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大條道頼(大條家第十二世)【上】

幼名:多門
通称:監物
生誕:元禄13年(1700年)3月21日
死没:宝暦12年(1762年)5月3日
諡名:徳春院殿寿盛万祐大居士
父母:大條宗道(大條家第十一世)、側室(大條家女中)
兄弟:女(三沢村為夫人)
妻:伊達実氏の娘
子供:大條実寿(早世)、大條道任(大條家第十三世)、女(布施定誠夫人)女(亘理倫篤夫人)、他多数

波瀾の運命を背負い、卓越した智略で三代の藩主を支え、大條家の威信を確固たるものにした、大條道頼について記述します 【前編】


1. 幼少の継承と名代 大條頼泰の功績

元禄13年(1700年)3月21日、大條宗道(大條家第十一世)に待望の嫡男が誕生しました。
後に大條道頼と呼ばれるこの人物の生誕は、大條家の歴史において大きな転換点となる出来事でした。

その命名には、非常に興味深い特徴が窺えます。「道頼」という名は、それまで大條本家の通し名であった「宗」ではなく、分家で受け継がれてきた「頼」の字が用いられています。
この命名は、名代として大條本家を支えていた大條頼泰の意向によるものと推察され、まさに本家と分家の融合を象徴する選択と言えます。
さらに、大條道頼が後年、自らの嫡男に「大條実寿」と名付けた点も極めて深い意味を持ちます。「実」の字は分家大條家の祖である大條実頼に由来するものであり、明らかに分家の血脈と歴史を意識した命名でした。

ここには、本家と分家が織り成してきた歩みを重んじる大條道頼の強い思いが込められていたはずです。
同時にこれは、幼少期から長年にわたり名代を務め上げてくれた大條頼泰に対する深い感謝と敬意の表れでもあったと言えるでしょう。
この嫡男・大條実寿は惜しくも22歳という若さで病没しますが、その後は次男の大條道任(篤恭)が家督を継承することとなります。
これ以降、父 大條宗道や自身の名にちなむ「道」の字が大條本家の新たな通し名として定着していくことになりました。
このように、大條道頼は本家と分家双方の歴史を受け継ぎ、それらを巧みに調和させた当主として、大條家の新時代を切り開く架け橋となったのです。

2. 16歳での執政開始

ここで改めて、大條道頼の生涯を振り返ります。
大條道頼は元禄13年(1700年)3月21日に生まれ、幼名は「多門」と名付けられました。

父である大條宗道は誕生の当時からすでに病床にあり、宝永2年(1705年)にこの世を去ります。
大條道頼は父の死に伴い、わずか6歳で家督を相続することとなりましたが、あまりに幼少であったため、引き続き大條頼泰が名代として家務を支えることとなりました。

大條頼泰
通称:酉之助、権左衛門
父母:大條頼常、横尾長三郎の娘
養父:大條宗道
兄弟:大條頼清
妻:佐藤孫三郎の娘、富沢庄之助の姉
子供:大條頼純(真庭大條家第二世)

大條頼常(分家)の子として生まれ、19歳で大條宗道の庶養子となり、13年にわたり大條本家の名代を務めた。その後297石を分地され、真庭に別家を立てる。さらに享保年間の初めには武頭を務め、名掛頭・脇番頭を歴任した。

大條道頼の幼少期は、家政や藩政のあり方を学ぶ極めて重要な充電期でもありました。
名代である大條頼泰の背中を見つめ、その補佐を受けながら、治世の理念を深く身につけていったことでしょう。
そして正徳5年(1715年)12月11日、16歳を迎えたことを機に大條道頼は正式に執政を開始し、第十二代目の大條家当主として立ち上がります。
まさにこの日のために、長年にわたり学問や武芸に励み、自己を鍛え続けてきたのでした。
一方、大條頼泰は元禄15年(1702年)から正徳5年(1715年)に至る実に13年間もの長きにわたり名代を務め上げ、大條本家を揺るぎなく支え続けました。
その忠功は極めて大きく、大條頼泰の献身なくしては大條本家の存続そのものが危ぶまれていたと言っても過言ではありません。
大條道頼はこの偉大な功績に応えるべく、父の遺言通り大條頼泰に297石を分与してその労に報いました。
さらに、仙台藩の「召出一番座」という家格が与えられ、分家を立てることとなったのです。
これらは亡き大條宗道(大條家第十一世)が遺した悲願の結実であり、大條家の歴史における決定的な転換点となりました。

