見出し画像

大條道頼(大條家第十二世)【下】

前編はこちら
中編はこちら

波瀾の運命を背負い、卓越した智略で三代の藩主を支え、大條家の威信を確固たるものにした、大條道頼について記述します 【後編】


1. 眼病による辞任と伊達重村の即位

延享5年(1748年)1月11日、大條道頼は眼病を理由に奉行職の辞任を申し出ました。
これにより江戸での職務は免除されたものの、藩主 伊達宗村からの強い慰留を受け、仙台での職務は継続することとなります。
その後、江戸から仙台へ帰国したものの、体調不良が続いて仙台城への登城すら困難となり、寛延3年(1750年)5月28日には藩主から直々にお見舞いを受けました。
さらに同年12月21日には、療養を気遣うお見舞いとして布団地と白綿を下賜されています。
その後、宝暦2年(1752年)11月3日、当時わずか10歳であった伊達重村が、大條道頼へ送った心温まる書状が現代に書き残されています。

一筆奉啓上候、寒冷御座候得共、御前益御機嫌能被成御座候段奉承知、 大悅奉存候、藤三郎今日酒湯相引、右祝儀相調、御同然大慶奉存候、右御悅為可申上、如此御座候、爰元 御姬樣御安泰、私始無異罷在候、此旨宣被申上候

松平藤次郎國村

十一月三日
大條監物殿

2770 伊達國村(重村)書状
『大日本古文書 家わけ 三ノ七 伊達家文書之七』

一筆申し上げます。寒さが厳しい季節ではありますが、お元気でいらっしゃると承り、大変喜んでおります。藤三郎は今日、酒と湯を用意し、祝儀を整えました。こちらも同様に慶びを感じております。この喜びをお伝えしたく、このように手紙を書いております。
こちらでは、お姫様も無事でお過ごしですし、私も変わらず元気でおります。この旨をお伝えいたします。

松平藤次郎國村(重村)

(宝暦二年)十一月三日
大條道頼殿

筆者訳

宝暦3年(1753年)9月、病状が重くなった大條道頼は、改めて奉行職の辞任を申し出ました。

併せて嫡男である大條実寿への職務継承を強く希望し、ここに及んでついに藩主 伊達宗村からの聞き届けを得ることとなります。
度重なる慰留を受けてから5年もの長きにわたり、病苦を押して重責を果たし続けた大條道頼は、この時をもってようやく肩の荷を下ろし、本格的な療養生活へと入ることとなったのです。

大條実寿(大條道頼嫡男)
幼名:友之進
通称:孫三郎
生誕:元文2年(1737年)
死没:宝暦9年(1759年)6月
父母:大條道頼、大條家女中(側室)
兄弟:大條道任(大條家第十三世)、女(布施定誠夫人)、女(亘理倫篤夫人)、他多数
妻:古内志摩義清の娘
子供:なし

名代となった大條実寿は、即座に「御近習申次」に任じられるなど、その出世への足取りは極めて順調なものでした。
しかし宝暦6年(1756年)5月24日、大條家を深く頼りにしていた藩主 伊達宗村が39歳の若さで突如逝去し、その嫡男である伊達重村が新たな仙台藩主の座に就くこととなりました。

伊達重村像
(仙台市博物館蔵)

2. 遺書隠匿事件と異例の奉行復帰

同年閏11月27日、病を得て療養生活を送っていた大條道頼に対し、突如として再び奉行職へ復帰するよう厳命が下されました。
この異例とも言える再任の要請には、仙台藩政における以下のような複雑かつ緊迫した背景が存在していたのです。

