆者による
まさに武士としての命運を賭けた土壇場において、後藤壽康は自らの原点として、すでにこの世にない友之進の名を再びこの世へ呼び覚ましたのです。
共に時代を駆け抜けるはずだった弟分を失ってもなお、後藤壽康の胸の中には、あの眩しい稽古の日々と友之進の姿が鮮烈に生き続けていました。
その深く温かな記憶こそが、21歳という若さで去った大條実寿がこの世に遺した、生きた証そのものでした。
14年の時を超えて盟友の窮地を支えたその存在は、もはや「途絶えた歴史」などではありません。
大條実寿という男は、単に若くして病に倒れた悲劇の御曹司などではありませんでした。
父たちの大きな期待を背負い、英才教育を受け、生涯の盟友と共に高め合い、藩の大役を堂々と果たして駆け抜けた――
「大條氏数百年の歴史の中で、最も美しく輝いた青年武士」であったと言えるのではないでしょうか。
◼️参考資料
野本禎司『仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-』2022年
野本禎司『仙台藩宿老後藤家文書―由緒・職務・武芸―』2023年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
平重道『伊達治家記録』1973年
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年
