大條道頼(大條家第十二世)【中】
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波瀾の運命を背負い、卓越した智略で三代の藩主を支え、大條家の威信を確固たるものにした、大條道頼について記述します 【中編】
1. 奉行就任と苦難
享保17年(1732年)6月23日、藩主 伊達吉村より直々に「奉行職」を命じられました。
仙台藩における「奉行」とは他藩でいう「家老」に相当する藩政の最高職であり、政治・行政・軍事をはじめとするすべての重要会務を統括する最高責任者の重責を担います。
この補任により、大條家全体としては通算6人目の奉行就任となり、さらに大條本家に限れば「5代連続就任」という破格の栄誉を果たすこととなりました。
大條実頼(着座大條家第一世)
大條宗綱(大條家第八世)
大條宗頼(大條家第九世)
大條宗快(大條家第十世)
大條宗道(大條家第十一世)
大條道頼(大條家第十二世)
奉行職への任命に際し、藩主 伊達吉村からは「かねてより病身であったため、養生を重ねつつ長く勤めるように」との深い温情が込められた言葉が与えられました。
この言葉から、大條道頼が当時すでに体調を損ねていた状況が伝わってきます。
やがて享保20年(1735年)、大條道頼は伊達宗村の夫人となる利根姫の輿入れという重大な役目を任じられました。
江戸での婚儀を見事に執り仕切った後、同年12月10日には将軍 徳川吉宗から紗綾五巻を授けられます。
さらに藩主 伊達吉村から黄金二枚と時服二領を賜ったほか、藩主夫人の冬姫、そして無事にお迎えした利根姫のそれぞれからも心づくしの品々を下賜されたのです。

