見出し画像

大條宗頼(大條家第九世)【上】

幼名:国松
通称:兵庫
号:不求
生誕:慶長6年(1601年)
死没:延宝4年(1676年)2月
諡名:勝福院殿向外不求居士
養父:大條宗綱(大條家第八世)
父母:大條実頼(着座大條家第一世)、藤沢近江の娘
兄弟:大條元頼(着座大條家第二世)、大窪元成(大窪家養子)、大條頼廣(平士大條家第一世)、女(黒木正三夫人)女(高屋快庵宗伯夫人)
妻:奥山兼清の娘、青湯院秀
子供:女(葛西藤左衛門夫人)大條宗快(大條家第十世)、女(寿心局)、笹町重頼(笹町元清養子)、女(成田助之允夫人)、男子(早世)、女(葛西重利夫人)


分家の末息子から急転直下で本家を継ぐことになったにもかかわらず、父親譲りの才覚を発揮し、本家の石高を倍増させた遅咲きの名君、大條宗頼について記述します。


1. 『樅ノ木は残った』の逸話

大條宗頼は大條実頼の第六子(四男)として、慶長6年(1601年)に生まれました。
関ヶ原の戦いや慶長出羽合戦の直後という、戦国時代の終盤に差し掛かった激動の時期に産声を上げたことになります。
幼い頃は「国松」と称していたようですが、これは大條家の記録に残る最初の幼名でもあります。
(大條家文書『承伝記 下』)

父と叔父(大條実頼大條宗直)は伊達政宗と同時代を生きたことで大條家歴代の中でもトップクラスの知名度を誇りますが、大條宗頼もそれに勝るとも劣らない存在感を放っています。
晩年に勃発する「伊達騒動」の序章において、大條宗頼は奉行(家老)として仙台藩の重要局面を支えた中心人物であり、伊達騒動を扱った歴史書や作品には「大條兵庫」の名が頻出します。

その中でも特筆すべきは、山本周五郎先生の名作をドラマ化したNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』です。

仙台藩で起きたお家騒動(伊達騒動)を題材に、
命をかけて伊達62万石のお家安泰をはかった
家老 原田甲斐の苦悩と、
孤独の中に信念を貫く姿が描かれました

仙台藩を揺るがした伊達騒動を背景に、命をかけて伊達62万石のお家安泰をはかった家老原田甲斐の苦悩を描いたこの不朽の名作に、なんと大條宗頼(大條兵庫)が登場しています。

山本周五郎先生の不朽の名作『樅ノ木は残った』にも「大條兵庫」の名が度々登場しており、一族の歴史を辿る上で非常に誇らしいことと言えます。

近年では、サンドウィッチマンの伊達みきおさんや、声優の伊達さゆりさんのご活躍により、メディアで大條家に関する記述を目にする機会が増えましたが、それ以前においてはこの『樅ノ木は残った』こそが、大條家の歴史的足跡を現代に伝える象徴的な作品でした。
なお、大河ドラマ『樅ノ木は残った』の総集編(DVD)のオープニングクレジットには「大條兵庫(演:内田朝雄さん)」の名前が記載されていますが、総集編本編には登場しないため、その演技を直接目にする機会は限られています。

長年、完全版の再放送やDVD/Blu-ray化を期待してきましたが、昭和45年(1970年)という古い作品でもあるため、どうやらNHKには映像が残っていないようなのです。

しかし、そんな中で朗報がありました。
柴田郡柴田町の郷土資料館「しばたの郷土館」で、ほぼ全話が上映されているとのことです。
詳細な経緯はWikipediaをご参照ください。


(Wikipediaから抜粋)
主人公の原田甲斐の居城だった船岡城があった宮城県柴田郡柴田町の郷土資料館「しばたの郷土館」に、第29話を除く全52話中の51話分の録画テープが保存されていたことが2011年2月に明らかになった。なお、このテープは録画機器がカラー対応ではなかったためにモノクロで保存されている。その後、「しばたの郷土館」の要望により、入場料を無料にしたうえでDVDにより常時放映されている(有料の場合、権利者への許諾のための対価をNHKへ払う必要があった)。

