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大條家の娘たちと嫁ぎ先【下】

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大條家が藩政の中で独自の存在感を放っていく過程を見る時、その出発点には常に一人の人物の影があります。
それが、大條家の運命を大きく切り開いた大條実頼(着座大條家第一世)です。
超人的なその才覚によって複数の分家を打ち立てたのみならず、その息子たちを介して、大條本家はもちろん、派生したすべての分家に至るまで、現在に繋がる大條家すべての末裔の血統へと至る巨大な礎を築きました。

大條実頼(着座大條家第一世)
長男:大條元頼(着座大條家第二世)
二男:大窪元成(大窪家養子)
三男:大條頼廣(平士大條家第一世)
長女:黒木宗元の妻
二女:高屋宗伯の妻
四男:大條宗頼(大條家第九世)

【上】では、大條実頼自身の長女や二女、ならびに長男である大條元頼、三男である大條頼廣の娘たちの嫁ぎ先について辿ってまいりました。
本記事におきましては、四男である大條宗頼の娘から順に記していきます。
大條宗頼は大條本家を継承した人物でありますので、ここから先は、大條家第九世以降における「大條本家の娘たちと、その嫁ぎ先」についての記録となります。

1. 大條宗頼の長女・四女 × 葛西左衛門・葛西重利

大條宗頼(大條家第九世)
長女:葛西藤左衛門の妻
長男:大條宗快(大條家第十世)
二女:寿心局
二男:笹町重頼(笹町元清養子)
三女:成田助之允の妻
三男:早逝
四女:葛西重利の妻

大條宗頼は7人の子宝に恵まれました。
正室には「奥山兼清の娘」を迎えていましたが、
早くに死別してしまったためか、のちに青湯院秀という女性を後妻(もしくは側室)としています。
この青湯院秀は、仙台藩主 伊達忠宗の正室である振姫の女中を務めていた人物で、三男や四女は彼女との間に生まれた子供たちです。

こうした中、「大條宗頼の娘たち」の婚姻に目を向けると、長女と四女の双方がともに葛西家へと嫁いでいることが記録に残されています。

葛西藤左衛門 
通称:藤左衛門
藤左衛門という通称以外、具体的な事績や官位などの詳細は発見できませんでしたか、大條本家の長女を迎え入れていることから、家中において相応の重きをなす地位にあった重要人物であったことが窺えます。

葛西重利 (葛西家第二十一世)
通称:久三郎、壱岐
寛文5年(1665年)12月3日の『伊達治家記録』には、「葛西久三郎重利に大条監物妹婚約命じられる」との明確な記載が残されています。
この葛西重利は仙台藩の一門である涌谷伊達家との繋がりを深めるなど、子女の婚姻を通じて家勢の発展に尽力しました。なお、夫婦の間に生まれた嫡男 葛西清方(第二十二世)は、のちに天文学者としても名を馳せることになります。

大條家と葛西家は、大條実頼の代から深い繋がりがあることは度々お伝えしてきた通りですが、
ここでは実に2人の娘が続けて葛西家に嫁いでおり、両家の結びつきの強さが如実に窺えます。
葛西家は、仙台藩において家格「準一家」に列する名門です。
戦国時代には北奥州に覇を唱えた独立領主であり、伊達家とは何代にもわたり弓矢を交えたライバルにして、時には固い同盟を結んだ歴史を持つ大名家でした。
この婚姻において、仙台藩側がわざわざ「葛西側へ大條家との婚約を命じている」という事実からも、藩にとって両家の結束がいかに重要視されていたかが分かります。

2. 大條宗快の長女 × 中島宗盈

大條宗快(大條家第十世)
長男:大條宗経(病身により廃嫡)
二男:大條宗道(大條家第十一世)
三男:大條宗透(当初は宮内家へ養子)
長女:中島宗盈の妻

寛文事件の戦後処理において大きな功績を果たした大條宗快(大條家第十世)ですが、
その長女は仙台藩の家格「一族」に列し、金山要害を擁する重臣 中島家に嫁ぎました。

中島宗盈
通称:左衛門、伊勢、刑部
祠堂祭役や大番頭を歴任したのち、宝永6年(1709年)11月には仙台藩の奉行職(家老)に就任。
隠居後は、嫡男の中島信秋が家督を継ぎました。

ちなみに、次期当主となった中島信秋の代で、中島家には異なる二つの大條家の血脈が同時に流れ込むことになります。
母は前述の「大條宗快の娘」ですが、妻に迎えた「長沼致貞の娘」もまた、その母が「大條頼廣の娘」とされています。
つまり中島信秋は、母(大條本家の娘)と妻(平士大條家の孫)という形で、この短期間に異なる二つの大條家の血脈を同時に受け継ぐことになりました。
この濃密な血脈を継いだ中島信秋の嫡男である中島成康は、のちに中島家で2人目となる奉行職に就任し、大條道頼(大條家第十二世)と共に「前藩主遺書隠匿事件」の対処にあたるなど、
祖父 中島宗盈の跡を追うように仙台藩の政治中枢で活躍を果たすことになります。

