大條家から他家への養子【2】笹町重頼
今回取り上げるのは、大條実頼の孫であり、 大條宗頼(大條家第九世 )の二男として生まれた笹町重頼です。
祖父 大條実頼の代から見られる、大條家と葛西家との関係性のもと、葛西旧臣筋である笹町家へ養子入りしました。
笹町重頼は新田や野谷地の開発に精力的に取り組み、小組組頭、脇番頭、旗元足軽頭といった藩の要職を務めながら、知行高を1,300石相当にまで拡大させた優れた手腕の持ち主でした。
しかし、その足跡には複雑な背景が重なります。
領地開発を進める中で生じた長禅寺の住職 栄存法印との山林境界を巡る対立、そして「栄存の祟り」として語り継がれることとなる怨霊伝承や、自身没後の笹町家の改易(知行没収)——。
「非情な権力者」や「怪異の当事者」といった伝承上のステレオタイプで片付けるのではなく、領地経営に意欲的だった一人の武士の実像と、その家を巡る史実を検証します。
1. 笹町重頼(大條宗頼の二男)
笹町重頼
通称:新左衛門、彦三郎、九左衛門
生誕:不詳
死没:貞享3年(1686年)
父母:大條宗頼(大條家第九世)、奥山兼清の娘
養父:笹町元清
兄弟:大條宗快(大條家第十世)、女(葛西藤左衛門夫人)、女(寿心局)、女(成田助之允夫人)、男子(早世)、女(葛西重利夫人)
妻:笹町元清の娘
子供:笹町彦三郎(早世)
笹町家の始まりは、葛西清重に従い奥州へ渡った葛西氏の旧臣 笹町胤重が、牡鹿郡湊之津城を構えたことに遡ると伝えられています。
その孫にあたる笹町胤持の代で、天正18年(1590年)の奥州仕置により主家 葛西家は滅亡。
一時は浪人となりましたが、「葛西・大崎一揆」を経て、伊達政宗の時代に20石の知行で伊達家に召し抱えられました。
この笹町胤持の嫡男が、のちに大條家から養子を迎えることとなる笹町元清(但馬)です。
笹町元清には男子がなかったため、慶安2年(1649年)、仙台藩の家格「一家」である大條宗頼の二男を婿養子として迎え入れ、笹町重頼と名乗らせました。
笹町重頼の生誕年は不詳ですが、兄である大條宗快(大條家第十世)が元和7年(1621年)生まれであり、二人の姉の存在を考えると、寛永8年(1631年)前後の生まれではないかと推測されます。
そう考えれば、慶安2年(1649年)に笹町家へ養子入りした際は18歳前後となり、年齢的にも整合性が取れます。
笹町家へ養子入りしてからは、寛文2年(1662年)に養父 笹町元清が隠居したことで、笹町重頼は正式に家督を継承します。
2. 新田開発と知行1,300石への急成長
家督を継いだ笹町重頼は、藩内でも順調に頭角を現していきます。
同年8月18日には「脇番頭」に就任し、延宝5年(1677年)には「旗元足軽頭」を務めるなど、キャリアを着実に積み上げていきました。
また、領主としても精力的に新田や野谷地の開発を推し進め、知行高は最終的に1,300石にまで激増。
家格・知行ともに「大身」へと成長を遂げます。
こうして見渡してみると、当時の笹町家がいかに破竹の勢いの中にあったかが分かります。
かつて祖父 笹町胤持の時代には、葛西家の滅亡によって領地を失い、浪人として厳しい時代を余儀なくされた笹町家でした。
しかし、笹町重頼が家督を継いだ時代を経て、その運命は劇的な好転を見せることとなります。
脇番頭や旗元足軽頭といった藩の重職を担う存在へと成長を遂げただけでなく、精力的に進められた野谷地開発などを通じて知行高は最終的に約1,300石に及ぶ大身へと拡大していきました。
個人の手腕のみならず、時代の波と一族の蓄積が見事に結実したこの時期、家中における笹町家の存在感と格式は最高潮へと達していたのです。
しかし、この知行拡大と躍進の裏で、やがて大きな摩擦が生じることになります。
それが、牧山長禅寺の住職 栄存法印との間で起きた、領地や山林の境界を巡る対立でした。
3. 栄存法印との対立と「怨霊祟り伝承」
栄存法印は豊臣秀吉の家臣 片桐且元の孫と伝えられ、諸国を修業して回った末に石巻の牧山へ辿り着いたとされています。

(Wikipediaより)
栄存法印は地域の復興に尽力し、地元領主である笹町元清の支援を得て、荒廃していた長禅寺を再興してその住職となりました。
しかし、新田開発を精力的に推し進める次代の領主 笹町重頼と、寺社領や山林の固有権利を守ろうとする栄存法印の間で深刻な対立が生じます。
双方の主張は平行線をたどり、やがて激しい訴訟合戦へと発展していきました。
最終的に延宝7年(1679年)、笹町重頼側の訴えが認められる形で、栄存法印は江島(宮城県女川町)への流罪に処されることとなります。
このように、本来は「領地開発を巡る権利の衝突」であったこの紛争ですが、後世の伝承では随分と異なる文脈で語り継がれていくことになります。
伝承における笹町重頼は、栄存法印の高まる名声を妬み、彼を陥れようと様々な嫌がらせを行った悪役として描かれています。
さらには、栄存法印と姪のお栄との間に不適切な関係があるかのように笹町重頼が罪を捏造し、その濡れ衣によって栄存法印を江島への流罪に追い込んだと語り継がれているのです。
どこまでが真実かは今となっては定かではありませんが、民衆の伝承は尾ひれをつけて広がり、現在ではこの説があたかも史実であるかのように記されている書物も少なくありません。