(仙台市博物館蔵)
元文2年(1737年)、「江戸詰め家老」に就任し、活動の拠点を江戸へと移すこととなります。
そして同年、側室との間に嫡男となる大條実寿(友之進)が誕生しました。
なお、諸系図や史料によっては大條実寿の誕生を享保17年(1732年)とする記述も見られますが、本稿では伊達宗康著『大條家五百年祭小志』(1941年)の記述を典拠としています。
大條道頼は側室を含む複数の夫人との間に多くの子女をもうけていますが、この背景には、自身が幼少期に味わった幼主継承の苦難と、何としても大條家の家名を未来へ繋ぐという強い執念と覚悟が存在していたと考えられます。
以下に、大條道頼の子女一覧を掲載いたします。
なお、諸系図や関連文献によって所載の人数や名前、出生順序に一部齟齬や相違が見られるため、本一覧はあくまで主要史料に基づく一例としてご参照ください。
女(早世)
女(早世)
多門(早世)
寿之丞(早世)
女(布施定誠夫人)
実寿 / 友之進(22歳で病死)
弥三郎(早世)
女(亘理倫篤夫人)
道任 / 篤恭 / 悦之進(大條家第十三世)
弥三郎(27歳で病死)
音人(早世)
こうして見ると、早世が多いことがわかります。
この時代の早世の主な理由は、天然痘や麻疹などの感染症が頻繁に流行し、当時の医療では予防や治療が難しかったこと、さらに享保の大飢饉(1732年)などで社会的な栄養状態を悪化させたことが挙げられます。
特に東北地方は冷害の影響を受けやすく、これらの要因が重なって、仙台藩重臣の子女であっても多くの早世が発生しました。
なお、正室である伊達実氏の娘との間に設けた三男一女はいずれも早世したと伝えられています。
しかし「多門(早世)」が大條道頼自身の幼名をそのまま継承している点から見ても、大條家の将来を担う期待の嫡男であった可能性が極めて高いと考えられます。
また、系図上に「弥三郎」が二人確認できますが、27歳で病死したとされる弥三郎は、実際には大條実寿を指している可能性があります。
前述の通り、大條実寿を享年27歳とする文献が存在すること、ならびに大條実寿の通称が「孫三郎」であったことから、後世の系図編纂において「弥三郎」と誤記された可能性が推察されます。
いずれにせよ、大條道頼は正室・側室との間に多数の子女をもうけたものの、その大半が幼少期に没することとなり、無事に次世代へと血筋を継承できたのはごく僅かな子女のみでした。
2. 坂元領における異国船事件
元文4年(1739年)、領地である坂元の沖合に突如として異国船が現れ、領民や藩関係者を騒然とさせる一大事件が発生しました。
当時、大條道頼は江戸詰め家老として江戸に滞在していたため、現地における臨機の対応は留守を預かる家臣たちが中心となって執り行われました。
その事件の克明な経緯は以下の通りです。
元文4年(1739年)、仙台藩領坂元(現在の宮城県山元町)の沖合に異国船三隻が姿を現しました。
この船はロシア帝国探検隊のマーティン・スパンベア率いる一行であり、船団は日本列島の東海岸を南下して仙台領沿岸へと到達したのです。
幕府が鎖国政策を敷いていた当時、異国船の接近は国家的な緊急事態を意味し、坂元領主 大條道頼の家臣たちは領内の治安と警戒対応に忙殺されることとなりました。
【5月26日:事件発生と即座の初期対応】
磯浜沖において地元の漁師たちが不審な大型船三隻を発見し、「唐船(外国船)」と思われる旨が村役へ通報されました。
一報を受けた大條家家臣の森善右衛門や橋山五左衛門らが中心となり、直ちに現場の確認と安全策に着手します。
調査の結果、1,000石級の船2隻、300石級の船1隻という大規模な船団で、乗組員は数百名に及び、「長身で髭が長く、見慣れない衣服を纏った者たち」が搭乗しているとの情報がもたらされました。これに対し大條家では、清野木之助を中心に仙台城下への急報体制を整える一方、磯浜に鉄砲20挺と足軽20名を緊急配置し、即座に警戒態勢を構築しました。
【5月27日~28日:隠密調査と防備の補強】
異国船の動向を正確に把握するため、大條家で監視役を担う清野木之助、早坂源左衛門、谷津仁右衛門、青田清右衛門らが磯浜周辺の緻密な調査を実施しました。
夜間にはかがり火を焚いて厳重な監視を継続し、上陸の事態に備えて監視拠点となる仮番所の設置計画を推進します。
同時に仙台藩へ事態を通報し、増援として足軽30名および追加兵器の即時派遣を要請しました。
【5月29日:広域への情報収集と警戒徹底】
異国船が磯浜のみならず牡鹿郡長渡沖にも出没したとの情報が入ると、大條家は直ちに船飛脚を派遣しました。
用人の砂金休右衛門を中心に状況把握を進め、得られた追加情報を仙台藩へ迅速に伝達して全領的な警備強化を働きかけました。
磯浜の現場では武頭・川名平助が指揮を執り、足軽や村役人と一丸となって隙のない監視体制を維持しました。
【5月30日~31日:接岸と領内の緊張】
磯浜付近に異国船の一部が接岸し、船員が地元の百姓に銀貨を手渡して退去したとの重大な報告がもたらされます。
大條家では用人や日付などの役職者を中心に事態を即座に仙台藩へ報告し、警戒レベルを引き上げました。
仙台藩城下および沿岸一帯では有事に備えて臨戦態勢が敷かれ、藩士たちの戦闘準備が進められます。
磯浜では連夜かがり火が焚かれ、大條家の村役人たちが交替制で厳重な監視を続けました。
【6月1日~2日:仮番所の設営と動員態勢】
磯浜近隣に監視拠点となる仮番所が建設されました。作事奉行に任命された辺見平次右衛門が資材調達や施工の指揮を執り、急速に設営を進めます。
また、足軽の不足を補うため、大條家は地元の村足軽20名を更に追加動員して交替勤務体制を確立。現場では谷津仁右衛門や青田清右衛門らが指揮を執り、不測の事態に備えました。
【6月3日:終息と平常への復帰】
異国船が完全に姿を消し、沿岸部における不審な動向も終息したため、大條家は「異常なし」の最終報告を仙台藩へ提出しました。
これにより緊急警戒態勢は解除され、磯浜の領民生活も日常へと戻りました。
この一連の危機において、清野木之助、早坂源左衛門、森善右衛門、橋山五左衛門らをはじめとする大條家臣団は、江戸在勤の大條道頼に代わり、迅速かつ柔軟な指揮手腕を発揮して領内の平和と秩序を見事に守り抜いたのです。

(山元町公式HPより)
この「異国船事件」は、鎖国体制下の日本に対して異国船が与えた大きな衝撃を象徴する出来事でした。
本事件の克明な記録は、天保年間に尾柏要右門が筆写した写本として今日まで大切に伝承されています。
当時の人々にとって、眼前に現れた未知の異国船は脅威と驚嘆の対象であり、現地では連日にわたり厳重な警備や情報収集に追われました。
領主不在のなか大條道頼の家臣たちがこの危機をいかにして乗り越えたかという記録は、幕末を前にした地方武士たちの即応力と奮闘ぶりを今に伝える極めて貴重な史料と言えます。
3. 500石加増と新藩主 伊達宗村の即位
「異国船事件」から4年が経過した寛保3年(1743年)3月18日、大條道頼はこれまでの多大なる功績を評価され、褒美として金500両を下賜されました。
さらに、志田・遠田・加美の三郡において500石の加増を受け、大條家の知行高は計3,500石に達したのです。
このような破格の厚遇の背景には、大條道頼が長年にわたり藩政の中枢で卓越した手腕と揺るぎない忠誠を発揮し続けてきたことに対する、藩主からの極めて高い信頼と評価が存在していました。
そして同年寛保3年(1743年)7月、大條道頼が長年支え続けた藩主 伊達吉村は、嫡男である伊達宗村へ家督を譲り、満を持して隠居の途に就くこととなります。

