大條家から他家への養子【1】大窪元成
史実を紐解くと、大條本家において他家の家督を継ぐために養子が出された例は、ごく一握りに過ぎません。
そうした稀有な経緯で他家を継ぐこととなった人物は、大條の血を受け継ぎながらも、家の歴史の表舞台で語られることは多くありませんでした。
大條家はどのような意図や戦略を込めて彼らを養子に出したのか、そして、彼らはどのような運命と人生を歩んだのか、その足跡を辿っていきます。
1. 大窪元成(大條実頼の二男)
「大條実頼の二男」でありながら史料にはほとんど記録が残されておらず、後世でも語られる機会は極めて少ない存在です。
大條実頼の息子の中で、これほど不遇な位置付けに甘んじている人物は他にはいません。
大窪元成
通称:伝七郎、内膳
生誕:不詳
死没:不詳
父:大條実頼(着座大條家第一世)
母:中山大蔵の娘
養父:大窪玄蕃(仙台藩家格/一族)
兄弟:大條元頼(着座大條家第二世)、大條頼廣(平士大條家第一世)、女(黒木正三夫人)、女(高屋快庵宗伯夫人)、大條宗頼(大條家第九世)
子供:なし
系譜:無嗣により正保3年(1646年)大窪家断絶
まず、大窪元成の生誕時期について考察します。
残念ながら史料上に生誕年の記載はありません。
しかし、兄弟たちの生誕年や活動時期から紐解いていくと、おおよその時期が見えてきます。
大條実頼には4男2女、計6人の子供がいました。
長男:大條元頼(天正16年/1588年生まれ)
二男:大窪元成(生誕年不明)
三男:大條頼廣(生誕年不明)
長女:黒木宗元の妻(生誕年不明)
二女:高屋宗伯の妻(生誕年不明)
四男:大條宗頼(慶長6年/1601年生まれ)
ここで鍵となるのが、三男 大條頼廣の存在です。大條頼廣は元和5年(1619年)に若くして没していますが、その長男である大條定頼(平士大條家第二世)が慶長13年(1608年)に誕生しています。
当時の武士における結婚および初子誕生の年齢(20歳前後)から逆算すると、大條頼廣は天正18〜19年(1590〜1591年)頃の生まれと推測するのが自然です。
となれば、長男 大條元頼(1588年生まれ)と三男 大條頼廣(1590〜1591年頃生まれ)の間に位置する二男 大窪元成の生誕年は、必然的に天正17〜18年(1589〜1590年)頃であった可能性が非常に高くなります。
この時期は、父 大條実頼にとってまさに怒涛の転換期であり、人生の大きな佳境にありました。
天正16年(1588年)に伊達家への帰参を果たして分家を興して以来、伊達政宗の側近として葛西家や田村家への重要使者として縦横無尽に奔走します。
前年の天正17年(1589年)には摺上原の戦いを経て伊達家の南奥州制覇を間近で支えるなど、武将としても外交官としても脂が乗り切った全盛期を迎えていました。
大窪元成は、父 大條実頼が伊達家中で勝ち得た確固たる地位と、その激動の熱気の中で産声を上げたのでした。
2. 大窪家への養子入りと「元成」改名の考察
では、大窪元成が大窪家へ養子に入った時期はいつ頃だったのでしょうか。
一般的に武家の養子縁組や家督継承は元服後から20歳前後に多く行われます。
大窪元成が天正17〜18年(1589〜1590年頃)生まれと仮定すると、養子に入ったのは慶長10年代前半(1605〜1610年頃)だったと考えられます。
この時期、父 大條実頼は奉行職(家老)として仙台藩政のトップに君臨し、長男 大條元頼に家督を譲るなど、大條家の立ち位置を磐石なものにしていました。
この強い政治力を背景に、仙台藩の「一族」という高い家格を誇る大窪家への養子縁組が成立したのでしょう。
また、「元成」という名についても興味深い考察ができます。
大條実頼の男子(大條元頼・大條頼廣・大條宗頼)には実頼の「頼」の字が通字として授けられており、長兄がすでに「元頼」を名乗っていたことを考えると、 大條家にいた青年期は父親から一字を賜り「大條頼成」と名乗っていたのではないでしょうか。
そして、大窪家を継ぐにあたって「元成」へと改名したと推測すると、大條の血脈を誇りに抱きつつ他家へ渡った大窪元成の名の歴史が、より鮮明に浮かび上がってきます。
