大條家の分家/大條元頼の系統【下】
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着座大條家の歴代当主を振り返っていきます。
1. 第二世 大條元頼:11歳での家督継承
大條元頼(着座大條家第二世)
通称 : 理右衛門、修理
生誕 : 天正16年(1588年)
死没 : 慶長20年/元和元年(1615年)1月4日
父母 : 大條実頼、中山大蔵の娘
兄弟 : 大窪元成(大窪家養子)、大條頼廣(平士大條家第一世)、女(黒木正三夫人)、女(高屋快庵宗伯夫人)、大條宗頼(大條家第九世)
妻 : 大内備前の娘
子供 : 女(笠原出雲夫人)、大條定頼(着座大條家第三世)、女(比丘尼浄蓮)、佐瀬玄頼(佐瀬家養子)
大條実頼の嫡男として大條元頼は天正16年(1588年)に誕生しました。
この時期の大條実頼は蘆名家への輿入れに随行しており、蘆名家臣時代に大條元頼が生まれたものと考えられます。
母である中山大蔵の娘は蘆名家の出身でした。
大條元頼の史料上の初出は天正16年(1588年)4月5日です。
当時0歳の大條元頼は儀式的に米沢城で伊達政宗へ謁見しており、この謁見が知行拝領に関連した儀礼であった可能性が高いと考えられます。
その後、大條実頼は伊達家で目覚ましい活躍を見せますが、大條元頼は父の活躍を間近で見ながら成長したことでしょう。
慶長3年(1598年)12月27日、大條実頼は540石を加増され、知行高は1,000石に達しました。
これまで尾山金津(現在の宮城県角田市)に所領を持っていた大條実頼は、この時に伊具郡丸森の地を与えられ、同時に奉行職(家老)に就任しています。
この奉行就任に際し、大條実頼は当時11歳の大條元頼に家督と丸森の領地を譲り、自身は丸森とは別に伊具郡耕野・大蔵両村のうち700石を新たに賜りました。ただし、当時の大條元頼は11歳であり、家督継承としては早すぎる印象を受ける点が注目されます。
大條実頼が11歳の嫡男 大條元頼に家督を譲った背景には、当時の伊達家の特殊な政治状況と大條実頼の戦略的な判断が窺えます。
1.仙台藩成立前夜の体制整備
慶長3年(1598年)は豊臣政権から徳川政権へ移行する過渡期で、伊達家も領国再編の最中でした。
家老クラスの重臣に知行地を再配分する過程で、大條実頼は「家督相続」という形式を利用して、結果的に父子で計1,700石(大條元頼1,000石+大條実頼700石)を確保したと考えられます。
2.「名目的家督相続」の実態
11歳の家督相続は形式的なもので、実権は大條実頼が保持していたと考えられます。
実際、大條実頼はその後も奉行職として活躍しており、この処置は「世襲の正統性を早期に確立しつつ、実務は経験豊富な大條実頼が継続」する二重構造を作り出したと解釈できます。
3.領地分散のリスクヘッジ
丸森(大條元頼)と耕野・大蔵(大條実頼)に知行を分けたのは、戦国時代的な「一族分散配置」の名残りです。
万一の戦乱や改易に備え、家系の存続を図る意図があったと推測されます。
4.伊達政宗の厚遇の証左
この措置が認められた事実自体が、大條実頼の伊達政宗からの絶大な信頼を物語っています。
5.年齢に関する当時の価値観
戦国末期において12歳は「元服済み」の年齢であり、公式の相続年齢としては決して早すぎませんでした。
むしろ42歳の大條実頼は当時としては高齢で、後継ぎ問題を早期に解決する必要があったとも解釈できます。
この処置の真の意図は、大條実頼が「家格の上昇」を狙った可能性が最も高いでしょう。
嫡流(大條元頼)を着座階級に位置付けつつ、自身は実務家老として権力を保持するという、当時としては極めて先進的な家門戦略だったと考えられます。
大條元頼は、父 大條実頼から分家の嫡男として厚く期待され育てられました。
しかし慶長20年(1615年)1月4日、「大坂冬の陣」での負傷がもとで、27歳の若さで逝去することになります。
