大條宗快(大條家第十世)
幼名:丑之助、新三郎
通称:監物
号:幽松
生誕:元和7年(1621年)
死没:貞享3年(1686年)9月1日
諡名:海禅院殿竹厳幽松居士
父母:大條宗頼(大條家第九世)、奥山兼清の娘
兄弟:女(葛西藤左衛門夫人)、女(寿心局)、笹町重頼(笹町元清養子)、女(成田助之允夫人)、男子(早世)、女(葛西重利夫人)
妻:宮内定清の娘
子供:大條宗経(病身により廃嫡)、大條宗道(大條家第十一世)、大條宗透、女(中嶋刑部夫人)
伊達騒動の渦中において卓越した機転と調整力で仙台藩を支え、家名を守り抜いた苦労人、大條宗快について記述いたします。
1. 41歳での家督相続と奉行職への就任
元和7年(1621年)、大條宗頼の嫡男として誕生しました。幼名は「丑之助」、のちに「新三郎」とも称され、父が仙台藩の重臣として多忙に奔走する姿を幼少期から間近で見つめ、武家としての佇まいや政務の要諦を学びながら成長していきました。
寛文2年(1662年)1月、大條宗快は41歳という壮年期において家督を継ぐことになりました。
この家督相続においては、極めて特筆すべき出来事がありました。
なんと家督継承と同時に、当時藩政の実権を握っていた原田甲斐(原田宗輔)の強い引き立てにより、いきなり仙台藩奉行職(家老)への就任を果たしたのです。
前回の記事で取り上げた奥山大学の書状にも、「監物(大條宗快)は家督を任せるのにまことにふさわしい」と絶賛されており、家督を継ぐ以前から父 大條宗頼の政務補佐や裁判の裁きを手助けし、周囲からもその卓抜した能力が高く評価されていたことが窺えます。
寛文3年(1663年)には、江戸詰家老に任じられました。父 大條宗頼も江戸留守居役としてキャリアを築いていたため、まさに父子二代で同じ歩みを辿ったと言えます。
寛文4年(1664年)4月6日には、幼少の藩主である亀千代(のちの伊達綱村)が徳川家綱の前で初めての拝謁を果たす際、供奉として付き従い、仙台藩62万石の領地が正式に幕府から安堵されるという極めて重大な歴史的局面に立ち会うこととなりました。

(徳川記念財団蔵)
ちなみに、『伊達治家記録』にはこの直前の寛文4年(1664年)3月13日、「伊達中務宗元、大条掃部宗経、高泉主計兼康、各登城、休暇を命じられる」と記載されています。ここで名が挙がっている大条掃部宗経とは、のちに病身のため廃嫡となる大條宗快の第一子(長男)にあたります。おそらくこの時期に体調を崩されたのではないでしょうか。
そして、翌年の寛文5年(1665年)12月3日、このような記載があります。
「葛西久三郎重利に大条監物妹婚約命じられる」
こちらに記載の通り、本件は大條宗頼の第7子(大條宗快の妹)が葛西壱岐へ嫁いだ事案を指していますが、仙台藩当局が「葛西家側に対して、大條家との婚姻を結ぶよう命じている」点がきわめて興味深いところです。
もちろん、この時代の武家社会においては政略結婚が基本であったことは言うまでもありませんが、 かつて大條実頼の時代から培われてきた大條家と葛西家との極めて強固な絆と歴史的結びつきの深さが、ここでも如実に表れていると言えます。
2. 「亀千代毒殺未遂事件」と一時辞職
そんな中、寛文6年(1666年)2月、大條宗快は突如として仙台藩奉行職(家老)を辞職します。
「病気により職務を全うできない」という言葉が辞職の理由として残されていますが、その背景を紐解くと、当時の仙台藩を覆っていた深刻な政情不安が浮かび上がってきます。
この辞職の直前、仙台藩内では幼少の藩主 亀千代(のちの伊達綱村)に対する「亀千代毒殺未遂事件」が発生しており、この事件を契機に藩内の激しい権力闘争が極限にまで達していました。
幼い藩主の命を脅かすこの陰惨な事件は、仙台藩の存立そのものを揺るがす深刻な事態であり、大條宗快は政権中枢の極めて危険な空気を感じ取り、あえて権力の最前線から退くという極めて冷静な政治判断を下したとも考えられます。
