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大條家の分家/大條頼廣の系統【上】

大條家の分家は、いずれも大條家随一の名君と称される大條実頼を祖としており、そこから複数の分家が派生しています。
大條実頼の生涯は、以下のリンクをご参照ください。

大條実頼には4人の男子がいました。
二男 大窪元成は大窪家の養子となり、四男 大條宗頼は大條本家を継いだため、「分家」は長男の大條元頼と三男の大條頼廣がそれぞれ祖となっています。

長男:大條元頼
二男:大窪元成 (大窪家を継ぐが早世により断家)
三男:大條頼廣
四男:大條宗頼

長男 大條元頼の系統はこちらをご覧ください。

今回は三男 大條頼廣の系統について解説します。


1. 大條頼廣の流脈と「平士大條家」の役割

大條頼廣は三男として生まれたため、仙台藩における家格は、大條本家や着座大條家には及びませんでした。
しかし、この系統からは優れた人材が数多く輩出され、大條頼廣を祖とする分家が多く成立しています。
そのため、大條家の血脈を後世に伝える上で、この大條頼廣は極めて重要な役割を果たしてきました。

大條本家が藩政の表舞台を歩んだならば、この『平士大條家』は、仙台藩という巨大な組織を内側から支え続けた、いわば『大條家の防波堤』とも呼ぶべき一族です。
いかにして家門を存続させ、激動の時代を生き抜いたのか——その血脈の重みに迫ります。

2. 『平士大條家 歴代当主』の系譜

『平士大條家 歴代当主』
大條頼廣(平士大條家第一世)
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大條定頼(平士大條家第二世)
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大條直頼 (平士大條家第三世)
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大條頼利(平士大條家第四世)
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大條頼次(平士大條家第五世)
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大條頼始(平士大條家第六世)
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大條頼髙(平士大條家第七世)
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大條頼信(平士大條家第八世)
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大條頼一(平士大條家第九世)
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大條頼景(平士大條家第十世)


3. 『仙台藩家臣録』が伝える大條頼廣系

まずは『仙台藩家臣録』を確認してみましょう。
これは延宝4年(1676年)時点で10石以上を有する仙台藩の家臣全員の由緒をまとめた史料であり、登用の経緯や先祖の功績などが詳細に記録されています。
この史料が編纂された時期は、大條直頼(平士大條家第三世)の時代に当たります。

大條次郎左衛門
一 拙者祖父大條甚十郎儀大條薩摩三男に御座候を、貞山様御代御小性組に被召出、御知行弐拾貫文被下置候。誰を以何年に被下置候哉分明に不存候。然処に拙者親大條是休十二歳之時、右甚十郎病死仕、跡式無御相違右是休に奥山故大学を以被下置候。何年に御座候哉不存候。
義山様御代寛永廿一年弐割出四貫文野谷地新田起高六百文共に被下置、都合弐拾四貫六百文に被成下之由、右大学を以被仰渡、御黒印頂戴仕候。万治弐年四月十四日綱宗様御代御加増五貫四百文奥山大炊を以被下置、御足軽頭役目被仰付相務申候処、延宝弐年是休隠居願申上候処、無御相違家督拙者に被下置之旨同年三月六日に大條監物を以被仰渡候。先祖之品々大條猪之助方より申上候間委細には不申上候。当時拙者知行高三拾貫文に御座候。以上
延宝五年三月十