宝暦6年(1756年)、わずか15歳で仙台藩主に即位した伊達重村は、宝暦の大飢饉による深刻な財政悪化と、それに伴う奉行衆(家老層)内部の深刻な対立という難局に直面していました。
当時の奉行職は奥山良風、津田定康、葦名盛寿、柴田成義、遠藤善信の5名で構成されていましたが、政事改革を模索する柴田成義と遠藤善信は、見識と実績に長けた大條道頼と但木顕行を奉行へ起用すべきだと主張します。
これに対して奥山良風らが猛反発したことで、最高執政部である奉行衆の意見は真っ二つに割れることとなりました。
さらに藩政改革を求める伊達家一門の伊達村実、伊達村通、伊達村望、伊達村富、白河村広らが結集し、奥山良風と葦名盛寿の免職、ならびに大條道頼、但木顕行、中島成康の三名を奉行へ登用するよう伊達重村へ進言するに至ります。
追いつめられた奥山良風は幕府老中の堀田正亮への直訴も辞さない構えを示し、仙台藩政の緊迫感は極限に達しました。
そうした渦中、葦名盛寿が前藩主 伊達宗村の「御遺書」を回覧し忘れた過失が発覚し、「遺書隠匿」の嫌疑がかけられることとなります。
この遺書自体は前藩主が生前に作成した一般的なものでしたが、政治的対立のなかで葦名盛寿の失策は絶好の攻撃材料と化しました。
加えて津田定康と奥山良風が葦名盛寿の失策を隠蔽しようと画策した事実が露呈したため、伊達村実や大條道頼、中島成康らはこれを「遺書隠匿の重罪」として猛烈に追及し、騒動は一気に拡大したのです。
これが決定打となり、同年閏11月、津田定康は改易(領地没収)、奥山良風は逼塞、葦名盛寿は閉門という厳罰に処されました。
こうして不測の政変を経て、大條道頼、但木顕行、中島成康の三名が新たに奉行へ就任したことで、仙台藩を揺るがした騒動はひとまずの収束を見ることとなったのです。

大條道頼はなおも病床で療養を続けている身でしたが、藩主をはじめとする周囲からの強い要請を断り切れず、苦渋の決断の末に奉行職へと復帰することとなります。
眼病の悪化を理由に職を辞してから、わずか3年後の再登板でした。
新藩主となった伊達重村は大條道頼の深刻な身体状況を深く気遣い、「城中駕籠御免」を認めるなど、老臣に対する様々な特権や破格の配慮を与えてその忠勤に報いたのです。

丙子閏十一月應名登城遠藤內匠善信傳當君之命曰君齡未及成童國老亦各齒未滿五十汝雖臥病以當時之長老且先君之世為國老人而識故馴事再為國老非國政之重事則不可登城若有事登城則城中乘輿座中扶介共許之其他部定所及火災之出務月番加判悉皆除之

大條道頼君碑文
伊達宗康『大條家五百年祭小志』1941年

宝暦6年(1756年)閏11月、命に応じて登城した際、遠藤善信が当主 伊達重村の命を以下のように伝えた。
「伊達重村は未だ成人に達しておらず、国老(奉行)たちも皆五十歳に満たない。大條道頼は病床にあるものの、当代の長老であり、先君 伊達宗村の時代から国老として務め、旧例や実務に通じている。再び国老に就くにあたり、国政の重要事項でなければ登城には及ばない。もし有事の際に登城する場合は、城中での乗輿を許し、座中での介添えも認める。その他、部定所での務めや火災時の出務、月番加判などの日常執務はすべて免除する。

筆者訳

つまりこの命は、「よほどの重事でない限り仙台城へ登城する必要はない。万一登城の際にも、城内での駕籠(輿)の利用を許し、介添えの同伴も認める。さらに、定例業務や火災対応、毎月の職務に及ぶまで一切を免除する、これほどの優遇措置を用意するので、どうか奉行に復帰してほしい」という切実な要請にほかなりません。

病床にあって身体が優れない老臣に対し、ここまでの特権を提示してまで再登板を乞うという事実は、藩主 伊達重村や一門、重臣たちが、大條道頼という存在の見識と重みをいかに不可欠としていたかを雄弁に物語っています。

仙台城 大手門脇櫓
(Wikipediaより転載)

