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大條家の分家/大條頼廣の系統【下】

【上】はこちら


大條頼廣の直系は【上】に記述しましたが、ここからさらに多くの分家へと枝分かれしていきます。

本記事では、『仙台藩家臣録』に記録された別の大條家の動向に目を向け、大條頼廣の系譜から派生した家系の軌跡を追っていきます。

1. 大條頼成の流転:養子と実子の葛藤

大條清十郎
拙者養亡父大條源内儀祖父大條是休四男無進退ニ而罷在候処、大條監物親類二御座候付右監物御知行
高三百三拾壱貫六百九拾壱文之内弐貫文之所、右源内ニ被分下被召出相応之御番所被 仰付被下置由、貞享元年十月廿五日ニ右監物奉願候処、願之通被分下旨同年十一月廿七日遠藤内匠を以被 仰渡侯。御番所御広間被 仰付候。年月御申次不承伝候。貞享元年十一月廿七日御日付之御朱印所持仕候。源内兄大條二右衛門養子家督ニ松坂九郎左衛門次男甚兵衛仕置候以後、拙者儀出生仕二右衛門実子ニ御座候処、右源内子共所特不仕候ニ付、源内養子家督二被成下度段貞享四年七月廿日二双方并親類共奉願処、願之通被仰付旨同年九月十一日柴田内蔵を以被仰渡候。
然処ニ元禄三年十月七日右源内兄油井惣兵衛と国井仲兵衛討果候節右源内儀も其場江出合深手を負申候処、冨田三郎衛門・山家喜兵衛以指図大條八郎兵衛所江引取申候処ニ右同日相果申候。因兹其節拙者儀大條八郎兵衛・平十郎衛門二被相預候段右同日永嶋七兵衛を以被仰渡候処、同年十二月廿一日右八郎兵衛・十郎右衛門・拙者、津田民部宅江被石出、源内跡式無御相違拙者二被下置之旨右民部を以被仰渡候。
同廿五日二御番入願申上候処、御番所御広間佐藤杢御番組二被 仰付之旨同廿八日ニ右杢を以被
仰付候。丹今御朱印者不奉頂戴候。先祖之儀者先年実父同苗二右衛門儀次郎左衛門と申候節書上仕候。以上
元禄四年四月十五日

歴史図書社『仙台藩家臣録』1978年

大條頼成
私の養父である亡き父 大條次頼は、祖父 大條定頼(平士大條家第二世)の四男として、特別な役職に就かずに暮らしておりました。
ところが、大條宗道(大條家第十一世)が自身が持つ知行高3310石のうち、20石を大條次頼に分知して召し出し、相応の御番所(役職)を仰せ付けたいと、貞享元年(1684年)10月25日に願い出ました。
その願い通りに分知する旨が、同年11月27日に遠藤内匠を通じて仰せ渡され、御広間の御番所役を仰せ付けられました。
その詳細な年月については言い伝えを聞いておりません。
なお、貞享元年(1684年)11月27日付の御朱印を所持しております。
かつて、大條次頼の兄である大條直頼(平士大條家第三世)が、松坂九郎左衛門の二男・甚兵衛を養子に迎え家督を継がせたことがありました。
その後、私が生まれ、大條直頼(平士大條家第三世)の実子となりました。
しかし、大條次頼には子がおりませんでしたので、私が大條次頼の養子となって家督を継ぎたい旨を、貞享4年(1687年)7月20日に当事者双方および親類一同で願い出ました。
その願い通りに仰せ付けられる旨が、同年9月11日、柴田内蔵を通じて仰せ渡されました。
ところが、元禄3年(1690年)10月7日、右の大條次頼の兄である油井房頼(油井家へ養子)が、国井仲兵衛と刃傷沙汰に及んだ際、その場に出合って深手を負いました。
大條次頼は冨田三郎右衛門・山家喜兵衛らの指示により大條頼利(平士大條家第四世)の屋敷へ運び込まれましたが、同日中に息を引き取りました。
このため、その時に私(大條頼成)は大條頼利(平士大條家第四世)と平十右衛門のもとへ預けられるよう、同日中に永嶋七兵衛を通じて仰せ渡されました。
同年12月21日、大條頼利(平士大條家第四世)、平十右衛門、そして私が津田民部の屋敷へ呼び出され、大條次頼の家督を滞りなく私に下さる旨を仰せ渡されました。
同月25日、御番所への出仕を願い出たところ、佐藤杢の御番組に仰せ付けられる旨が、同月28日に仰せ渡されました。現在まで御朱印はいただいておりません。
先祖のことにつきましては、以前に実父である同苗の大條直頼(平士大條家第三世)書き上げた通りでございます。
以上。
元禄4年(1691年)4月15日