伊達政宗は「大坂冬の陣」において徳川方の有力大名として大坂城南側に布陣し、大條元頼もこの軍勢に従軍していました。

(Wikipediaより)
主要な戦闘は11月から12月にかけて展開され、大條元頼はこの激戦の中で負傷してしまいました。
12月20日の講和成立後も大坂で療養を続けましたが、傷の回復は叶わず、約2週間後に帰らぬ人となりました。
当時の医療水準では重傷からの回復は困難であり、傷が化膿し、感染症を併発したことが死因となった可能性が高いでしょう。
この早すぎる死は、父 大條実頼にとって計り知れない悲しみをもたらしました。
大條元頼は家督を継いでからわずか16年、まさにこれからという時期の死であり、大條分家の将来を大きく変える出来事となりました。

(大阪城天守閣蔵)
2. 第三世~第五世:相次ぐ当主の早世
大條定頼(着座大條家第三世)
通称 : 金八郎、左馬助
生誕 : 慶長12年(1606年)
死没 : 正保元年(1644年)1月
父母 : 大條元頼(着座大條家第二世)、大内備前の娘
兄弟 : 女(笠原出雲夫人)、女(比丘尼浄蓮)、佐瀬玄頼(佐瀬家養子)
妻 : 黒木正三郎の娘
子供 : 大條直頼(大條家第四世)、大條茂頼(大條家第五世)
父 大條元頼が慶長19年(1614年)に27歳で急逝したため、8歳の大條定頼が家督を継ぎましたが、実態としては、祖父の大條実頼が引き続き大條家全体を主導していました。
祖父の大條実頼が寛永元年(1624年)8月9日に没すると、当時19歳の大條定頼はついに独り立ちを余儀なくされました。
その後、国番頭(大番頭)や従小姓頭などの要職を歴任しますが、正保元年(1644年)1月、38歳の若さでこの世を去っています。
大條直頼(着座大條家第四世)
通称 : 八助、玄蕃、左馬助
生誕 : 寛永7年(1630年)
死没 : 慶安4年(1651年)10月
父母 : 大條定頼(着座大條家第三世)、黒木正三郎の娘
兄弟 : 大條茂頼(大條家第五世)
子供 : なし
正保元年(1644年)1月、父である大條定頼が38歳で没したため、15歳の大條直頼が着座大條家の家督を継承しました。
しかし当主の若年を理由に、これまでの領地であった伊具郡丸森から尾山村への所替えが命じられました。
丸森は戦略上重要な地域であったため、この移転には当時の政情が反映されていたと考えられます。
その後、大條直頼は慶安4年(1651年)10月、21歳の若さで逝去。
実子がなかったため、弟の大條茂頼を養子として迎え家督を継がせました。
大條茂頼(着座大條家第五世)
通称 : 九之助、権左衛門、大炊左衛門、藤左衛門、玄蕃
生誕 : 寛永8年(1631年)
死没 : 延宝2年(1674年)4月7日
父母 : 大條定頼(着座大條家第三世)、黒木正三郎の娘
兄弟 : 大條直頼(着座大條家第四世)
妻 : 佐藤定信の娘
子供 : 女(大條易頼夫人)
兄である大條直頼の早世を受け、慶安4年(1651年)に20歳で家督を相続した大條茂頼は、藩の規定により減知を受け、知行高は500石となりました。
しかしその後、新田開発の功績が認められ、寛文年間(1661-1673年)には601石まで回復させています。
家督相続後は徒小姓頭を経て、寛文元年(1661年)には大番頭に就任するなど、着実に出世を重ねていきました。
寛文6年(1666年)、仙台藩医の河野道円父子が亀千代(後の仙台藩主 伊達綱村)毒殺未遂事件で死罪となった際、奥方女中であった鳥羽は大條茂頼預かりの処分を受けました。
しかし、鳥羽は大條家で厚遇され、延宝元年(1673年)に赦免。さらに延宝3年(1675年)には再び伊達綱村に召し出されています。
この鳥羽は、後世に作られた歌舞伎・浄瑠璃『伽羅先代萩』の主要登場人物である政岡のモデルとされ、伊達騒動を題材とした同作では、幼君の乳母として我が子を犠牲にしながら主君の謀殺を防ぐ役柄で描かれています。