なお、嫡男である大條実寿は、父 大條道頼が奉行へ再任されたことに伴い、独立前の生計を支えるための「部屋住料」として300石を下賜されました。「部屋住み」とは、江戸時代の武家社会において家督継承前の嫡男が実家に留まり、独立した知行を持たない状態を指します。
この際、家督相続に先立ち支給される「部屋住料」は、生活費のみならず、将来の重臣としての家格や身分を維持するための重要な手当としての意味合いを含んでいました。

4. 嫡男 大條実寿の早世と大條道任への継承

宝暦7年(1757年)1月28日、藩主 伊達重村は使者を遣わして親書を授け、大條道頼の病床を気遣うとともに、前年の「遺書隠匿事件」の処理における多大な功績を深く称賛し、褒賞として小刀を下賜しました。

宝暦7年(1757年)3月、嫡男である大條実寿は御近習として江戸詰めを言い渡され、さらに600石を下賜されました。
続いて同年6月15日には、仙台藩主の名代として上方五社(伊勢神宮・春日大社・石清水八幡宮・談山神社など)へ参拝する大役を命じられ、同月28日に江戸を立ち目的地へと出発したのです。

このように大條実寿は精力的に職務をこなし、近い将来の家督継承に向けて着々と歩みを進めていました。
しかし宝暦9年(1759年)6月、思いがけない悲劇が襲います。
大條実寿が御近習御申次勤士の職にありながら、わずか21歳の若さで病死したのです。
家督相続を目前に控え、一族の期待を一身に集めていた嫡男の死は、父親である大條道頼にとって痛恨の極みであったに違いありません。

【上】でも記した通り、大條実寿に与えられた「実」の一字は、分家・大條家の祖である大條実頼の存在を強く意識した命名でした。
また「孫三郎」という通称は、大條家初代の大條宗行が用いた特別な名であり、歴代当主でこれを継承した前例はありません。
この二つの命名には、始祖への深い敬意と本家・分家を一本に織り合わせようとする大條道頼の不屈の意志が込められていたのです。

さらに、幼少であった自身の名代として長年大條本家を支え切った大條頼泰に対する深い感謝と敬愛の念もまた、この名に投影されていたと考えられます。
それだけに、期待の嫡男を失った衝撃は大條道頼の心身を激しく打ちのめしたことでしょう。

この緊急事態を受け、次男の大條道任(悦之進)が大條本家の嫡男へと繰り上がり、父の名代として奉公を開始することとなります。
危機に際し、大條道頼が早くから側室を設けて複数の後継者候補を準備していた深謀遠慮が、ここに結実したと言えます。

5. 藩主の見舞いと「坂元四千石」

3年後の宝暦12年(1762年)5月2日、大條道頼の病状が重く余命いくばくもないことを知った藩主 伊達重村は、夕刻に自ら大條家の屋敷へと脚を運び、病床の見舞いの言葉を直接掛けました。

この異例の御成には、藩主 伊達重村が大條道頼に対して抱いていた極めて深い全幅の信頼と敬意、そして長年にわたり仙台藩に尽くした不滅の功績に報いようとする強い思いが如実に表れていたと言えます。
さらにその夜、伊達重村は重臣の松前主水を使者として即座に遣わし、自らの手による親書を届けさせるとともに、500石加増という沙汰を伝えさせました。
この加増により大條家の知行高は4,000石へと達し、のちに「坂元四千石」として広く知られる称号が、ここに誕生することとなったのです。
この4,000石という所領は、大條家が幕末・明治維新に至るまで名門としての誇りを保ち続け、その名目を永く存続させるための揺るぎない基盤となりました。

松前主水殿
一筆申進候、然ハ大條監物儀病氣及大切、甚無心元存候、依而同人に手富之儀、 委細平賀源藏を以申入候處、早速之存慮、 至極尤ニ存候、依之別紙書付差遣候間、 乍大儀直々其方使相勤候様ニと存候、同役衆にハ、明日被申談様ニと存候、
(中略)
以上、