筆者訳

大條直頼(平士大條家第三世)の長男として生を受けながらも、出生時にはすでに松坂九郎左衛門の二男が「養子」として大條家に入り、大條頼利として平士大條家第四世を継承済みという、複雑な境遇にありました。
そのため「部屋住み」の身分に甘んじていましたが、貞享4年(1687年)7月20日、本家より分知を受けた叔父 大條次頼の養子となることが認められます。

しかし、新たな生活が始まってからわずか3年後の元禄3年(1690年)、叔父である油井房頼が国井仲兵衛との間に起こした私闘に、養父である大條次頼が巻き込まれ、命を落とすという悲劇に見舞われます。
当時、私闘は厳禁でありながら、こうした理不尽な事態に巻き込まれることは武士にとって避けがたい不運でもありました。
幸いにも大條次頼が公的にあくまで「被害者」として扱われたことにより、大條頼成は滞りなく家督を相続することができました。

しかし、宝永4年(1707年)、大條頼成は突如として出奔という道を選び、自ら仙台藩士としての身分と禄を放棄することとなります。
まさに、家名と過酷な運命に翻弄され続けた波瀾万丈の生涯でした。
出生時から養子の兄 大條頼利が家督を継いでいるという複雑な家庭環境に加え、育ての親である大條次頼を武士社会の理不尽な暴力によって奪われた心の傷は、決して癒えることがなかったのかもしれません。

このように、武士社会の不条理に翻弄される者がいる一方で、一族の行く末を見据え、異なる生き方を選択した者もいました。

2. 「武士から医師へ」の転身:今泉大條家の創始

大條定頼(平士大條家第二世)の子供
長男:大條直頼(平士大條家第三世)
二男:大條重頼
三男:油井房頼
四男:大條次頼

大條定頼(平士大條家第二世)の二男である大條重頼は、武士としての立身や争いに生きた弟たちとは一線を画し、仙台藩医 高屋喜庵の弟子となって医師の道へと進んだのです。

仙台藩医の高屋家は、江戸時代を通じて伊達家・仙台藩に仕え、藩内における最高位の格式を誇った名門の医師家系です。藩主の命を直接預かる侍医(御召御医)を代々務め、藩の医学教育の統率にも深く携わるなど、仙台藩の医療組織の頂点に立って藩の医学界を先導した、屈指の家柄でした。


大條実頼の娘(大條頼廣の妹)が高屋快庵に嫁いでいたことから、当時、大條家と高屋家は婚姻を通じた緊密な親戚関係にありました。

『今泉大條家 主要当主』
大條頼重(今泉大條家始祖)
通称:相安、法名:全心
仙台藩医・高屋喜庵の弟子となり、武士から医師への転身を志した今泉大條家 医業の祖。

大條頼尚(今泉大條家第一世)
通称:快順、快寿
高屋快庵に師事して医を学び、大條頼利(平士大條家第四世)による受合証状を得て今泉村にて開業。公的なお墨付きを得て、正式に独立した医師としての歩みを始める。

大條頼長(今泉大條家第二世)
通称:休順、相安
高屋喜庵に師事して医を学ぶ。若くして(27歳)病死した兄 大條頼房の跡を継ぎ、激動の時代の中で家督と医業を死守した。