しかし、民衆が語り継いだ「物語」の真骨頂はまさにここからです。
流罪となった栄存法印は、自身の潔白を訴え続けましたが、その願いが叶うことはなく病に倒れます。
死の間際、栄存法印は島民に「我が遺体は逆さに埋葬せよ」と遺言を残しました。
しかし島民がその言葉を守らなかったため、村には海難や病気などの凶事が相次ぐこととなります。
驚いた島民が改めて遺言通りに埋め直すと、不思議と凶事は収まったと伝えられています。
しかし、物語はこれで終わりません。
やがて栄存法印の亡霊が、笹町重頼の屋敷に姿を現します。
首を逆さに吊られた凄惨な異形となって笹町重頼を苛むと、その怪異は一族全体へと忍び寄りました。
幽鬼に憑かれた笹町重頼は自らの足を切りつけ、さらには愛息 笹町彦三郎や妻までもその手で斬殺した挙句、発狂のなかで非業の死を遂げます。
こうして笹町家は凄惨な末路をたどり、滅亡したと語り継がれているのです。
こうした怪異伝承の真偽はともかくとして、笹町重頼も栄存法印も、元来はそれぞれの立場で才覚を発揮し、順風満帆な時期を過ごしていました。
しかし、両者の道が交差したことで、双方の運命は大きく暗転していくことになります。
笹町重頼は、知行高を約1,300石にまで激増させるほどの敏腕であり、優れた実行力を備えた領主でした。
だからこそ、新田開発の現場において時には強引な手法を取らざるを得ない局面があり、それが栄存法印との泥沼の対立へと発展してしまったのではないでしょうか。
ちなみに、笹町重頼と栄存法印の対立を「祠堂祭役(藩内の寺社や紛争を調停する役職)」として処理したのは、他ならぬ大條本家の当主であり、笹町重頼の甥にあたる大條宗道(大條家第十一世)でした。
大條宗道自身は私情を排し、公平な職務として裁判を全うしたと考えられます。
しかし、結果として栄存法印が流罪となったことで、民衆の間には「笹町重頼は仙台藩重臣である甥の権力を利用して栄存法印を排除したのだ」という不信感が芽生えていったのではないでしょうか。
そこには、権力者に抗う者を判官贔屓する民衆特有の心理も働いていたと考えられます。
さらに、一代で巨大な栄華を築いた笹町家がのちに凄惨な終焉を迎えるというあまりに劇的な歴史の展開も相まって、現実に起きた悲劇は民衆の反骨心や祟りへの恐れと結びつき、おどろおどろしい伝承へと昇華されていったと推測されます。
こうした一連の経緯と栄存法印の無念を重く受け止めた坂元(大條家の領地)の民衆は、栄存法印の霊を祀り供養するため、事件の舞台から遠く離れた坂元の地に「前田正観音堂」を建立したのです。

(宮城県亘理郡山元町坂元永作)
4. 次期当主 笹町九左衛門の出奔と改易
後世の伝承では「栄存法印の怨霊の祟りによって即座に笹町家は滅んだ」と語られがちですが、実際には栄存法印が流罪となった延宝7年(1679年)から12年間、笹町家は存続していました。
貞享3年(1686年)に笹町重頼本人ならびに嫡男の笹町彦三郎が没すると、仙台藩の家格「一族」である中島家から笹町九左衛門が養子として迎えられ、家督を相続します。
しかし、この笹町九左衛門こそが、笹町家破滅の引き金となりました。
元禄2年(1689年)7月2日、笹町九左衛門は「女色に耽り、親戚に対して面目がない」という一通の書き置きを残し、突如として出奔してしまったのです。
江戸へ逃亡した笹町九左衛門は、品川屋敷に滞在していた高泉筑後の元を訪れ、箱根の関所を通る手形を要求します。
しかし、挙動を不審に思った高泉筑後によって捕縛され、仙台へ送還されました。
仙台へ戻された笹町九左衛門は、実兄である中島利成の元へ預けられて閉門処分となり、元禄4年(1691年)4月18日付の「笹町九左衛門御開所之覚」によって笹町家の知行状および全拝領地は藩に没収(改易)されました。
こうして、大身としての笹町本家はついに幕を閉じることとなったのです。
5. 怪異伝承の陰に隠された真像
笹町家は、主家滅亡による浪人の身から立ち上がった家柄でした。
そこへ仙台藩の家格「一家」に列する大條家から、庶子という出自を持ちながらも突出した資質を備えた笹町重頼が養子に入り、その圧倒的な手腕で知行高を1,300石にまで膨らませました。
笹町重頼が残した「栄存法印との紛争」や「笹町家の改易」という悲劇的な結末は、のちに民衆の間で強烈な「怨霊伝説」として昇華されていきます。
しかし、おどろおどろしい陰惨な物語の裏にあったのは、急激な領地開発に伴う領主としての切実な摩擦であり、自らの没後に訪れた当主の不祥事によるあっけない改易という、どこまでも生々しい歴史の現実でした。
祟りや汚名の影に隠されがちな笹町重頼ですが、その足跡を史料から丁寧に手繰り寄せるとき、そこには激動の時代の中で功罪を抱えながら、ただ愚直に領主としての責務を果たそうとした一人の武士の生身の姿が浮かび上がってきました。
◼️参考資料
坂田啓『私本仙台藩藩士辞典』1995年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
山元町教育委員会『山元町 ふるさと地名考』1994年
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年
石巻市史編さん委員会『石巻の歴史 第2巻[1](通史編 下の1)』1998年