大條宗快が身を引いた後、仙台藩はさらなる大混乱の渦へと巻き込まれていきました。
寛文11年(1671年)には、歴史上あまりにも有名な「寛文事件(伊達騒動)」が勃発いたします。
大條宗快の奉行就任を強力に推挙した張本人でもある仙台藩奉行 原田甲斐(原田宗輔)が、江戸幕府 大老 酒井忠清の邸宅において刃傷沙汰を起こしたことにより、仙台藩62万石は改易の淵に立たされる史上最悪の危機を迎えることとなったのです。

(仙台市博物館蔵)
寛文11年(1671年)3月27日、大老 酒井忠清邸において仙台藩の内部対立をめぐる幕府審問が行われている最中、前代未聞の重大な刃傷沙汰が発生しました。
伊達宗勝派の仙台藩奉行 原田宗輔(原田甲斐)が控え室において伊達宗重を突如斬殺し、さらに老中らのいる部屋へ抜刀したまま突入しようとしたため、同じく仙台藩奉行の柴田朝意や奉行格の蜂屋可広がこれを阻止しようと刃を交えました。
しかし、激しい混乱の中で酒井家家臣らに斬りつけられたことにより原田宗輔は即死し、柴田朝意と蜂屋可広も負傷を負ってのちに死亡することとなりました。
この事件は、幕府の最高権力者である大老の屋敷内で起こったため幕府の威信を大きく損なう事態となり、原田家は即座に断絶、伊達宗勝派は改易・流罪となるなど極めて厳しい処分が下されました。
この凄惨な事件が勃発した一日こそが、いわゆる「伊達騒動(寛文事件)」の決定的なクライマックスとなり、後世に長く語り継がれることとなったのです。
この前代未聞の刃傷事件に前後して、実におよそ120人にも及ぶ藩士が処分を受けることとなり、仙台藩内の人間関係と相互の信頼は完全に瓦解寸前の状態へと追い込まれました。
この惨状を鑑みるに、大條宗快が寛文6年(1666年)の段階で奉行職を退き、権力の最前線からそっと身を引いていたという決断は、結果として自身の命と大條家の家名を見事に守り抜くことにつながったと言えます。
3. 寛文事件後の再登板と仙台藩の再建
寛文11年(1671年)4月、大混乱の極みにあった仙台藩を立て直すべく、大條宗快は奉行(家老)として再び藩政の中枢へ復帰することとなりました。
この再登板は大老 酒井忠清からの強い勧めによるものであり、大條宗快の卓越した政治的手腕が、藩内のみならず幕府の中枢からも高く評価されていた動かぬ証左でありました。
同年11月29日には、崩壊しかけた藩内を整理・統率する重大な責務を担って江戸へと赴き、幕府との直接交渉に臨みます。
大條宗快は寛文事件に伴う藩士たちの連坐処遇の軽減や混乱の収拾に全力を注ぎ、事態の沈静化に極めて大きな貢献を果たしました。
仙台藩が存亡の危機という最大の混迷期を脱し、再び62万石としての揺るぎない安定を取り戻すための盤石な礎を築き上げたのは、まさに大條宗快の深謀遠慮と類まれなる政治手腕によるものが大きかったと言えます。
なお、仙台藩の公式記録である『伊達治家記録』には、寛文11年(1671年)6月14日の条として以下の記載が残されています。
「大条監物宗快家督に、二男権左衛門宗直を命ぜらる」
ここに記されている、左衛門宗直とは後の大條宗道(大條家第十一世)のことです。
上述の通り、寛文4年(1664年)に大條宗快の当初の嫡男であった大條掃部宗経が、病気のために出仕を差し控えざるを得なくなり、その後に廃嫡となっておりました。
こうした事情があったからこそ、次男である大條宗道(宗道)が、この寛文11年(1671年)という節目のタイミングにおいて、正式に大條家の新たな嫡子として定められたと考えられます。
その後も、寛文13年(1673年)には藩主 伊達綱村が将軍 徳川家綱へ謁見に供奉し、その功績を認められて加増を受け、大條家の石高は実に3,300石にまで達することとなりました。
4. 伊達綱村時代の儀礼的職務
ここから延宝3年(1675年)に至るまでの『伊達治家記録』の記述をもとに、大條宗快の足跡と行跡を丁寧に辿ってみることといたします。