「前藩主遺書隠匿事件」に関してはこちらをご覧ください。

3. 大條宗道の長女 × 三沢村為

大條宗道(大條家第十一世)
長女:三沢村為の妻
長男:大條道頼(大條家第十二世)

藩政で重きをなした大條宗道(大條家第十一世)ですが、後継の誕生は遅く、晩年にようやく嫡男の大條道頼(第十二世)が生まれました。
この大條道頼の姉にあたる長女は、仙台藩の一門であり、かつ藩主生母の実家という特異な出自を持つ三沢家へと嫁いでいます。

三沢村為
通称:頼母
元禄10年(1697年)に家督を相続し、宝永2年(1705年)3月に元服。
三沢村為には嫡男となる為貞、次男の又四郎、そして娘がいましたが、これらは「大條宗道の娘」との間に恵まれた子供たちである可能性が極めて高いと思われます。
しかし、三沢為貞は19歳で没し、三沢又四郎と娘も次々と早逝するという悲劇に見舞われました。
このため、三沢村為は甥にあたる三沢村清を養子に迎えて家督を継がせ、自身も享保7年(1722年)に34歳という若さでこの世を去りました。

ここで大條家が婚姻を結んだ「三沢家」は、仙台藩の一門の中でも完全に異質な存在でした。
石川家や亘理伊達家といった他の一門が「主家(伊達家)の濃い血縁」や「古くからの奥州の有力国人」で占められているのに対し、三沢氏はもともと仙台藩とは何の関係もない外様の家系です。

その運命を一変させたのが、三沢村為の曾祖母にあたる三沢初子(仙台藩第三代藩主 伊達綱宗の側室)でした。

仙台藩最大の御家騒動である「寛文事件(伊達騒動)」の際、三沢初子はわずか2歳で藩主となった我が子(第四代藩主 伊達綱村)を命懸けで守り抜き、お家断絶の危機を救います。

伊達綱村像
(仙台市博物館蔵)

この「藩主生母にして守護者」という三沢初子の圧倒的な功績により、延宝3年(1675年)、彼女の弟である三沢宗直(村為の祖父)が急遽仙台藩に召し抱えられ、最高ランクである「一門」へと異例の出世で引き上げられたのです。

大條家から見れば、三沢家との縁組は単に「一門と繋がること」以上の意味を持っていました。
三沢家は、第四代藩主 伊達綱村の「母方の実家」であり、当時の主家中枢に対して最も強い発言権と生々しい情報網を持つ、屈指の権力基盤だったからです。
大條本家の跡継ぎを残すことに苦労していた大條宗道にとって、このタイミングで主家中枢の新興勢力である三沢家に娘を送り込めたことは、お家の安堵と地位の保全において、これ以上ない強力な後ろ盾を確保する動きだったと言えます。

しかし、大條家側が苦労の末にようやくバトンを繋いだのとは対照的に、嫁ぎ先の三沢家は、大條家の娘が産んだと思われる子供たちが次々と早逝し、三沢村為自身も34歳という若さでこの世を去ることになります。
それでも三沢家は、甥の三沢村清を養子に迎えることで、その家督を次代へと繋ぎ止めました。
両家ともに、名門としての家格を維持しながら、あらゆる手段を尽くして「家を存続させること」がいかに命懸けの闘いであったか、その厳しさを物語る象徴的な婚姻事例です。

4. 大條道頼の長女・三女 × 亘理倫篤・布施定誠

大條道頼(大條家第十二世)
長男:大條実寿(早逝)
二男:大條道任(大條家十三世)
長女:亘理倫篤の妻
三女:布施定誠の妻
その他多数(系図によっては順序に相違が見られるため、あくまで一例としてご参照ください。)

大條道頼は、父が後継を残すことに苦労した経緯を知ってか、自身は多くの子供に恵まれました。しかし、残念ながらその大半が成人を前に早逝することとなります。
この時代、子供たちの命を奪った主な要因は、天然痘や麻疹といった感染症の頻繁な流行でした。
当時の医療では予防も治療も極めて難しく、さらに享保の大飢饉(1732年)などが重なったことで、社会全体の栄養状態も著しく悪化していました。
特に冷害の影響を受けやすい東北地方の環境は過酷であり、いかに仙台藩の重臣の子女であっても、この過酷な生存環境から逃れることはできませんでした。
そのような厳しい時代を生き抜き、無事に成人を迎えた2人の娘たちは、それぞれ名門である亘理家と布施家へと嫁いでいくことになります。