3. 葛西外交と父 大條実頼が果たした役割
大窪元成が養子に入った「大窪玄蕃家」とはどのような家柄だったのでしょうか。
坂田啓編『私本仙台藩藩士辞典』に重要な記述を見つけることができました。
家格 一族
天正十年相馬義胤大内定綱の事話し合った時大窪玄蕃有り、其の子内膳、正保三年罪有り、家亡。禄高七貫文。
(出典:治家記録八巻155ページ・補修伊達旧臣家譜)
家格 一族
天正10年(1582年)、相馬義胤と大内定綱の件について協議が行われた際、大窪玄蕃の名が見える。その子である内膳は正保3年(1646年)に罪があり家は断絶した。禄高は7貫文(約70石)である。
この『補修伊達旧臣家譜』に出てくる「内膳」こそ、まさに大條実頼の二男 大窪元成その人と考えられます。
史料には「罪有り」と記されていますが、これは後世編纂の過程で「無嗣断絶(後継がなく断絶したこと)」が誤って解釈・誤記されたのでしょう。
何より「内膳」という通称、そして「正保3年(1646年)の断絶」という年次が一致しています。
一方で『伊達治家記録』には、大窪玄蕃についてこのような記述が遺されていました。
大窪玄蕃、先祖由緒等不知、座列ヲ推スレハ、當家一族ノ列ナリ、寛永四年以後御儀式帳等ニモ見ヘス、其比ヨリ此家断絶スト見エタリ。
大窪玄蕃について、先祖やその由緒などは不明であるが、式典などにおける座席の順列から推測すると、伊達家の「一族」に連なる高い身分である。
寛永4年(1627年)以降の『御儀式帳』などの記録に名が見えないため、その頃からこの家は断絶したものと思われる。
仙台藩において「一族」という高位の家格を与えられながら、なぜ「先祖由緒不知」と処理されているのでしょうか。
本来、仙台藩の家格における「一族」とは、伊達家に古くから仕える代々の譜代家臣に与えられる格式です。
同家格には、伊達家屈指の忠臣として数々の武功を挙げた茂庭(鬼庭)家らも名を連ねています。
それほどの名門でありながら先祖の由来が不明とされていることには、どうしても違和感が残ります。
しかし、ここにこそ史料の行間から浮かび上がる父 大條実頼の存在と「一つの仮説」が繋がってきます。
前提として、大條実頼は葛西家滅亡後、旧臣たちの伊達家登用や再起において極めて重要なパイプ役を果たした人物でした。
例えば葛西の浪人であった笹町家へも、自身の没後に孫(四男 大條宗頼の二男)が養子入りして家督を継ぐなど、没落した葛西関係者の再起を助け、自らの血縁を通じて彼らを伊達家臣団の中に繋ぎ止める役割を担っていたのです。
この背景を踏まえた上で注目したいのが、
天正17年(1589年)8月9日の『伊達天正日記』に記された葛西家との外交交渉に関する記録です。
天正17年(1589年)8月9日
さる 九日
天気雨ふり申候、かさいへの御返事、大越ヲもって、やとへ被指越候、御使ハ大窪主計にて候、(以降略)
天正17年(1589年)8月9日
9日(申の日)
天気は雨が降っていました。葛西晴信への返答を、大條実頼を使って交渉拠点まで派遣しました。使者は大窪主計でした。
直前の天正17年(1589年)6月、伊達政宗は摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼし、南奥州の覇権を確立させていました。
この伊達政宗の爆発的な勢力拡大に対し、北隣の葛西晴信は領国を呑み込まれねばならぬという極めて切迫した危機感に直面していたのです。
従属か独立維持か、葛西家が自らの生き残りを賭けて伊達家との緊張感あふれる水面下の条件闘争に挑む中、伊達政宗の滞在陣所へ赴き、葛西晴信の命を受けて直接折衝にあたっていた葛西家重臣こそが「大窪主計」でした。
そして、伊達側の代表として大窪主計と対峙し、緊迫した交渉の場に立っていたのが他ならぬ父 大條実頼だったのです。
大條実頼はこの時、伊達政宗からの返書を自ら大窪主計の宿所まで届けて提示し、葛西家との今後の関係性や領土を巡る条件闘争を直に交わしたと考えられます。
しかし、こうした個別の外交努力をも呑み込む時代の奔流が押し寄せます。