大條快順(今泉大條家第五世)
生誕:文政8年(1825年)
死没:大正10年(1921年)5月14日
江戸へ上って漢方医学を、さらに長崎へと足を伸ばして最先端のオランダ医学(蘭学)を修行。和洋折衷の高度な技術を故郷に持ち帰る。

大條虎介(今泉大條家第六世)
通称:休順、寒山
生誕:明治2年(1869年)
死没:大正10年(1921年)5月23日
妻:さと(大條快順の姪)
「医は仁術なり」を地で行き、貧しい患者からは一文の薬代も受け取らなかった義の人物。豪健にして豪邁な性格で、理不尽を許さない強固な意志を持ち、医師という枠に留まらず、晩年は下有住の鉱毒事件解決の矢面に立って粘り強く交渉し、見事に地域を救う。

武士から医師への転身を最初に志したのは大條頼重でした。
大條頼重は仙台藩医の最高峰である高屋喜庵に弟子入りし、今泉大條家の医業の祖としての礎を築きます。
その志を受け継いだ大條頼尚(今泉大條家第一世)の代からは、藩に直接仕えない「浪人医師」として生きる道を選び、広く民衆の治療にあたった、今でいう独立開業医のような存在となりました。

この「武士から医師へ」という一族の大きな転換と独立は、平士大條家による公的なお墨付き(受合証状)を得たことで実現したものでした。
こうして、かつて大條宗直(大條家第七世)が晩年を過ごした気仙沼今泉へと移り住んだ大條頼尚は、ここを新たな医業の拠点と定めます。
以降、大條の一族は「高屋敷」と呼ばれる屋敷で代々医業を継承していきました。

歴代当主たちが代々にわたって高屋家に師事し、医学を学び続けてきた深い繋がりから、高屋家が代々「快庵」「喜庵」の通称を交互に名乗った伝統に倣い、今泉大條家もまた、歴代当主が「快順」「休順」の通称を交互に襲名する医家として、地域社会に深く根を下ろしていったのです。

東日本大震災で甚大な被害を受けた陸前高田ですが、こちらの公的な調査報告書には「大條快順屋敷跡」などの記述が収録されており、一族の足跡を窺い知ることができます。

その中でも、特に異彩を放ち、今なお地域に名を残す人物が、大條虎介(今泉大條家第六世)です。
明治2年(1869年)に仙台藩士 佐藤文弥の三男として生まれた大條虎介は、今泉の医師であった大條快順の養子となり、大條の姓を継ぎました。

大條虎介は養父である大條快順の姪を妻に迎えたことで、大條虎介が興した血統には、大條家本来の血脈が絶えることなく受け継がれていくことになります。

明治23年(1890年)に旧制第二高等中学校医学部(現 東北大学医学部)を卒業すると、養父である大條快順のもとで研鑽を積み、世田米の地で独立を果たします。
大條虎介の生き様は、まさに「医は仁術なり」の精神そのものでした。
貧しい患者からは一文も受け取らなかった「義」の精神を貫き、豪健にして豪邁な性格で、理不尽を許さない強固な意志を持ち、医師という枠に留まらず、晩年は下有住の鉱毒事件解決の矢面に立って粘り強く交渉し、見事に地域を救いました。

一方で、岡本碧巌に師事して書を学ぶなど、深い精神性と高い教養も兼ね備えていました。
その圧倒的な熱情は、単なる一地方の医師の枠に留まりませんでした。
大條虎介の真骨頂は、不条理に対する憤りと、弱者への果てしない愛情にあります。
先の下有住の鉱毒事件の際には、憤る長部の漁民たちの暴発を身を挺して抑えつつ、自ら県知事や鉱山会社との粘り強い折衝を行い、事件を見事に解決へと導いたのです。
さらに、冒険家 郡司大尉との熱い友情から北千島探検へ多額の寄付を行うなど、医業を越えた行動力は枚挙に暇がありません。
大正10年(1921年)に没した大條虎介が遺した足跡は、地域医療や社会連携が叫ばれる現代においてこそ、進むべき道を照らす先駆的な光として、今なお強い輝きを放ち続けています。