寛文13年(1673年)11月29日、「大条監物、幕府より奉行職用事等如元命ぜられ然るべき由仰遣さる」
延宝2年(1674年)10月28日、「大条監物上府」
延宝2年(1674年)12月12日、「東禅寺へ、御名代大条監物」
延宝2年(1674年)12月23日、「大条監物子主計宗直に、石田将監娘許嫁台命の御礼」
主計宗直すなわち後の大條家第十一世 大條宗道のことですね。大條宗道の夫人は石田常員娘ですが、確かにここで許嫁として藩主から命じられたことが記載されてますね。
延宝2年(1674年)12月12日、「東禅寺御名代大条監物」
東京都港区高輪にある東禅寺のことを指していると思われますが、
仙台藩の菩提寺でもあった為、儀礼的な役割で大條宗快が名代を務めています。
延宝3年(1675年)5月14日、「伊達左兵衛、大条監物、明日登城すべき旨著さる」
延宝3年(1675年)五月15、「伊達左兵衛、大条監物登城拝謁。浅府第に御出」
延宝3年(1675年)7月晦日、「柴田中務・大条監物、困窮に及ぶ由聞召され、各金三百両を賜う」
東禅寺への名代も続き、金銭的に困窮していたようですね。藩主伊達綱村から金三百両(約3,000万円)を拝領してます。
延宝3年(1675年)閏4月、藩主 伊達綱村の日光参詣に随行し、4月25日は浅府御堂へ名代参拝
延宝3年(1675年)9月4日、「東禅寺御参、それより浅府の第に御出、御堂御参拝。稲葉丹後守・大学・高木忠右衛門・中川立甫入。織部(伊達)・修理(小梁川)・監物(大條)、葵の御紋を着し苦かる間敷思さる旨、御辞有り」
また東禅寺に参拝してますね。大條宗快は伊達織部、小梁川修理と共に葵の御紋(将軍徳川家の家紋)を着けることの許可をもらっています。
延宝3年(1675年)10月7日、「城中の数寄屋で壺口切の茶を試み、石川主馬、伊達大蔵、小梁川修理、大条監物、宮川玄的が相判した」
藩主 伊達綱村は仏教への信仰が極めて篤く、寺院の建立や神社の造営に心血を注いだ人物であったため、この時期の仙台藩奉行(家老)には名代としての参拝や各種儀礼といった宗教的・外交的職務が非常に多く見られます。
その後の延宝4年(1676年)2月21日、父である大條宗頼(大條家第九世)75歳という誉れ高き天寿を全うしてこの世を去りました。
この訃報に接した藩主 伊達綱村自らがわざわざ大條邸へと弔問に赴いたことが記録に残っており、
大條宗頼がいかに藩主から深く信頼され、大條家にとっても偉大すぎる存在であったかが改めて深く実感されます。
延宝5年(1677年)3月15日、大條宗快は公務のため江戸へと赴き、同年4月6日には藩主 伊達綱村の御祝言(婚礼の儀)が執り行われました。
この際、大條宗快は輿を直接受け取るという、儀礼上きわめて重要な重責を任ぜられています。
なお、輿の渡人は幕府方の稲葉七郎兵衛が担当し、御貝桶受取の役は同じく仙台藩重臣の遠藤山城が務めました。
この御祝言の一連の大儀は滞りなく執り行われ、大條宗快は無事に大役を果たしたのち、同年4月22日に江戸を立って仙台へと帰還いたしました。
その翌年となる延宝6年(1678年)8月晦日には、藩主 伊達綱村へ対する忠誠を誓った、大條宗快をはじめとする仙台藩重臣一同の血判起請文が提出されています。
起請文前書
陸奥守内々不勝手之品申上候付、兼而貯金御座候歟も御尋ニ御座候、
貯金一圓無御座候、剩借金當暮迄之元利二拾四万五千兩餘御座候、三捨万兩余ニ致倍合候得者、土貢可仕樣無御座候條、一門共に遣候合力をも、
致斷相減、家中之者知行物成金之內、少々借申筈ニ申付候得共、大分之借金難減御座候、依之爲手廻、借金相調申度奉存候之處、自力難相叶、行當申仕合ニ御座候間、借金御才覺被成下候樣ニ、乍憚申上度奉願候、右之旨趣、聊相違之儀於申上者、
梵天、帝釋、四大天王、惣日本國中六十餘□大小神祇、殊伊豆莒根兩所權現、三島大明神、八幡大菩薩天滿大自在天神、部類眷屬神罰冥罰、各可罷蒙者也、仍起請如件、借金ノ願佐々伊賀心得定