3. 若年寄への就任

大條道頼が家督を継ぎ、第十二代当主としての歩みを始めてからほどなく、早くもその卓越した手腕が藩内で認められる機会が訪れます。
当主就任からわずか9ヶ月後となる享保元年(1716年)9月15日、大條道頼は藩主 伊達吉村の御前にて申次役の任を拝命しました。
16歳という若さでの重職就任はまさに異例であり、大條道頼の才気が藩主からいかに高く評価されていたかが窺えます。

伊達吉村像
(仙台市博物館蔵)

続いて享保3年(1718年)5月27日、藩主の後嗣となる伊達宗村が誕生した際、大條道頼は「蟇目射役」を命じられ、御七夜の祝いとして金三両と佩刀を授けられました。

ここでいう「蟇目(ひきめ)」とは、江戸時代の武家社会において行われた伝統的な誕生儀礼です。将軍家や藩主家に跡継ぎが誕生した際、その子の健康と長寿を祈り、魔を祓うために鳴弦(弓弦を鳴らす音)や特別な矢を射る大役を指します。

享保7年(1722年)6月7日、大條道頼は若年寄に任命され、あわせて御馬申次を兼務することとなりました。
若年寄は奉行を補佐して藩政の中核を担う重職であり、わずか23歳での就任は大抜擢と言えます。
さらに翌年の享保8年(1723年)9月には、藩主 伊達吉村に随行して江戸へ赴き、徳川吉宗に謁見する栄誉を賜りました。
この江戸下向と将軍謁見という経験を通じ、大條道頼の政治的地位は揺るぎないものとなり、大條家の家格と威信も一層高まることとなったのです。

徳川吉宗像
(徳川記念財団蔵)

4. 評定奉行就任と「九曜紋」下賜の栄誉

享保8年(1723年)から享保9年(1724年)頃、当時6歳前後であった伊達宗村が大條道頼へ宛てて書き送った書状が数多く残されています。
以下にその一部をご紹介します。

御書はいけんたてまつり候、さむさに向候へとも、
御き嫌よく御さ被成候よし、奉大悅候、此たひ大まちもりのすけのほりに、小とりいろいろくさされ、忝仕合は奉存候、いさいハ別しに申上候、よろしく可被御申上候、以上

十月五日
松平勝千代

大ゑたけんもつとの

2616 伊達勝千代(宗村)書状
『大日本古文書 家わけ 三ノ七 伊達家文書之七』

御書を拝見いたしました。寒さが増していく時節になってまいりましたが、ご機嫌よくお過ごしでいらっしゃるとのことで、大変喜ばしく存じます。
この度、大町守之助殿の堀にて、小鳥をいろいろと捕らえられたこと、誠にありがたく、うれしく存じます。細かいことについては、あらためてお伝えしますので、どうぞよろしくお伝えください。

十月五日
松平勝千代

大條監物道頼殿へ

筆者訳

謹言上仕候、暑氣甚しく候へとも、彌御機嫌能被成御座候や、奉伺候、仍目錄めことく進上仕候、此方姫君樣御始益御勇健被成御座、私無異罷有候、右はれもむき宜被申上候、恐々謹言

松平勝千代

六月十二日
大條監物殿

2618 伊達勝千代(宗村)書状
『大日本古文書 家わけ 三ノ七 伊達家文書之七』

謹んで申し上げます。暑さが大変厳しい折ですが、ますますご機嫌麗しくお過ごしでいらっしゃるかとお伺いいたします。
よって、目録をすべて進上申し上げました。こちらでは、姫君様をはじめ皆様が引き続き健やかにお過ごしであり、私も変わりなく日々を過ごしております。その旨をご配慮の上、どうぞよろしくお伝えくださいますようお願い申し上げます。
恐れながら謹んで申し上げます。