「政岡」のモデルが大條家と縁があったとは、実に興味深い事実ですね。

『伽羅先代萩』
なお、大條茂頼も嫡子に恵まれず、大條本家から大條宗快(大條家第十世)の次男 大條宗道を養子に迎えました。
しかし、大條本家で嫡男の大條宗経(大條宗快長男)が病により廃嫡となったため、養子入りからわずか2年後の寛文11年(1671年)6月14日、大條宗道は急遽本家へ戻ることになりました。
その後、大條宗道は大條家第十一世として家督を継承し、大條有数の名君として活躍しています。
跡継ぎを失った着座大條家では、延宝元年(1673年)、仙台藩家格一族の佐藤易信の次男を養子に迎え、大條易頼(着座大條家第六世)として家督を継がせました。
大條茂頼はその翌年 延宝2年(1674年)4月7日、43歳でこの世を去りました。
3. 第六世 大條易頼:佐藤家からの養子入り
大條易頼(着座大條家第六世)
通称 : 金八郎、猪之助、権左衛門、木工
生誕 : 寛文7年(1667年)
死没 : 延享元年(1744年)5月20日
父母 : 佐藤易信(佐藤家第五世)、柳生是翠の娘
兄弟 : 佐藤因信(佐藤家第六世)、女(川島内記夫人)、増田繁信
妻 : 大條茂頼の娘
子供 : 大條繁頼(早世)、大條元頼(大條家第七世)、佐藤光信(佐藤家養子)、石母田長門夫人
仙台藩の家格「一族」佐藤家の次男として生まれ、延宝元年(1673年)に着座大條家へ養子入りし、大條易頼として第六世の家督を継承しました。
その後、四代藩主伊達綱村と五代藩主伊達吉村の両代に仕えました。
元禄9年(1696年)5月から不断頭、中次兼協番頭、近習、中次、江戸留守番頭、御堂奉行、脇番頭と要職を歴任しましたが、宝永2年(1705年)2月に困窮を理由に辞職。
正徳2年(1712年)正月に再び脇番頭に復帰し、3年(1713年)には中次を兼任、5年(1715年)正月には大番頭に昇進して享保3年(1718年)11月まで務めました。
享保12年(1727年)4月から再び大番頭に就任し、延享元年(1744年)5月、77歳で没しています。
なお、元禄~宝永期において、仙台藩の重臣階級が困窮に陥る事例は決して珍しいものではありませんでした。
当時は藩財政の悪化により俸禄の未払いや実質的な減収が頻発しており、特に江戸勤務を伴う役職では格式維持のための出費が家計を圧迫していました。
着座家臣といえども1,000石前後の家禄では収支が逼迫しやすく、留守番頭などの役職は江戸屋敷の経費負担が重い割に経済的見返りが少ないケースが多かったのです。
宝永期には同様の理由で辞職する上級家臣が相次いでおり、大條易頼のケースもその一例と言えます。
一時的に職を辞したものの、家格の高さと実務能力が評価され、後に再登用されたと考えられます。
4. 第七世~第十一世:明治へ繋ぐ歴代当主の足跡
大條元頼(着座大條家第七世)
通称 : 仲三郎、木工
生誕 : 享保元年(1715年)
死没 : 寛政3年(1791年)9月
父母 : 大條易頼(着座大條家第六世)、大條繁頼の娘
兄弟 : 大條繁頼(早世)、佐藤光信(佐藤家養子)、石母田長門夫人
妻 : 布施定安の娘
子供 : 大條多頼(大條家第八世)、女(宮野和広夫人)
兄の大條繁頼が父に先立ち21歳で没した為に、庶子であった大條元頼が家督を継ぎました。
大條元頼は、五代藩主 伊達吉村、六代 伊達宗村、七代 伊達重村に仕えました。

(仙台市博物館蔵)
元文3年(1738年)6月に近習となり、寛保元年(1741年)3月に試名懸頭に任命されます。
その後、すぐに試祭祀奉行に移り、寛保2年(1742年)正月には正式な名懸頭となりました。
延享元年(1744年)8月に臨番頭に就任しますが、延享3年(1746年)11月、病気のため辞任しました。
