大條市蔵(未詳)
慶長9年(1604年)2月の『伊達治家記録』に、突如としてその名をあらわす謎の人物「大條市蔵」が存在いたします。
ごく一部の大條家の系譜におきましては、大條宗直(大條家第七世)の二男、すなわち大條宗綱(大條家第八世)の弟として記載されているものの、その他の家伝や史料にはその存在を示す痕跡がほとんど見られず、歴史の闇に包まれた人物となっております。
果たして大條市蔵とは何者であったのか、そして真に大條宗綱の弟であったのか。
本稿では、当時の名乗りの構造や伊達政宗の鹿狩りへの随行記録、さらには一族の生年関係に基づく消去法的な検証を通じ、史料の行間に隠された「大條市蔵」の真の実像に迫ってまいります。
1. 謎の人物「大條市蔵」と系図の矛盾
同書の慶長9年(1604年)2月の条には、伊達政宗の牡鹿郡遠島における鹿狩りの随行者として、以下の通りその名が記録されております。
直ニ牡鹿郡遠島へ御出、御鹿狩アリ。
今度御供ノ輩、茂庭石見、屋代勘解由兵衛、大條薩摩、(中略)、大條市蔵、(中略)、藤田少的等ナリ。
ここに登場する「大條市蔵」は、大條家の公式な系譜において極めて曖昧な存在であり、その正体をめぐっては歴史的解釈に大きな疑問が残されております。
本田勇氏著『仙台伊達氏家臣団事典』(2003年)所収の系図におきましては、山元町史や伊達市教育委員会所蔵の亘理伊達家文書「伊達族譜」等の先行史料を参照した結果として、大條宗直(大條家第七世)の二男、すなわち大條宗綱(大條家第八世)の弟として「大條市蔵」の名が掲載されていると考えられます。
しかしながら、その他の主要な大條家系図や関連史料には同名の記載が見られないことから、この伝承には史料の転写や解釈の過程における複雑な背景が存在する可能性が示唆されるのであります。
2. 鹿狩りへの随行と消去法による推理
この大條市蔵の正体を解き明かす鍵は、まずその名乗りの構造に存在いたします。
当時の大條本家における通り名(通字)は「宗」であり、分家(着座大條家)は「頼」を原則としておりました。
「市蔵」という名乗りには通字が含まれておらず、武士の慣習上、出家後の法号か、あるいは元服前後から実名を確立するまでの小姓・若年期における「仮名(通称)」のいずれかであったと考えられます。
しかしながら、慶長9年(1604年)2月の牡鹿郡遠島における鹿狩りは、伊達政宗に随行する軍事・政治的行事であります。
仮に出家した身であればこのような殺生を伴う行事に随行することはあり得ず、出家後の名という説は排除されます。
したがって、大條市蔵とは「まだ公的な実名を確立していない小姓段階の通称」であった可能性が極めて濃厚となるのであります。
そして、仮に系図の通り「大條宗綱の弟」であったといたしますと、新たな矛盾が生じます。
鹿狩りに同行していた大條実頼は、当時仙台藩奉行職(他藩における家老職)を務める家中の最高幹部でありました。
その大條実頼が、最高幹部としての公務において、早世あるいは後嗣とならなかった庶子の甥(兄 大條宗直の二男)をあえて直々に御供させる政治的必然性は極めて乏しいと言わざるを得ません。
この鹿狩りの随行記録における「大條薩摩(実頼)」と「大條市蔵」の同時記載に着目いたしますと、大條市蔵は「大條宗綱の弟」ではなく、大條実頼の直系(息子たち)における若年期の通称表記であったとする仮説が浮かび上がってまいります。
慶長9年(1604年)当時における大條一族の主要な若年層の年齢を精査いたしますと、以下の通り検証されます。
A:大條宗綱(大條家第八世 / 実頼の甥)
B:大條元頼(着座大條家第二世 / 実頼の長男)
C:大窪元成(大窪家養子 / 実頼の二男)
D:大條頼廣(平士大條家第一世 / 実頼の三男)
E:大條宗頼(後の大條家第九世 / 実頼の四男)

第一に、大條宗綱(当時20歳前後の甥)および大條元頼(当時17歳前後の長男)の2名は除外されます。
この年齢であれば、すでに公的な実名や固有の通称を確立して活動しているはずだからであります。
第二に、大條宗頼(当時3歳前後の四男)も除外されます。
幼名が「国松」と伝わる上、3歳児が過酷な鹿狩りに随行することは物理的に不可能だからであります。
消去法によって残されるのは、二男である大窪元成と、三男である大條頼廣の2名であります。
3. 「大條頼廣説」の考察
この両者の生年は史料で明示されておりませんが、三男の大條頼廣と四男の大條宗頼の間に2人の女児が生まれている生年構造を勘案いたしますと、慶長9年(1604年)当時、大條頼廣は10代前半の小姓として伊達政宗の身辺に仕え始める適齢期であったと推察されます。
特に大條頼廣につきましては、後年に伊達政宗の小姓組へ列していた記録が明確に残されております。
これらの史実の点を連結いたしますと、慶長9年(1604年)の『貞山公治家記録』に登場する「大條市蔵」とは、大條宗直の謎の二男ではなく、仙台藩奉行 大條実頼が自らの三男である若き大條頼廣を小姓として推挙し、遠島での鹿狩りに随行させて伊達政宗に薫陶を授けさせた姿そのものであったと結論づけるのが、最も論理的かつ歴史的整合性の高い解釈であると考えられます。
最高幹部であった大條実頼がこの時期に三男の大條頼廣を主君へ引き合わせた試みは結実し、のちに大條頼廣を始祖とする「第三の大條家(平士大條家)」が創設されるという大條一族の更なる繁栄へと繋がっていくのでありました。
◼️参考資料
平重道『伊達治家記録』1973年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
金田豊子『大條家文書』2022年