翌天正18年(1590年)、豊臣秀吉による奥州仕置によって戦国大名 葛西家は不意に滅亡へと追い込まれ、大窪主計ら葛西重臣たちもまた一瞬にして路頭に迷うこととなりました。

(Wikipediaより)
ここで、冒頭に触れた「仙台藩の一族でありながら先祖由緒不知とされた大窪家」の存在が重なってきます。
なぜ、葛西家の重臣であったはずの大窪主計の話が、仙台藩の大窪家と繋がってくるのでしょうか。
天正10年(1582年)の相馬・大内を巡る交渉の場に大窪玄蕃の名が見えることから、伊達家側に「一族」として遇される大窪家のラインが存在していたことは確かです。
一方で、葛西家側の大窪家も外交の要衝を担う大身でした。
この両者がどのような血縁関係にあったのか、あるいは単なる「同苗」に過ぎなかったのかは定かではありません。
しかし、葛西家滅亡という激動のさなか、大條実頼の手を介して葛西大窪家の立場や名跡が伊達側の大窪玄蕃家へと重なり合う形で統合・再編されたのではないか、そんな一つの可能性も、頭をよぎります。
仮にそうした特殊な事情が存在したとすれば、双方の関係性や正式な家譜が複雑化し、後代の公式記録において「由緒不知」と整理せざるを得なかったという推測も、あながち不自然ではないのかもしれません。
確たる史料が残されていない以上は推測の域を出ませんが、かつて外交交渉を通して大窪氏の家柄や格式を直に知っていた大條実頼が何らかの助言を行い、さらに自身の二男である元成を養子として送り込むことで、名門 大窪家の血脈と「一族」としての座列の定着にひと役買ったという見方もできるのではないでしょうか。
大條実頼が誇りある大窪の名跡を我が子に託し、歴史の裏で「大窪家再興」を果たしたのだとすれば、記録から消された二男 大窪元成の生涯は、父の義理堅さと政治的ドラマを一身に背負った、味わい深いものとして浮き彫りになってくるのです。
この「葛西大窪家との統合」という仮説の真偽については今後の史料発見を待つ必要がありますが、少なくとも「大條実頼の二男 大窪元成が、伊達家中において高い家格を与えられ、表舞台に確かに存在していた」という事実は、『伊達治家記録』の中からはっきりと確認することができます。
4. 仙台城「一番座」への列席
元和7年(1621年)および寛永2年(1625年)の仙台城における正月祝賀の記録を見ると、お祝いの挨拶を行う家臣団の「一番座(最上座)」の中に、明確に「大窪玄蕃」の名が刻まれているのです。
元和七年辛酉 公御年五十五 正月庚寅小元日甲寅。仙臺城ニ於テ御祝儀アリ。
(嗣君ハ江戸ニ御座ス。)
御禮ノ輩一番座石川民部殿宗昭・伊達安房殿成實・伊達武蔵殿宗則・伊達安藝殿定宗・鮎貝兵庫宗定・黒川勝三郎 諱不知・柴田惣四郎宗朝・小梁川次郎吉宗影・塩森長門 諱不知・藤田権四郎 諱不知・大條兵庫宗頼・泉田治部重時・村田民部宗友・秋保雅楽定盛・石母田大膳宗頼・新田式部義親・瀬上兵部景純・石川信濃景光・白石備前宗直・亘理又次郎宗根・大立目修理 諱不知・小泉肥前 諱不知・上郡山内匠常為・増田将監宗繁・國分宮内行信・大町主計元頼・大塚伯耆 諱不知・大内太郎八重綱・ 半田玄蕃重親・西大條右兵衛義綱・小原勝右衛門重純・西大立目三十郎本信・白岩内記 諱不知・中島監物貞成・遠藤飛騨 諱不知・中島左衛門宗信・佐藤甚三 郎實信・茂庭周防良綱・畑中甚太郎清頼・大窪玄蕃 諱不知・下郡山右衛門 諱不知・沼邊玄蕃重仲・砂金右兵衛實常・遠藤式部玄信・富塚内蔵信綱・志賀兵四郎 諱不知 ナリ。
同御召出ノ輩藤田但馬 宗嘉・白石藤三郎宗貞・白石又四郎宗元・新田清作 諱不知・大町源七郎定頼・泉田助太郎 諱不知・茂庭権作 長元・富田又三郎 諱不知・富塚又市郎信定(以降省略)
元和7年、伊達政宗公の御年齢は55歳。
正月(庚寅の月)、小正月(1月15日、甲寅の日)。仙台城においてお祝いの儀式があった。
(跡継ぎの伊達忠宗公は江戸におられる。)
お祝いの挨拶をする家臣たちのうち、一番座(最上座)の者たちは以下の通りである。(以降略)
続いては寛永2年(1625年)の記録です。