五月二日

2804  伊達重村直筆書状
『大日本古文書 家わけ 三ノ七 伊達家文書之八』

松前主水殿へ
一筆申し上げます。さて、大條道頼が病気で重体であり、非常に心配しております。そこで、彼に手当て(治療)を施すことについて、詳しく平賀源蔵を通じて申し入れましたところ、早速にご配慮をいただき、非常に適切な対応と存じます。つきましては、別紙に書いたものをお送りしますので、お手数ですが、直接あなたの使者に取り次いでいただくようお願い申し上げます。また、同僚たちには、明日にでも話し合うようにと存じます。
(中略)
以上、
5月2日
(伊達重村)

筆者訳

親書
先程相越以後病気如何候哉承度候抑其方儀は御先代より数十年之国老殊更我等代始引込居候を別段相頼召仕千万の動功治悦不斜候然るに老病及大切
候段甚無心元依て存命の御安堵致候様致度雖深更松前主水を以て五百石加増遣し候委曲可仕口達候也
五月二日

大條監物殿

大條道頼宛伊達重村書状
佐藤司馬『大條家坂元開邑三百五十年祭小志』1966年

親書
先程お会いした後、あなたの病状がどうなっているか気になっております。あなたは先代の頃から数十年にわたり奉行として務め、特に私の代になってからも引退せずに尽力してくれました。
その功績は非常に大きく(千万の動功)、心から感謝しております。しかし、老病が重くなり、あなたが心配です。どうか命を大切にし、安堵して過ごしてください。そのため、深い思いを込めて、松前主水を通じて500石を加増することにしました。
詳細は口頭で伝えるようにします。

宝暦12年(1762年)5月2日
(伊達重村)

大條道頼殿へ

筆者訳

藩主 伊達重村にとってこの500石の加増は、死の淵にある大條道頼の功績を称える最後にして最大の厚情であり、大條道頼の生涯にとってもまさに最も名誉ある締めくくりとなりました。

そして、病床にてその報せを受け取った大條道頼自身も、自らの長年にわたる真摯な奉公が主君から全幅の信頼とともに認められたことに、深い安堵と感謝を覚えたに違いありません。

そして、その栄誉に深く包まれるようにして——
翌5月3日の早朝、新緑の青葉が揺れる穏やかな朝気の中で、大條道頼は63年の至誠に満ちた生涯に静かに幕を下ろしたのでした。

6. 63年の生涯と「棟梁の才」の遺産

その生涯は、仙台藩政の中枢において多大な責務を果たし、大條家の盤石な礎石を築き上げるものとなりました。
伊達吉村(第五代)、伊達宗村(第六代)、伊達重村(第七代)という3代にわたる藩主から絶大な信任を得て、それぞれの時代において枢要な役割を果たしたその姿は、仙台藩の歴史においても一際まばゆい輝きを放つものであります。

また、本家と分家の絆を何よりも重んじ、武家の伝統を大切に守りながらも、時代の激動に目を向け柔軟に応じた姿勢こそは、大條道頼の真骨頂であったと言えます。

その不滅の功績によって築かれた「坂元四千石」という基盤には、単なる家名の存続を超えた深い歴史的意義が込められています。

大條道頼の後を継いだ大條道任(のちの大條家第十三世)は、後年、父である大條道頼をこのように評しています。

——その性格は純朴で慎み深く、寛大で、棟梁の才があった——

この言葉は、大條道頼が優れた政治家であっただけでなく、人格的にも卓越していたことを物語っています。

当主として48年間にわたり治家を全うし、大條家を力強く支え抜いた大條道頼の足跡は、大條家の歴史を永遠に照らし続ける光となり、その偉大な功績はこれからも後世に対して貴重な指針と希望を与え続けることでしょう。

◼️参考資料
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
佐藤司馬『大條家坂元開邑三百五十年祭小志』1966年
伊達宗康『大條家五百年祭小志』1941年
東京帝国大学『大日本古文書 家わけ 三ノ四 伊達家文書之』1909年


いいなと思ったら応援しよう!