ちなみに上記はWikipediaの情報の為、視聴に行く場合は「しばたの郷土館」へ最新の状況をご確認ください

2. 本家相続の経緯と1,500石での船出

そんな大條宗頼が急転直下で大條本家を継ぐこととなったのは、元和4年(1618年)2月のことでした。
父 大條実頼の極めて鮮やかな政治的手腕により、大條宗頼は大條本家の当主の座へと就くことになりました。
先代の大條宗綱(大條家第八世)が若くして没していなければ、分家の四男である大條宗頼が本家を継ぐ可能性は皆無でした。

大條宗頼は本家相続の2年前(元和2年)、伊達政宗から知行宛行黒印状を受領しています。

岡崎之内
一 五十貫仁百八捨八文
大蔵之内
一 仁十貫九十六文
合七捨貫三百八捨文之所、下置者也、仍如件、

元和二年
七月廿四日(黒印)
大条兵庫 殿

仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編 13』2005年

岡崎村のうち、五十貫と仁百八捨八文、
大蔵村のうち、仁十貫九十六文を合わせて、
七貫三百八捨八文という知行地を下付するものである。
これに基づいて取り扱うように。
以上

元和二年(1616年)7月24日(黒印)
大條兵庫(宗頼)殿へ

筆者訳

この史料から、当時は父 大條実頼の所領であった大蔵と岡崎を合わせて70貫(約700石分)ほどを受領していたことが分かります。
やり手であった父のことですから、四男の大條宗頼に別家を立てさせ、新たな分家を創設させようと画策していたのかもしれません。

しかし、その矢先に本家当主が早世したことで、当時17歳の大條宗頼が本家の家督を継承することとなりました。
当時、仙台藩の最高幹部として絶大な影響力を持っていた父 大條実頼は、急遽本家当主となった若き大條宗頼に対し、領主としての帝王学を徹底的に叩き込んだはずです。

さらに大條実頼は、「倅はまだ若年であり、不慣れな身で大禄を維持するのは時期尚早である」と藩に申し出、元和6年(1620年)に所領のうち500石を自ら返上しました。

分家の末息子がいきなり2,000石もの大禄を得ることは、家中の妬みや「身内に甘い」という批判を招く恐れがあったためです。

周りからの見え方を冷静に計算した、大條実頼ならではの極めて深慮遠謀な判断であったと言えるでしょう。
こうして大條宗頼は、身の丈に合わせた1,500石で当主としての治世をスタートさせました。

家督相続から2年後の元和8年(1622年)、
出羽の最上家が改易となった際、大條宗頼は城受け取りの幕府公務のため、旧最上領の東根城と金山城へ赴きました。
約50日間にわたるこの任務が、史料上で確認できる大條宗頼の最初の公的な大役となりました。

また、寛永元年(1624年)2月16日には、伊達政宗から届いた一通の書状が遺されています。

以上、 其元ニ者、今程稀候 鶴、為打、為相上候、
近日御成可申 時分柄、一入令満足候、猶佐々若狭可申 越候、
恐々謹言、
二月十六日 政宗(花押)
大条兵庫頭殿

(3404)大条兵庫頭宗頼宛書状 仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編 13』2005年

以上のことについてお知らせ申し上げます。
そちらのもとより、今まで滅多に見ない稀有な珍しい鶴を討ち取ってご献上くださり、大変ありがたく存じます。
近日中に徳川家光公が我が邸にお越しくださる予定でございます。このような機会に合わせ、貴重な献上品をご用意くださったこと、一層満足し感謝しております。
なお、佐々若狭が改めて詳細を伝えるべく伺う予定でおりますので、よろしくお願い申し上げます。
恐れながら謹んで申し上げます。

ニ月十六日 政宗(花押)
大条兵庫頭殿(宗頼さま)へ

筆者訳

『伊達治家記録』によると、この時の献上品は実際にはガンの仲間である「菱喰(ヒシクイ)」2羽であったと記されています。

同記録には他の重臣たちの豪華な献上品も並んでおり、伊達宗実の「鯛10匹」、伊達安房の「鳥30羽・鶴1羽・白鳥1羽」、さらには父 大條実頼の「塩引鮭5尺」などに比べると、若き大條宗頼の献上品はどこか控えめな印象を受けます。