その生涯は、昭和51年(1976年)に『大條虎介 辺地の赤ひげ先生』として書籍化されました。
大條家の中で唯一、個人として単独で書籍化された大條虎介の記録は、現在では国会図書館のデジタルコレクションに収録され、自宅からでもその軌跡を閲覧することができます。


さて、『仙台藩家臣録』には他にも、大條の血を引く分家の姿が記されています。

3. 大條頼常の執念:「勘定奉行」への逆転劇

大條理兵衛
一 拙者亡父大條次郎兵衛儀大條薩摩三男大條甚十郎次男ニ御座候。無進退ニ而罷在候処、義山樣御代寬永十八年御徒小性組ニ被召出御切米弍両御扶持方四人分被下置御番所中之間被 仰付候。
誰を以被 仰渡候哉御申次ハ不承伝候。万治元年四月山口内記を以組被成下御免、同年極月品川様御代御切米三両御扶持方四人分新規ニ被下置、御番所中之間被 仰付候段奥山大学を以被 仰渡候。次郎兵衛寛文二年霜月病死仕候付跡式御番所共ニ嫡子拙者ニ被 仰付被下置度由、御当代同年極月親類共奉願候処、跡式無御相違御番所共ニ被 仰付候旨、同三年三月奥山大学を以被仰渡候。寛文六年より御国側番相務申候。同十一年四月より大條古監物手前物書相務候付、延宝三年十月御加増被成下度由古監物願申上候処、御切米弍両御扶持方三人分御加増被下置、五両七人分ニ被成下旨、同月十四日小梁川修理を以被 仰渡候。同四年八月右修理を以御右筆被仰付候。天和元年二月廿六日御加増被下置、御切米判金壱枚御扶持方十人分ニ被成下候段佐々伊賀を以被 仰選候。貞享三年閏三月朔日御知行十五貫文被下置旨御直ニ被 仰付、右御切米御扶持方ハ其節被召上候。元禄元年正月廿三日御右筆御免御首尾届之御用被仰付、御加増之地五貫文被下置、弐拾員文ニ被成下、御次ニ馬籠五郎右衛門等並ニ相詰可申由、
御直二被 仰付候。同三年八月二日御首尾届之御用御免被成下御用之御取次被 仰付、御近習列ニ被仰付御加増之地弐拾貨文被下置、四拾貨文之高ニ被成下候段御直二被 仰付候。于今御朱印頂戴不仕候。先祖之儀者嫡子筋目ニ付先年同苗金八郎儀猪之助与申候節書上仕候。以上
元禄四年三月廿八日

歴史図書社『仙台藩家臣録』1978年

大條頼常
一、拙者の亡き父 大條林頼について
父は、大條実頼の三男である大條頼廣の次男でございました。無役で暮らしておりましたところ、義山様(伊達忠宗公)の御代、寛永18年(1641年)に御徒小性組として召し出されました。
御切米2両・御扶持方4人分を賜り、御番所中之間(役職)を仰せ付けられました。
(この時)誰を通じて仰せ渡されたかは、言い伝えを聞いておりません。
万治元年(1658年)4月、山口内記を通じて(小性組の)組を外れるよう御免が下りました。
同年12月、品川様(伊達綱宗公)の御代、御切米3両・御扶持方4人分を新規に賜り、再度、御番所中之間を仰せ付けられました。
この件は奥山大学を通じて仰せ渡されました。
父 大條林頼は寛文2年(1662年)11月に病死いたしました。そのため、その跡式(家督)と役職を嫡子である私(大條頼常)に仰せ付けくださるよう、同年12月に親類一同で願い出ましたところ、翌、奥山大学を通じて跡式・役職ともに拝領いたしました。
寛文6年(1666年)より御国側番を勤めました。同11年(1671年)4月より大條宗快(大條家第十世)の手前にて物書きを勤めました。
延宝3年(1675年)10月、大條宗快が(私への)御加増を願い出てくださったところ、御切米二両・御扶持方3人分を加増され、合計で御切米5両・御扶持方7人分となりました。
同月14日、小梁川修理を通じて仰せ渡されました。
同4年(1676年)8月、同じく小梁川修理を通じて御右筆を仰せ付けられました。
天和元年(1681年)2月26日、さらなる御加増があり、御切米(の代わりに)判金一枚を賜り、御扶持方10人分となりました。
この件は佐々伊賀を通じて仰せ渡されました。
貞享3年(1686年)閏3月1日、御知行15貫文を下し置く旨を(藩主より)直接仰せ付けられました。これまでの御切米・御扶持方はその際に返上いたしました。
元禄元年(1688年)正月23日、御右筆を御免となり、御首尾届之御用を仰せ付けられ、御加増として知行5貫文を賜り、合計20貫文となりました。
また、御次に馬籠五郎右衛門らと並んで詰めるよう直接仰せ付けられました。
同3年(1690年)8月2日、御首尾届之御用を御免となり、御用之御取次を仰せ付けられました。
さらに御近習列に召し抱えられ、御加増として知行20貫文を賜り、合計40貫文の高となりました。この件は直接仰せ付けられました。
現在に至るまで御朱印はいただいておりません。
先祖の件につきましては、嫡子の筋目として、先年に同苗の大條易頼(着座大條家第六世)が書き上げた通りの通りでございます。
以上。