亘理倫篤
通称:石見、要人、伯耆
仙台藩第6代藩主 伊達宗村の代に、申次や近習兼務、大番頭といった要職を歴任しました。
寛政6年(1794年)に隠居。

亘理家(佐沼亘理家)は、伊達一門となった本家の涌谷伊達家とは異なり、伊達政宗の庶子である亘理宗根を祖とする一族です。
藩内での家格は大條家と同じ「一家」に列し、亘理の名字を称しながらも、その血統は伊達政宗の血を引く屈指の名門でした。
前述の「前藩主遺書隠匿事件」によって津田家が改易となると、宝暦7年(1757年)正月、亘理倫篤はそれまでの居城であった高清水城から、津田家の旧領である佐沼要害への国替えを命じられます。
これ以降、佐沼は明治にいたるまで代々亘理家の居城となりました。

布施定誠
通称:和泉、舎人
延享4年(1747年)に家督を相続しました。武頭や給主頭、脇番頭といった役職を歴任するも、明和4年(1767年)4月に病に倒れました。

布施家は、代々伊達家に仕えた家格『着座』の家柄です。
系図を紐解くと、この布施定誠の姉妹(詳細な順序は不詳)が、大條元頼(着座大條家第七世)に嫁いでいることが分かります。
大條本家から布施家へ娘が嫁いだ一方で、布施家からも大條家の別ライン(着座大條家)へと娘が嫁いでいるという、両家の重層的な縁組のネットワークがここでも綺麗に浮かび上がってきます。

5. 大條道英の長女・四女 × 布施定郷・保土原頼母

大條道英(大條家第十四世)
長男:大條道直(大條家第十五世)
長女:布施定郷の妻
二男:木村信近(木村直行養子)
三男:大條道洽(大條家第十六世)
二女:小島敬三郎の妻
四男:伊藤三郎(伊藤家養子)
三女:佐藤好治郎夫人)
五男:捨之助(早逝)
四女:保土原頼母の妻
(系図によっては順序や内容に相違が見られるため、あくまで一例としてご参照ください。)

前述した「大條道頼の孫」にあたるのが大條道英ですが、その娘もまた布施家へと嫁いでいました。

布施定郷
通称:近江、舎人
寛政8年(1796年)3月に継家。文化9年(1812年)10月に仙台藩主 伊達周宗へ初謁し、その後は小姓頭、脇番頭、大番頭を歴任しました。

先の大條道頼(大條家第十二世)の娘が布施定誠に嫁いだのを契機として、両家は世代を跨いだ持続的な婚姻関係へと移行します。
その後、孫の代において大條道英(大條家第十四世)の娘が布施定誠の孫にあたり布施定郷に嫁いだほか、布施定誠の娘(定郷の叔母)が大條多頼(着座大條家第八世)に嫁ぐなど、縁組はさらに緊密化しました。
これらの動向は、布施家が大條本家および着座大條家の双方を対象として、極めて戦略的かつ重層的な婚姻ネットワークを形成しようとしていた背景を示唆しています。

保土原頼母
通称:頼母
頼母保土原家の系図において「頼母」という通称や諱の人物を直接特定することはできませんでしたが、大條本家の娘を迎え入れている事実からも、当主クラスの重要人物であったことが窺えます。

保土原家は仙台藩の家格「準一家」に列する名門です。
そのルーツは二階堂氏の庶流であり、室町時代に二階堂藤顕が陸奥国岩瀬郡保土原に拠って保土原を称したことに始まります。


6. 婚姻ネットワークが物語る大條一族の真姿

このように、大條宗家の代から本格化した血統の広がりと、それに伴う婚姻ネットワークは、世代を重ねるごとに仙台藩の権力構造の核心へと深く深く根を張っていきました。

【上】で見た登米伊達や黒木、長沼といった初期の結びつきが、一族の基盤を強固にするためのものであったとすれば、
【下】で展開された葛西、中島、三沢、亘理、布施、保土原といった名門との度重なる縁組は、激動する藩政の中でお家の地位を盤石にし、存続させるための極めて緻密な構造を持っていたと言えます。

一門、一家、準一家、着座、そして藩医の頂点にいたるまで、大條家が結んだ縁は、藩内のあらゆる主要な家格と実務中枢を網羅していました。

公式の歴史書や系図の主座に据えられるのは、常に家督を継いだ当主たちの名ですが、
その当主たちが政治中枢で活躍を果たし、あるいは数々の政変やお家の危機を乗り越えてバトンを繋いでいくことができた背景には、
常に他家との架け橋となり、血脈のネットワークを維持し続けた娘たちの存在がありました。

本家と分家が手を取り合い、時には一世代前の旧縁を伏線とし、また時には数代にわたり特定の家柄と重層的な婚姻を繰り返す。
こうした娘たちの足跡を通じて浮かび上がる重厚なネットワークの広がりこそが、仙台藩の重臣として確供たる地位を築き上げた大條一族の、もう一つの真実の姿を物語っています。


◼️参考資料
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
野本禎司『仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-』2022年
歴史図書社『仙台藩家臣録』1978年
平重道 『伊達治家記録』1973年
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年

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