・伊達宗實:鯛十匹
・石川民部:雁十羽
・伊達安房:鳥三十羽、鶴一羽、白鳥一羽
・中島宗信:雁五羽
・茂庭周防:菱喰五羽
・原田宗輔:菱喰十羽
大條実頼:鮭塩引五尺

平重道 『伊達治家記録』1973年

しかしこれは、長老格の先輩方を立て、あえて遠慮を示した政治的配慮であったのかもしれません。
武家社会における社交の機微を学ぶ、絶好の経験となったことでしょう。

3. 大條実頼の逝去と当主としての独り立ち

しかし、この献上から半年後の寛永元年(1624年)8月18日、大條家に最大の試練が訪れます。
30年以上にわたり大條家の絶対的な大黒柱として君臨し続けた父 大條実頼が、享年69歳でこの世を去ったのです。
偉大すぎる父の後盾を失ったことで、大條宗頼は24歳にして真の意味で「独り立ち」を余儀なくされました。

寛永3年(1626年)には伊達政宗から改めて知行地を安堵する黒印状を受領しており、父亡きあとも着実に領地経営を進めていた様子が窺えます。

大条兵庫頭宗頼宛黒印状

一 坂本之内横堀田七反、一沼場田八町四畝、
一於曾か島田三反七畝、一水神田八町五反、
一木ノ内壱町ニ反七畝、一馬場谷地田四町弐反、
一高浦橋田八反弐畝、一大谷地田弐町七反五畝
(中略)
寛永三年
正月廿六日(黒印)

大条兵庫殿(宗頼)

大条兵庫頭宗頼宛黒印状
『大日本古文書』八六五号

(現代語訳)
・坂本村の内、横堀田は7反
・沼場田は8町4畝
・於曾か島田は3反7畝。
・水神田は8町5反
・木ノ内田は1町2反7畝。
・馬場谷地田は4町2反。
・高浦橋田は8反2畝。
・大谷地田は2町7反5畝。
(中略)
以上のことをここに記します。

寛永三年正月二十六日(1626年1月26日)
(黒印)

大條兵庫殿(宗頼)

筆者訳

4. 順調な加増と亘理伊達家との境界整備

父の死を乗り越えた大條宗頼は、着実にその実力を示していきます。
寛永9年(1632年)には加増を受けて1,657石となり、さらに寛永21年(1644年)8月には第二代藩主 伊達忠宗から再び加増を受け、ついに2,200石に達しました。

この寛永21年の加増では新田や境界余田が賜与されており、これに伴い隣接する亘理領との境界線の整備が行われたと推測されます。

詳細については、こちらのリンク先(伊達成実専門サイト「成実三昧」)をご覧ください。

年未詳2月末日の伊達成実書状によれば、
大條宗頼は亘理城主である伊達成実との間で、山の境界をめぐる交渉を円滑に進めていたことが分かります。
当時の奉行であった茂庭周防や奥山大学らが間に入り、双方にとって納得のいく建設的な協議が重ねられました。

伊達成実像
(仙台市博物館蔵)

現在も真庭の追越堤奥にある地蔵森には「元禄一二年」と刻まれた「卍地蔵」が残されていますが、
これは大條家と亘理伊達家の領地境界を示す歴史的標識であったと考えられています。

卍地蔵
(山元町 ふるさと地名考 / 山元町教育委員会 より転載)

後世にわたり隣接する亘理伊達家と良好で円満な関係を維持できたことは、大條宗頼の誠実で粘り強い外交手腕の賜物と言えるでしょう。

5. 後世へ続く名君へのステップ

期せずして分家から大條本家を継ぐこととなった若き末男は、数々の経験と父の遺訓を糧に、着実なる名当主としての道を歩み始めました。

減石からの再出発を跳ね返し、やがて大條家史上トップクラスの名君と呼ばれるに至るまでの軌跡は次回以降に詳しく記述いたします。


◼️参考資料
伊達宗行『翠雨山房夜話(上)』1988年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
佐藤司馬『大條家坂元開邑三百五十年祭志』1966年
山元町教育委員会『山元町 ふるさと地名考』1994年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
野本禎司『仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-』2022年
仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編 13』2005年
平重道 『伊達治家記録』1973年


いいなと思ったら応援しよう!