歴史図書社『仙台藩家臣録 第1巻』1978年

大條直頼(平士大條家第三世 )
一、拙者の祖父・大條頼廣について
私の祖父である大條頼廣は、大條実頼の三男でございました。
伊達政宗公(貞山公)の御代に、御小姓組として召し出され、知行200石を拝領いたしました。
誰の取り次ぎで、何年に拝領したのかについては明かではありません。
その後、私の親である大條定頼が12歳の時に、この大條頼廣が病死いたしました。
その家督は、奥山大学を通じてそのまま大條定頼に相続させていただきました。
これが何年のことであるかは存じ上げてません。
伊達忠宗公(義山様)の御代である寛永21年(1644年)に、二割出しとして40石、野谷地新田の起高(開墾した高)として6石を併せて拝領いたしました。
合計で246石となるところ、奥山大学を通じて仰せ渡され、御黒印頂戴いたしました。
これは万治2年(1659年)4月14日のことです。
伊達綱宗公の御代に54石を加増され、奥山大炊を通じて拝領いたしました。
その後、御足軽頭の役目を仰せ付けられ、相務めておりました。
延宝2年(1674年)に大條定頼が隠居を願い出たところ、その家督を差し支えなく拙者(大條直頼)に下さる旨、同年3月6日に大條宗快を通じて仰せ渡されました。
先祖の品々については、大條猪之助の方から申し上げておりますので、詳しく申し上げません。
現在の拙者の知行高は、300石でございます。
以上。

延宝5年(1677年)3月10日

筆者訳

このように『仙台藩家臣録』に記された大條直頼の言上からは、平士大條家が、大條頼廣(第一世)から大條直頼(第三世)にいたるまで、着実に知行を加増されながら藩主の信任を得ていった歩みを窺うことができます。

大條頼廣が伊達政宗公から拝領した当初の知行は20貫文(200石相当)でありました。
その後、大條定頼(第二世)の時代には二割出しや新田開発によって24貫600文(246石)となり、
さらに大條直頼(第三世)の代には5貫400文が加増され、最終的には30貫文(300石相当)を領する家柄へと成長を遂げたのです。

また、大條定頼がわずか12歳の時に大條頼廣が急逝するという危機に見舞われながらも、奥山大学ら重臣の取り次ぎを経て無事に家督が相続されており、大條家臣団としての確固たる地位と伊達家からの強い信頼が窺えます。
それではここから、平士大條家の歴代当主について紹介してまいります。

4. 第一世~第三世の足跡

大條頼廣(平士大條家第一世)
通称 : 甚十郎
生誕 : 未詳
死没 : 元和5年(1619年)4月8日
父 : 大條実頼
母:中山大蔵の娘
兄弟 : 大條元頼(着座大條家第二世 )、大窪元成(大窪家養子)、女(黒木正三夫人)、女(高屋快庵宗伯夫人)大條宗頼(大條家第九世)
妻 : 初娶 大塚縫殿助の姉 / 後娶 中村出雲の姉
子供 : 大條定頼(平士大條家第二世)、女(長沼信重夫人)大條林頼

大條頼廣は、大條実頼の三男として生まれました。生年は不詳ですが、伊達政宗公の時代に御小姓組として召し出され、当初は知行として200石相当を拝領しました。
その後、元和4年(1618年)には、登米郡内4カ所において新たに200石相当の知行を拝領します。
しかし、その将来を期待されながらも、翌元和5年(1619年)4月8日、大條頼廣は若くしてこの世を去りました。
記録には明記されていませんが、当時の武士を襲った急性疾患(流行病や急激な体調悪化)によるものと考えられます。戦国の余韻が残る過酷な奉公と、激務を伴う小姓としての生活は、健康管理においても非常に厳しい環境にありました。
なお、筆者は、この大條頼廣こそが史料に登場する謎の人物「大條市蔵」の正体ではないかと考えています。慶長9年(1604年)の鹿狩りに随行した「大條市蔵」は、当時小姓であった大條頼廣の名であり、大條実頼が伊達政宗に子息を披露する絶好の機会と捉え、この大役に抜擢したのではないかと推測しています。

大條頼廣は、これからという時に若くして亡くなり、生前の記録は多く残されていません。しかし、大條頼廣の系統からは多くの分家が生まれ、大條家の血脈は大きく広がっていきました。

大條定頼(平士大條家第二世)
通称 : 伊勢、是休
生誕 : 慶長13年(1608年)
死没 : 寛文6年(1666年)
父 : 大條頼廣
母:中村出雲の姉
兄弟 : 女(長沼信重夫人)、大條林頼
妻 : 日野備中の娘
子供 : 女(平治部夫人)、大條直頼(平士大條家第三世)、大條頼重、油井房頼(油井家養子)、大條次頼