その後、宝暦7年(1757年)正月に城番となり、同年8月には脇番頭に異動します。このとき、兵具奉行と屋敷奉行を兼務しました。
宝暦10年(1760年)正月には大番頭に昇進し、明和7年(1770年)4月には旗奉行に就任、安永3年(1774年)6月までその職を務めました。
その後、寛政3年(1791年)9月、76歳で亡くなっています。
大條多頼(着座大條家第八世)
通称 : 右門
生誕 : 寛延元年(1748年)
死没 : 文化5年(1808年)8月
父母 : 大條元頼(着座大條家第七世)、布施定安の娘
兄弟 : 女(宮野和広夫人)
妻 : 布施定誠の娘
子供 : 大條度頼(着座大條家第九世)
大條度頼(着座大條家第九世)
通称 : 仲三郎、木工、主税、玄蕃、蔵人
生誕 : 不詳
死没 : 嘉永7年(1854年)2月
父母 : 大條多頼(着座大條家第八世)、布施定誠の娘
兄弟 : なし
子供 : 大條猪之助(早世)、大條蔭頼(着座大條家第十世)
大條度頼は、寛政11年(1799年)7月に奉仕を始め、文化5年(1808年)に家督を継ぎました。
その後、八代藩主 伊達斉宗、九代 伊達周宗、十代 伊達斉宗、十一代 伊達斉義に仕えています。
文化10年正月(1813年)に武頭に任命され、文化14年(1817年)5月には脇番頭となり、文政元年(1818年)5月までその職を務めました。
文政3年(1820年)8月、何らかの理由で閉門処分となりますが、同年11月には許されています。
その後、文政6年(1823年)7月に再び脇番頭に復帰し、文政7年(1824年)6月からは近習を兼任しました。
大條蔭頼(着座大條家第十世)
通称 : 仲三郎、金八郎、正親、三河、河内
生誕 : 文化6年(1809年)
死没 : 文久2年(1862年)8月
父母 : 大條多頼(着座大條家第八世)、布施定誠の娘
兄弟 : 大條猪之助(早世)
子供 : 大條長頼(着座大條家第十一世)
大條蔭頼は、兄の猪之介が早世したため、庶子ながら家督を継ぎました。
嘉永3年(1850年)12月、近習目付から小姓頭に転任しています。文久2年(1862年)8月、52歳で没しました。
大條長頼(着座大條家第十一世)
別名 : 徹
通称 : 河内、二郎、今八郎
生誕 : 弘化2年(1845年)
死没 : 明治16年(1883年)
父母 : 大條多頼(着座大條家第八世)、布施定誠の娘
兄弟 : 大條猪之助(早世)
子供 : 大條長頼(着座大條家第十一世)
5. まとめ:激動を乗り越えた筆頭分家の真価
着座大條家の歴代当主を振り返ると、いずれも要職を務め、大條家の筆頭分家として仙台藩を支える存在でした。
しかし、第二世から第五世まで当主の短命が続いたことが惜しまれます。
第二世 大條元頼は27歳、第三世 大條定頼は38歳、第四世 大條直頼は21歳でそれぞれ没し、その跡を継いだ弟の第五世 大條茂頼も43歳で亡くなっています。
この相次ぐ早世により、伊具郡丸森から尾山村への所替えを命じられ、石高も500石に半減されるなど、着座大條家の家勢は大きな影響を受けました。
このように、歴代当主は藩政に尽力する中で早世という不運に見舞われながらも、仙台藩において重要な役割を果たし続けました。
家勢の浮沈を経ても、その誇りと責任を受け継ぐ姿勢は、今なお歴史の中で確かな輝きを放っています。
◼️参考資料
佐藤司馬『大條家坂元開邑三百五十年祭志』1966年
人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年
平重道『伊達治家記録』1973年
歴史図書社『仙台藩家臣録 第1巻』1978年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
角田市史編さん委員会『角田市史 1 通史編』1984年
丸森町史編さん委員会『丸森町史 [通史編]』1984年