松平勝千代

六月十二日
大條監物道頼殿へ

筆者訳

御自筆御書被成下、謹奉拜見候、御前益御機嫌能、南方御鷹野■被遊、御仕廻、去四日御歸城、愈御機嫌能被成御座之旨承知仕、大悅之至奉存候、然者先頃言上仕候小鳥共被下置、且又御鷹生扱之鴈金五、雄雉子二、慰ニも可罷成哉与被 思召被下之、忝仕合奉存候、何■珍敷、秘藏仕事御座候、將又去九日ニハ、片倉小十郞宅に、家督以後始而奉饗應、晝ゟ被爲 入候旨永知住日出度奉存候 爲之殿ニお鑑殿ニも無事之由、大慶仕候、先達中塚十兵衞罷下候、節口上申上候段、被仰下、忝仕合奉存候、御書中之趣姫君様富姫様に申上候處、被爲入御念御事被 思召候、爰元何■樣御機嫌能被成御座、
私無異儀罷在候、此等之趣宜被申上候、恐々謹言、

四月十九日
松平勝千代

大條多門殿

2614 伊達勝千代(宗村)書状
『大日本古文書 家わけ 三ノ七 伊達家文書之七』

御自筆の御書を拝見させていただき、誠に光栄に存じます。御前様におかれましては、ますますご機嫌麗しく、先日南方で御鷹野(鷹狩)をされ、そのご様子、また狩りの成果について存じ上げました。そして去る四日に御帰城なされ、さらにご機嫌麗しく過ごされているとの旨を伺い、大変喜ばしく存じます。
また以前申し上げました小鳥たちをお納めいただいたこと、および御鷹の訓練に使われる生け鳥として雁(金雁)五羽、雄の雉二羽をお届けしましたが、これらが少しでもお慰みの一助となることを願っております。これらをお下げになり、誠にありがたく存じます。ただただ珍しい品々として秘蔵すべきものかと存じます。さて、去る九日には片倉小十郎宅にて、家督相続後の宴席にお越しいただき、昼間からお入りになる予定とのことを承知いたしました。その際、私たちも出席する日が楽しみでなりません。そして、稲葉正甫殿の奥方のご様子も安泰であるとのこと、大変喜ばしく存じます。
また、先日、中塚十兵衛が(こちらに)下降りした際に、口上を申し上げる場面で仰せられましたこと、恐れ入り大変ありがたく存じます。御書中の旨については、姫君様および富姫様(伊達村年夫人)にも申し伝えましたところ、深く気にかけていただき、改めて思いやりを感じました。
こちらでも皆、(御前様の)ご機嫌が麗しい様子であり、お陰様で私も異常無く日々を過ごしております。このような内容をどうぞお伝えくださいませ。かしこまりて謹んで申し上げます。

四月十九日
松平勝千代

大條多門殿

筆者訳

『大日本古文書』において、2614号文書は享保8年(伊達宗村・当時6歳)、2616号文書は享保9年(伊達宗村・当時7歳)の記述とされています。
しかし、2614号の文面内容を踏まえると、伊達宗村がもう少し成長した時期の筆致に見受けられるため、本稿では解釈の整合性を考慮して掲載順を入れ替えております。
いずれにせよ、後に藩主となる若君と、当時20代前半の気鋭の藩士であった大條道頼との心温まる微笑ましい交流が深く伝わる史料と言えます。

享保9年(1724年)3月19日には、藩主 伊達吉村の娘である富姫と宇和島藩主・伊達村年との婚儀に際し、大條道頼は婚礼の儀礼を彩る「御貝桶役」という大役を命じられました。

ここでいう「御貝桶役」とは、江戸時代の武家社会における婚礼の際、重要な儀礼道具である「貝桶」の輸送や管理を掌る大役を指します。
貝桶は、貝合わせ(ペアの貝殻を合わせる伝統的な遊び)の貝殻を収める美しい漆器であり、大名家の婚礼において夫婦和合の象徴とされる最も格の高い道具の一つでした。

さらに同年9月15日には、重責である評定奉行の職を兼務することとなり、大條道頼は藩政の中枢により深く関わる重要な立場へと登り詰めます。
そして同年11月、藩主 伊達吉村より大條家の家紋である「沢瀉紋」の由来について問われるとともに、伊達家で代々用いられてきた「九曜紋」の使用を許されるという、破格の栄誉を賜ることとなったのです。

沢瀉紋
九曜紋

九曜紋は、中央の大星とそれを囲む八つの小星からなる力強い意匠が特徴であり、武運長久や家運繁栄を祈る紋様として多くの武将に好まれました。
特に戦国時代には広く用いられ、伊達家においては初代藩主 伊達政宗が細川忠興より譲り受けて以来、誉れ高い家紋として定めた歴史を持ちます。
大條家においても、この拝領した九曜紋が脈々と受け継がれることとなり、現在に至るまで多くの大條家末裔がこの伝統ある九曜紋を用い続けています。