大條定頼は、慶長13年(1608年)に生まれました。
伊達忠宗の御代には近習、江戸留守番、足軽頭といった要職を歴任し、仙台藩の統治を支える実務家として確かな歩みを進めています。
寛永21年(1644年)には経界の余田を授かり、野谷地の開墾を行うなどして、知行高を着実に積み上げました。その後も万治2年(1659年)に加増を受けて合計知行を300石とし、翌万治3年(1660年)には小石川普請の御馳走役を仰せ付けられるなど、藩政の中枢でその能力を発揮し続けました。
その後も長く藩に奉公し、延宝8年(1680年)11月9日、73歳でその生涯を閉じました。
先代である大條頼廣の早世という困難を乗り越え、荒地の開墾や数々の加増を通じて家禄を堅実に拡大させたその姿は、後の大條家の分家繁栄を支える大きな基盤となりました。
ちなみに、妻の実家である日野家は、最上家の家臣です。

大條直頼(平士大條家第三世)
通称 : 仁右衛門、次郎左衛門
生誕 : 寛永8年(1631年)12月
死没 : 延宝7年(1679年)4月23日
父:大條定頼(平士大條家第二世)
母:日野備中の娘
兄弟 : 女(平治部夫人)、大條頼重、油井房頼(油井家養子)、大條次頼
妻 : 石原六兵衛の娘
子供 : 大條頼成

大條直頼は寛永8年(1631年)12月に生まれました。家督を継いだ後は国元番上役を歴任します。
年次は不詳ながら、御免(役職を離れている期間や特別な許可を得ている状態)の最中に、他国の御用を仰せ付けられた旨が記録に残されています。その後、延宝7年(1679年)4月23日に49歳で病没しました。

大條直頼には当初実子がなく、家名存続のために松坂九郎左衛門の二男である甚兵衛を養子として迎え、跡目を譲りました。
しかし、のちに実子である大條頼成が誕生したことで、結果的に養子と実子という二人の後継者が並び立つ状況となりました。
武家社会において、実子がいながら養子を迎えることは珍しいことではありませんが、その後の家督整理には相応の苦心があったはずです。
のちに実子である大條頼成が叔父である大條次頼の養子となって家督を継ぐという流れを見ると、大條直頼の代で養子を迎え入れたことが、結果として分家全体の家督を整理し、一族の血脈を滞りなく繋ぐための調整弁として機能したことがうかがえます。大條直頼の決断は、必ずしも実子を差し置いた冷徹な判断というわけではなく、むしろ不安定な時代の中で「いかにして大條の家系を絶やさず維持するか」という、当時の当主としての現実的かつ苦心の采配であったといえるでしょう。

大條頼成に関しては別記事にて詳述します。

5. 第四世~第十世の継承と真田家との結びつき

以降は、大條頼利が平士大條家第四世をしっかりと継承し、その後は大條頼次(平士大條家第五世)、大條頼始(平士大條家第六世)、大條頼高(平士大條家第七世)、大條頼信(平士大條家第八世)、大條頼一(平士大條家第九世)、そして大條頼景(平士大條家第十世)へと至り、明治の世を迎えることとなりました。
なお、大條頼信(平士大條家第八世)の弟は、真田信繁(幸村)の二男が家祖である仙台真田家に養子へ入っており、真田の血筋と大條家の縁を繋ぐという、興味深い歴史の結びつきを見せています。

真田信繁 / 真田幸村 肖像画
上田市立博物館所蔵

このように、歴代の当主たちは藩政の要職を担い、激動の時代にあっても一族の絆を強固に守り抜いてきました。
家名を守り、次代へと脈々と繋がれてきたその歩みは、大條家という名が単なる家系図上の記録にとどまらず、仙台藩の歴史そのものを支える確かな矜持であったことを証明しています。

なお、大條頼廣の系統は、ここからさらに多くの分家へと枝分かれしていきます。その詳細については、また次回の記事で触れていきます。

◼️参考資料
歴史図書社『仙台藩家臣録 第1巻』1978年
大條正克、大條駒雄『(伊達家)大條家 家系略図』 1981年
金田豊子『大條家文書』2022年
『大條家家系図』 元文2年(1737年)4月


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