元禄4年(1691年)3月28日

筆者訳

大條頼廣の次男である大條林頼もまた、当初は役職を持たない無役の身としての日々を過ごしていました。
しかし寛永18年(1641年)、大條林頼は「御徒小性組」として藩に召し出されるという転機を迎えます。主君の身近に仕えるこの役職は、確かな身元と優れた資質が求められる要職でした。
この召し出しを契機として、大條林頼を始祖とする新たな大條の分家が誕生することとなります。
大條林頼は寛文2年(1662年)に病没しますが、翌寛文3年(1663年)には息子の大條頼常が無事に跡目を継承し、大條林頼が切り拓いた道を基盤として、さらに実務官僚への階段を駆け上がっていくことになります。

大條頼常 
通称:理右衛門
父母:大條林頼、佐瀬源兵衛の娘
兄弟:佐瀬頼恭、里見義任
妻:横尾長三郎の娘
子供:女、大條頼常(大條宗道庶養子)、大條頼清、松木道垣

大條林頼の跡を継いだ大條頼常は、父の築いた地盤をもとにさらなる飛躍を遂げます。
寛文11年(1671年)、大條宗快(大條家第十世)のもとで「物書」としてキャリアを始動。
その高い知性と実務能力が評価され、延宝4年(1676年)には藩主の側近である「奥祐筆」へと抜擢されました。

ここからの出世は目覚ましく、貞享3年(1686年)に150石、元禄元年(1688年)には200石へと加増。さらに元禄3年(1690年)には藩主の側近たる「近習兼用取次」に任じられ、400石へと上り詰めます。無役の次男坊から始まった家系が、わずか二代にして藩の重積を担う地位を確立した瞬間でした。
しかし元禄7年(1694年)、順風満帆だった大條頼常のキャリアは急転直下します。「不慎不行儀」を理由に、100石の没収、役職罷免、屋敷没収という厳しい処分が下され、一転してどん底の窮地へと立たされることになります。

この苦境にあっても、持ち前の「実務能力」で再び藩からの信頼を勝ち得ていきます。のちに「知行割奉行」に抜擢され、最終的には藩財政の責任者である「勘定奉行」に就任するなど、実力をもって着実に要職へと返り咲いたのです。
武功の時代から、数字と言葉が支配する官僚の時代へ。大條頼常は、激務の傍らで歌を詠む雅さも併せ持ちながら、激動の変革期をその圧倒的な知性と生命力で生き抜いた人物でした。

4. 大條頼泰:本家の危機を13年間支えた「名代」

大條頼泰
通称:酉之助、権左衛門
父母:大條頼常、横尾長三郎の娘
養父:大條宗道
兄弟:大條頼清
妻:佐藤孫三郎の娘、富沢庄之助の姉
子供:大條頼純(真庭大條家第二世)
19歳で大條宗道の庶養子となり大條本家の名代を務める。大條道頼が16歳の時に名代を退き、取り決めの通り297石を分地され別家を立てた。

