大條道任(大條家第十三世)
旧名:大條篤恭
幼名:悦之進
通称:監物、内蔵人
生誕:不詳
死没:文化7年(1810年)9月11日
諡名:数学院殿山井玄海居士
父母:大條道頼(大條家第十二世)、側室(吉田家祖と記される)
兄弟:大條実寿(早世)、女(布施定誠夫人)、女(亘理倫篤夫人)、他多数
妻:茂庭周防の娘、三沢村清の娘
子供:女、女、女、大條道英(大條家第十四世)、女
1. 急遽の家督継承と敬愛する父への碑文
大條道任の生年は、大條家の歴代当主としては珍しく明確な記録が残されていません。
兄の大條実寿が元文2年(1737年)に生まれていることから、大條道任は寛保年間(1741~1744年)頃の誕生と推定されます。
記録がない背景には、庶子として生まれた事情が関係していると考えられます。
しかし、跡を継ぐ予定であった兄の大條実寿が宝暦9年(1759年)に病没したため、次男である大條道任(幼名 悦之進)が急遽世継ぎに定められました。
そして宝暦12年(1762年)、父 大條道頼の死去を受け、大條家の家督を継承します。
大條道任は父 大條道頼を深く敬愛しており、その思いを次のような碑文に残しています。
大條道頼君碑文
居士の姓は藤原、名は道頼。俗名は当初「多門」と称していましたが、後に「監物」と改めました。
その祖先は伊達家当主の八世の子孫で、伊達郡大條邑に住み、これを称号としました。
代々伊達家の一門として仕えました。父は大條宗道、養母は石田常員の娘です。
元禄13年3月21日に生まれ、宝永2年12月に家督を継ぎました。宝永5年6月、初めて伊達吉村(獅山公)に謁見しました。性格は純朴で慎み深く、寛大な心を持ち、棟梁の才能がありました。
(中略)
宝暦12年5月2日、病状が悪化すると、伊達重村は侍医を遣わし、大波倫成に命じて書状と見舞いの品を届けさせました。同日夕方、伊達重村自ら見舞い、特別な配慮を約束しました。
夜には松前広修から自筆の書と所領500石を与えられ、功績を称えられました。
その後も大波倫成が書状を届けて病状を尋ねましたが、5月3日早朝に逝去。享年63歳。
同月8日、所領の亘理郡坂元邑・光明山徳本寺に葬られ、法名は「壽盛萬祐」、院号は「徳春院」とされました。
家嗣 大條悅之進藤原篤恭 謹誌
2. 若年寄就任と「安倍清騒動」での対応
家督を継承した当初は大條篤恭と名乗り、宝暦13年(1763年)には仙台藩の申次役に任じられました。
その後、明和2年(1765年)には藩主の名代として日光山参詣の使者を務めています。

(Wikipediaより)
そして同年の5月、藩主 伊達重村に従って江戸城へ登城し、第十代将軍 徳川家治に謁見いたしました。

(徳川記念財団蔵)
明和7年(1770年)に病気のために一度職を辞しましたが、その後、安永2年(1773年)に若年寄へ就任し、それから16年間にわたりその職責を果たしました。
安永年間(1772〜1781)に、大條篤恭から大條道任へと名前を改めました。
その在任中の天明3年(1783年)、未曾有の冷害が東北を襲い、歴史に刻まれる惨禍となった「天明の大飢饉」が発生します。
仙台藩内が未曾有の困窮と混乱に陥る中、同年に勃発した「安倍清騒動」において、大條道任は持ち前の仁徳をもって事態に対処いたしました。
困窮する町民たちの切実な訴えに誠実に耳を傾け、流血を避けて穏便に事態を収拾したその姿は、人々の深い信頼を集めることとなったのです。
江戸時代中期、仙台藩では度重なる凶作と藩財政の逼迫が重なり、領民の生活は極度に困窮していました。
特に天明3年(1783年)には「天明の大飢饉」と呼ばれる未曾有の冷害に見舞われ、さらに北上川の大氾濫も重なったことで、米の作柄は平年の2割から3割にまで激減してしまいます。
米価は跳ね上がり、仙台城下では一日に150人以上もの餓死者が出る絶望的な状況に陥りました。
こうした惨状の中、商人出身でありながら藩の金融・財政を掌握していた安倍清右衛門は、本来であれば凶作に備えるべき備蓄米を利益のために江戸へ売却するなど、露骨な投機的政策を強行いたしました。
その結果、領内の米不足は決定的なものとなり、城下の町民は文字通り日に日に追い詰められていったのです。
米の配給を求める人々の長い列では押し合いによる事故が相次ぎ、民衆の絶望と不満はすでに爆発寸前へ達していました。
そうした極限状態の中、困窮した町民たちが最後の望みとして頼りとしたのが、若年寄 大條道任でありました。
日頃から仁徳を重んじ、領民の声に誠実に耳を傾けることで知られた大條道任は、騒動が起こる以前から安倍清右衛門の強引な政策に強い疑問を抱き、対立を深めていたと伝わります。
町民からの切実な陳情を受けた大條道任は、直ちに安倍清右衛門を自邸に呼び出して事情を聴取し、さらに月番奉行へ領民救済を強く要請するなど、可能な限りの手を尽くしました。
翌日、再び大勢の町民が川内にある大條道任の屋敷へ押し寄せましたが、大條道任は「この屋敷は城内(丸の内)にあり、ここでの集会は不都合である」と筋を通して冷静に説得を行い、群衆を「中の瀬河原」へと穏やかに移動させました。
しかしその後、町民代表の布沢義蔵が安倍清右衛門との直接交渉に臨んだものの、安倍清右衛門側が一切の譲歩を拒否したため、怒りに燃えた数百人の町民が安倍屋敷へと殺到いたします。
門や塀を打ち壊して屋敷内へ乱入し、座敷から長屋に至るまで破壊を極める激しい打ちこわしが実行されました。安倍清右衛門側は抜刀して抵抗したものの、最後は町民たちが散り散りに逃走し、門前では多くの負傷者が出る大混乱となりました。
この事件の結果、強欲な政策で城下を混乱に陥れた安倍清右衛門は茂庭主水の屋敷へ預けられるという実質的な処分を受け、仙台藩は米政策の大幅な見直しを余儀なくされたのです。
安倍清右衛門による強引な財政政策が町民たちの強い反感を買う中、藩主や幕府への上申を通じて窮民の救済を粘り強く要請するなど、大條道任は立場の違いを超えて公正と仁義を重んじた類まれなる政治家として、今も歴史にその名を刻んでおります。
大條家はこの時期、仙台城下の川内に屋敷を構えていました。川内は城の東側に位置する上級家臣の屋敷地で、伊達家の一門や譜代の重臣が集住しており、大條家をはじめとするこれらの家々は、城防衛の要衝を担うと同時に、仙台藩の政治・軍事の中枢を支えていました。明治維新後、当地は東北大学のキャンパスとなりましたが、道路配置や区画には今も城下町の面影が残っています。