5. 増上寺での活躍と幕府の信頼

翌年の享保10年(1725年)1月、藩主 伊達吉村の初遊猟に際して大條道頼は山奉行を任じられ、その見事な勤めへの褒美として羽織を拝領しました。
同年9月には、大條道頼は再び江戸へ登城して徳川吉宗に謁見する栄誉を得ています。
さらに、増上寺における火供養の際には火消頭の大役を命じられ、その優れた指揮統率が高く評価されました。
地元仙台での藩政から江戸での公務に至るまで、多岐にわたり卓越した才能を発揮した大條道頼の働きは、この時期ますます冴え渡っていたのです。
これらの目覚ましい功績が認められ、翌享保11年(1726年)3月には名誉ある佩刀一口を賜ることとなりました。

ここでいう「火供養」とは、仏教における重要な神聖儀式の一つであり、清浄なる火を用いて供物を焚き上げることで、諸仏菩薩や先祖の霊を供養するものです。
密教や浄土宗などで深く重んじられ、火の清よらかな力によって人々の煩悩を焼き尽くし、悟りや安寧へと導く意味合いを併せ持ちます。
徳川家の菩提寺である増上寺における火供養は、将軍家の威信を反映して極めて厳粛かつ大規模に執り行われました。
ゆえに、火を直接扱うこの荘厳な儀式には相応の火災リスクが伴うため、現場の統率を担う「火消頭」の責任は極めて重大なものでした。
特に仙台藩のような外様大名の大條道頼らがこの重責を務め上げることは、将軍家との揺るぎない信頼関係を築き上げ、幕府へ対する深い忠誠を証明する絶好の機会でもあったのです。

増上寺
三縁山広度院 増上寺 Webサイトより

6. 伊達吉村の坂元御成と和歌下賜の名誉

享保15年(1730年)7月26日、藩主 伊達吉村が領内巡視の際、大條家の領地である坂元の地をお訪ねになりました。
その際、伊達吉村は自ら詠んだ和歌二首を直筆の親書として授けられるという、極めて名誉ある栄礼を下賜されたのです。
この特別なご配慮は、坂元の地とそこを治める大條道頼に対し、藩主から寄せられた破格の信任と厚遇を物語るものにほかなりません。
伊達吉村が詠み上げた和歌は坂元の豊かな景勝を称える内容であり、風光明媚な自然美に対する深い感銘が瑞々しく込められたものでした。

磯浜や浦半の浪の帰るさも
此処に忘れて立そ休らう

向へ見る浪に涼しき浜風の
松にも秋の声や添ふらむ

和歌を収めた直筆の親書という贈り物は、大條道頼にとって単なる栄誉にとどまらず、これまでの治政や領地運営に対する絶大な評価の証でもありました。
この和歌は大條道頼の生涯を通じて心の糧となり、大條家の歴史においても燦然と輝く出来事として語り継がれることとなります。
なお、この藩主のお迎えに際し、大條家の家臣たちは総力を挙げて盛大な「おもてなし」の準備に奔走しました。

当時の記録である『坂本御成に付而諸御留』(大條家文書)によると、饗応の料理や部屋の飾付けにあたって隣接する亘理伊達家の協力を仰いだこと、警備の徹底や祝いの踊りの披露など、家臣一人ひとりが奮闘していた様子が活々と言い伝えられています。(詳細は以下のURLをご参照ください)

藩政の中枢で重責を果たすとともに、大條家を次の世代へ繋ぐ架け橋として家名の誉れを背負った大條道頼は、その治世において藩主や幕府からの厚い信任を背に確かな発展をもたらしました。

しかし、その前途にはさらなる試練が待ち受けていたのです。坂元領で勃発した「異国船事件」や、藩主への尽力を通じて発揮された類稀な手腕、そして波瀾に満ちた晩年に至るまでの歩みについては、次回詳しく紐解いてまいります。

◼️参考資料
野本禎司『仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-』2022年
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
伊達宗行『翠雨山房夜話(上)』 1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
東京帝国大学『大日本古文書 家わけ 三ノ四 伊達家文書之』1909年


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