元禄15年(1702年)、大條本家では将来を担う嫡男 大條道頼(大條家第十二世)がまだ幼く、当主不在による御家存続の危機に接していました。
この緊迫した状況を打開するため、大條宗道(大條家第十一世)は重大な決断を下します。

実務能力において藩内でも一目置かれていた分家 大條頼常の息子である大條頼泰を、19歳という若さで本家当主の庶養子に迎え、大條道頼(大條家第十二世)が成人するまでの「名代」に据えることとしたのです。
これはいわば、未熟な若君に代わって「大條」という巨大な看板の舵取りを一手に引き受ける、あまりにも重い大役でした。

しかし、大條頼泰はこの過酷な使命を完璧に遂行します。元禄15年から正徳5年(1715年)までの実に13年間、私心を捨てて幼い当主と本家を揺るぎなく支え続け、大條本家を無事に次の世代へと繋ぎきったのです。

あまり記録に残されていなかった大條頼泰の名代時代ですが、公式記録『伊達治家記録』に貴重な足跡が遺されていました。

廿日丙午。雄山公百箇日御法事、於瑞鳳寺者、以十三日始ル、公御名代小梁川中務宗永、祠堂へ大條酉之助頼泰勤之由奉行衆ヨリ上達。

平重道『伊達治家記録』1973年

正徳元年(1711年)9月20日 丙午
雄山公(伊達綱宗公)の百箇日の御法事について、瑞鳳寺においては十三日から始まる。藩主の御名代は小梁川中務宗永が務め、祠堂での役務は大條酉之助頼泰がこれを勤める旨が、奉行衆から上達された。

筆者訳

大條道頼が16歳を迎え、大條家第十二世として歩み始めた時、大條頼泰は潔く、その手に握り続けていた本家の権力を退きました。
19歳から32歳という、最も脂の乗った季節を本家への献身に捧げ、約束通りに席を譲ったのです。

大條道頼はこの恩義と功績に報いるため、事前に取り決めていた通り、大條頼泰に297石を分地して真庭に別家を立てることを許しました。

本家を救い、一人の独立した当主として新たなスタートを切った大條頼泰は、藩の軍事中枢を担う「武頭」を務め、さらには「名掛頭」や「脇番頭」といった要職を歴任し、藩の重鎮として確固たる地位を築き上げていきました。
大條頼泰の献身によって生まれたこの真庭大條家は、仙台藩において「召出一番座」の家格を与えられ、300石を拝領する独立した家系としての地位を確立したのです。

父 大條頼常が実力をもって這い上がり、その息子  大條頼泰が一族の窮地を救う忠義をもって新たな名門の土台を築く。
大條家という血筋に流れる「ここぞという時の圧倒的な当事者能力」は、この大條頼泰の13年間の静かなる闘いの中に、美しく、そして力強く証明されています。

5. 『真庭大條家 歴代当主』の系譜

『真庭大條家歴代当主』 
大條頼泰(真庭大條家第一世)
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大條頼純(真庭大條家第二世)
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大條頼寿(真庭大條家第三世)
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大條頼安(真庭大條家第四世)
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大條頼直(真庭大條家第五世)
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大條頼保(真庭大條家第六世)
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大條頼良(真庭大條家第七世)

本家の系譜から枝分かれした大條家の分家たちは、時に激しい運命の荒波に揉まれながらも、それぞれの場所でなくてはならない大役を果たしていきました。
大條の一族がそれぞれの舞台で遺した確かな足跡は、今も色褪せることなく、大條家の歴史の中に美しく、力強く輝き続けています。

◼️参考資料
歴史図書社『仙台藩家臣録』1978年
金田豊子『大條家文書』2022年
野本禎司『仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-』2022年
平重道 『伊達治家記録』1973年
菊田定郷『仙台人名大辞典』1981年
菅原芝郎『大条虎介 : 辺地の赤ひげ先生』1976年

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