(仙台市博物館蔵)
【上】で大條道頼と微笑ましい手紙を交わしていた伊達宗村(勝千代)が成長を遂げ、遂に仙台藩主の座に就きました。
慈しむように見守ってきた大條道頼の感慨と喜びは、まさにひとしおであったことでしょう。
新藩主となった伊達宗村は、寛保3年(1743年)12月10日、伊達家第8代の伊達宗遠が詠んだ由緒ある和歌一首を自ら親書として認め、大條道頼へ授けました。
浜のみ片敷袖の新枕幾年濡れて今宵乾すらむ
伊達宗遠は、大條家の始祖である 大條宗行(大條家第一世)の父にあたり、まさに大條家の血脈と起源を象徴する極めて重要な存在です。

伊達宗康『大條家五百年祭小志』1941年
伊達宗遠は当時から遡ること約350年も前の人物ですが、その由緒ある和歌を授けることで、新藩主 伊達宗村は大條家初代からの悠久の歴史を称賛したのです。
この破格の対応は、伊達宗村が大條家のルーツを深く理解し、仙台藩を支える不可欠な大柱として大條家と大條道頼を固く尊重していたことを物語る動かぬ証と言えます。
4. 伊達宗村への直言と「弁慶」の逸話
大條道頼と伊達宗村の間には、次のような深い含蓄に富んだ逸話が残されています。
ある日、若き藩主 伊達宗村が大條道頼に対し、「弁慶は先を見通すことの叶わぬ主君 源義経に従い、身を省みず忠行を尽くした無双の忠臣である。果たして今の我が家臣の中に、弁慶のような者がおるのだろうか」と問いかけました。
この問いに対し、大條道頼は静かに、しかし毅然としてこう応えたのです。
「忠臣がいないわけではありません。しかし、源義経ほどの主君が果たしていらっしゃるでしょうか」
この一言には、就任間もない伊達宗村に対する真摯な諫言と、主君としての自覚を促す深慮が込められていました。
忠臣の誕生を望むならば、まず主君自身が徳を磨き、威信を示すことこそが不可欠であるという剛直かつ不変の理が説かれているのです。
大條道頼の言葉は単なる空論ではなく、長年にわたり藩政の中枢を担い、家臣や領民の信頼を得てきた経験に裏打ちされたものでした。
理想の主従像を語りながら若き主君の成長を慈しみ促すこの発言から、大條道頼が誇る至誠と深い見識が鮮やかに浮かび上がってきます。
5. 先祖の文書整理とアイデンティティの継承
延享元年(1744年)1月6日、伊達宗村の夫人である利根姫と長女の源姫が年賀の拝礼のため将軍家を訪問した際、大條道頼がこれに供奉し、徳川吉宗(将軍家)より紗綾三巻を下賜されました。
また同年3月、伊達宗村の仙台領への初のお国入りに際しては大條道頼へ金六十両が与えられ、さらに6月には、藩主の移転に伴う諸手配や準備を支え切った多大な功績が認められ、黄金一枚と時服三領を褒賞として授与されたのです。

(伊達宗村長女源姫)
延享元年(1744年)11月、大條家の歴史において大変興味深い出来事が記されています。
天文22年(1553年)に大條宗家が伊達晴宗から伊達郡大条之郷の知行を賜った際の発給文書である「判物」と、慶長9年(1604年)に大條宗直が伊達政宗から気仙郡内に2,000石余の知行を宛行われた際の「黒印状」の二通が表装によって繋ぎ合わされ、一箱の木箱に納められて現代まで伝来しています。
この木箱の蓋には「晴宗様御判物・貞山様御墨印」の題字とともに「延享元年十一月入ル」と記されており、まさにこの時期に二つの最重要文書が一体化されて収納された事実が窺えます。
この整理作業には、当主である大條道頼が深く関与していたことは明白です。
その真意は定かではありませんが、前年(1743年)に伊達宗村から大條家の祖である伊達宗遠の和歌を賜ったことで、自家のルーツに対する誇りと敬慕がより一層深まり、大條家のアイデンティティたる重要史料を後世へ確実に伝えるべく保存を命じたと考えられます。
大條道頼は奉行の重職を全うし、仙台藩政の中枢を担う重鎮としての地位を揺るぎないものとしました。
しかし、功成し名遂げた彼の前に病という大きな試練が立ちはだかります。
大條家の家名を死守し、次代へとバトンを渡すため、大條道頼がどのように病と向き合い、家督継承の断行という最大の難局を打開したのか、その最後の軌跡については次回詳しく記述いたします。
◼️参考資料
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
伊達宗康『大條家五百年祭小志』1941年
佐藤司馬『大條家坂元開邑三百五十年祭小志』1966年
野本禎司『古文書が語る東北の江戸時代』2020年
山元町教育委員会『唐船番所』1988年
東京帝国大学『大日本古文書 家わけ 三ノ四 伊達家文書之』1909年