寛永二年正月 / 盡同年十二月 諸臣等奉 君命謹撰 寛永二年乙丑 公御年五十九 正月戊寅大元日庚戌。仙臺城ニ於テ御祝儀アリ。
(嗣君ハ江戸ニ御座ス。)
御禮ノ輩一番座 石川民部殿宗昭・伊達安房殿成實・伊達武蔵殿宗則・伊達安藝殿定宗・伊達相模殿宗直・鮎貝兵庫宗定・黒川正三郎 諱不知・柴田惣四郎宗朝・小梁川左京宗影・塩森惣八郎 諱不知・藤田右兵衛宗景・大條兵庫宗頼・泉田出羽重時・村田民部宗友・秋保雅楽定盛・桑折膳次郎定長・石母田大膳宗頼・新田式部義親・瀬上刑部景純・石川信濃景光・白石刑部宗貞・亘理右近宗根・大立目修理 諱不知・田手肥前宗實・國分宮内行信・ 増田将監宗繁・上郡山内匠常為・大町主計元頼・大塚伯耆 諱不知・大内備前重綱・半田玄蕃重親・西大條右兵衛義綱・小原勝右衛門重純・西大立目三十郎本信・白岩内記 諱不知・中島監物貞成・宮内因幡常清・ 中島左衛門宗信・遠藤源六郎 諱不知・茂庭周防良綱・ 佐藤甚三郎實信・畠中甚太郎清頼・片平八藏重綱・ 下郡山右衛門 諱不知・大窪玄蕃 諱不知・大立目助太郎 諱不知・沼邊玄蕃重仲・砂金右兵衛實常・高城外記宗直・大町勘解由通頼・原田雅楽宗輔・富塚内藏信綱・ 遠藤式部玄信・志賀兵四郎 諱不知・石田内膳與純・後藤孫兵衛近元・同御召出ノ輩 伊達又四郎殿宗元(以降省略)
寛永2年(1625年)、伊達政宗公の御年齢は59歳。 正月(戊寅の月)、大元日(1月1日、庚戌の日)。仙台城においてお祝いの儀式があった。 (跡継ぎの伊達忠宗公は江戸におられる。)
お祝いの挨拶をする家臣たちのうち、一番座の者たちは以下の通りである。(以降略)
5. 30代での早世と大窪家の落日
史料上は「諱(実名)不詳」とされているため、ここに記された「大窪玄蕃」が養父であるのか、あるいは大窪元成自身であるかは定かではありません。
しかし年代から推測すると、既に家督を継承した大窪元成自身であり、名門 大窪家の伝統である通称「玄蕃」を襲名していた可能性が高いと考えられます。
仮にこの人物が養父であったとすれば、これからわずか数年のうちに養父と大窪元成の二人が相次いで没して断絶に至ったことになり、歴史の経過としてはやや不自然です。
この時点で当主となっていた大窪元成自身が「大窪玄蕃」として列席していたと捉えるのが極めて合理的と言えます。
この一番座には藩主家の近親者である「一門」を筆頭に、大條家が属する「一家」、そして「一族」といった最高家格層が並んでおり、大條本家には及ばずとも、大窪家が「一族」として非常に高い格式を与えられていた事実が窺えます。
そして何より胸を打つのは、実の弟である大條宗頼(大條家第九世)とともに、大窪元成が仙台城で伊達政宗に拝謁していたという事実です。
これまで完全に足跡を見失われていた大窪元成が、実の弟である大條宗頼と同じ最高位の場に名を連ねていたという、公式記録に残されたこの証拠は、まさに歴史の暗闇に光が射したかのような発見と言えます。
しかし、この栄華は長くは続きませんでした。
史料上の断絶年は正保3年(1646年)とされていますが、大窪元成自身は複数の文献に「早死」と記されているため、実際の没年はそれよりもかなり遡るはずです。
寛永4年(1627年)以降の『御儀式帳』からその名が消えていることを踏まえると、寛永2年(1625年)から寛永4年までのわずか2年ほどの間に、30代半ばという若さで早世してしまった可能性が高いと考えられます。
その後、長期間の当主不在を経て正保3年(1646年)に手続き上の無嗣断絶に至ったと解釈するならば、謎に包まれていた大條実頼の二男 大窪元成の足跡は、この「一族 大窪玄蕃家」の落日とともにあったと結論づけられるのではないでしょうか。
◼️参考資料
坂田啓『私本仙台藩藩士辞典』1995年
人物往来社『戦国史料叢書 第2期 第11』1967年
平重道『伊達治家記録』1973年
金田豊子『大條家文書』2022年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
角田市史編さん委員会『角田市史 1 通史編』1984年
丸森町史編さん委員会『丸森町史 [通史編]』1984年