延宝六年八月晦日
佐々伊賀定隆
黒木上野宗信
大條監物宗快
小梁川修理宗敬
柴田中務宗意
東京帝国大学『大日本古文書 家わけ 三ノ四 伊達家文書之』
1909年
以下に起請文を記します。
藩主である陸奥守(伊達綱村)様に対し、内々に、不足している支出について申し上げます。
以前より蓄えとされる貯金があるかどうかをお尋ねのことについては、貯金は一文たりとも存在いたしません。
また、累積している借金は年末までの元利を合わせて24万5千両余りでございます。これをさらに30万両以上に増やして調整したいと考えておりますが、どうしても他の方法で土貢(領内からの収穫物や税)を充当することができず、一門が力を合わせて努力をしてきました。
しかしながら、融資などの合力をしていただき、また家臣たちに知行地からの物成収益(金銭収入)を少々借り受けるよう命じておりますが、大部分の借金については減らすことが難しい状況にございます。
このため、資金繰りの手段として、借金をなんとか調整しようと存じますが、自力ではどうしても達成することが難しい状況にございます。
従いまして、陸奥守様には藩財政の才覚を発揮いただき、この借金問題の解消方法をお考えいただけますよう、恐れながらお願い申し上げます。
もし、この申し上げました内容において少しでも偽りがある場合には、梵天、帝釈、四大天王をはじめ、全国の六十余州大小神祇、および伊豆・莒根の両所権現、三島大明神、八幡大菩薩、天満大自在天神を含む諸神々からその罰を受けることを厳粛に誓約いたします。
以上をもって本起請文を呈する次第です。
延宝六年(1678年)八月晦日
佐々伊賀定隆(血判)
黒木上野宗信(血判)
大條監物宗快(血判)
小梁川修理宗敬(血判)
柴田中務宗意(血判)
藩主 伊達綱村は寺院や神社の造営をはじめとする積極的な諸施策を精力的に推し進めていましたが、これらの膨大な事業はかえって仙台藩の財政を著しく逼迫させる結果となりました。
この時期の仙台藩の財政状況は、まさに「火の車」と呼ぶにふさわしい危機的な状態に陥っていたと伝わります。
5. 静かな隠居と「幽松」としての最期
そこから数年が経過した延宝9年(1681年)、大條宗快は持病の悪化を理由に再び奉行職の辞任と隠居を申し出、大條家の跡目を次男である大條宗道(大條家第十一世)へ託すこととなりました。
天和2年(1682年)3月25日、大條宗快は願い出の通り隠居を許可されます。
隠居後は「幽松」と号を改め、御中屋敷に居を定めて静かに余生を過ごしていました。
しかし、仙台藩内における大條宗快への強い信頼と期待が潰えることはありませんでした。
貞享3年(1686年)閏2月15日、大條宗快は隠居の身でありながら若年寄格の重責を仰せ付けられます。
しかし、その重責に応えるかのように情熱を傾けていた同年9月1日、大條宗快はついに病に倒れ、そのまま還らぬ人となりました。
享年65でありました。
壮年期を迎えてから家督を継ぎ、度重なる藩政の激動期においても献身的に仙台藩を支え続けた大條宗快の功績は、計り知れないものがあります。
史上名高い「寛文事件(伊達騒動)」という絶体絶命の危機を見事に潜り抜け、改易寸前にまで追い込まれた仙台藩を再建し、大條家の安泰を命懸けで守り抜いた大條宗快の足跡は、まさに苦難と献身の連続でありました。
その至誠に満ちた生涯は、仙台藩の繁栄と大條家繁栄の不滅の礎となったのであります。
◼️参考資料
平川新『<伊達騒動>の真相』2022年
野本禎司『仙台藩奉行大條家文書―家・知行地・職務―』2022年
伊達宗行『翠雨山房夜話(上)』 1988年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
平重道『伊達治家記録』1973年
東京帝国大学『大日本古文書 家わけ 三ノ四 伊達家文書之』1909年