(仙台市博物館蔵)
※一部を抜粋
川内武家屋敷についての詳細は、以下の外部サイト(東北大学東北アジア研究センター 上廣歴史資料学研究部門)でご覧いただけます。
その後の天明4年(1784年)にも、自らの領地である坂元などの地元領民に対して即座に蔵米の配給を指示するなど、大條道任は極限状態にあった領民の救済に最後までどこまでも尽力し続けました。
3. 「孤高の文武人」としての晩年
寛政元年(1789年)に職を退いたのちは、自らの領地である坂元の発展に全情熱を注ぎ込むこととなりました。
自らの手で「坂元学問所」を創設して家臣の谷津民部に漢学や修礼を教授させるなど、領民への教育と実践的な地域振興に取り組む一方、自らも武術と精神の修行に精進を重ねました。
まず鹿又喜平太次高より「穴潭流長刀術」の極意を学び、次いで中川八兵衛為章から「天人唯一神道」を修めています。
大條道任はいずれの流派においても奥義を極めただけでなく、その伝授を受けたすべての極意を実子である大條道英(のちの大條家第十四世)へと継承させました。
このように文武両道にわたる充実した晩年を送り、文化7年(1810年)、70年の豊かな生涯を閉じました。
大條道任の生き様は、奉行職として藩政の中枢を担い続けてきた大條家の歴代当主のあり方とは明らかに一線を画するものでありました。
極意を極めるほどの「長刀術」や「神道」の修練に没頭する一方で、自らの手で学問所を設立して教育を広めるなど、武芸と学問の双方に深い関心を抱いた人物であったのです。
官僚的な出世競争に身を投じることよりも、自らの純粋な探求心や理念を優先し、武芸と学問を探求したその姿勢には、時代の規範に囚われない自由な精神と独自の価値観がはっきりと窺えます。
また、「数学院殿山井玄海居士」というその戒名にも、大條道任の思想の独自性が如実に表れています。
「数学院」は学問への深い造詣と情熱を物語り、「山井玄海」は自然観や神道に通じる精神的支柱を暗示しています。
従来の仏教色の濃い戒名とは明らかに一線を画しており、家格や格式に単に従うだけでなく、個人の哲学や学問への情熱を重んじた大條道任の個性が深く刻み込まれていると言えます。
こうした特異性は、仁徳を重んじる実践においても顕著でありました。飢饉で困窮する領民に対して自らの判断で即座に蔵米を配給し、学問所の設立を通じて地域社会へ教育の光を灯した足跡は、大條道任が領民の命と未来のために尽くした真に人間味あふれる名君であったことを物語っています。
その至誠に満ちた態度と地域社会への計り知れない貢献が、領内における大條家の信望を決定的なものとしたことは疑いようがありません。
これまでの大條家当主のように奉行職(家老)へ就任しなかった正確な理由は定かではありませんが、それを決して不遇などと捉えるべきではなく、むしろ自らの価値観を何よりも優先し、型にはまらない豊かな生き方を選択した結果と解釈すべきでありましょう。
その堂々たる生き様は大條家の歴史に独自の輝かしい風を吹き込み、今も「孤高の文武人」として後世に語り継がれているのです。
◼️参考資料
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
佐藤司馬『大條家坂元開邑三百五十年祭小志』1966年
仙台市史編さん委員会『仙台市史 通史編 5』2005年
田辺希績 編著ほか『伊達世臣家譜続編』1978年
