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大條宗頼(大條家第九世)【下】

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分家の末息子から急転直下で本家を継ぐことになったにもかかわらず、父親譲りの才覚を発揮し、本家の石高を倍増させた遅咲きの名君、大條宗頼について記述します。(後編)


1. 伊達綱宗の放蕩と隠居要請状への連署

万治元年(1658年)10月に奉行(家老)となった大條宗頼は、続いて万治2年(1660年)9月18日に桃井郡中津山に遊猟の地(御鷹場)を賜りました。
この時代、鷹狩りは単なる娯楽ではなく、戦略や集中力を養う手段としても評価され、藩主や重臣たちの教養を深める場でもありました。

しかし、この頃仙台藩では深刻な問題が浮上していました。藩主 伊達綱宗の素行問題です。

伊達綱宗は遊興に耽る「放蕩三昧」の日々を送っており、一門や重臣たちが再三諫言を試みても全く聞き入れようとしませんでした。
さらに、徳川頼房や立花忠茂、老中の酒井忠清らからの意見さえも一切受け入れない状況が続いていたのです。

その結果、万治3年(1660年)6月、大條宗頼、茂庭周防、片倉小十郎の三奉行は、藩主への抗議の意を込めて辞表を提出しました。
しかし辞表は受理されず、三奉行はその後も藩政に関与することになりますが、代わりに藩主 伊達綱宗自身が隠居を余儀なくされる事態となったのです。

万治3年(1660年)7月、大條宗頼は伊達兵部宗勝、茂庭周防、片倉小十郎と共に立花忠茂の邸宅に集まり、藩主 伊達綱宗を強制的に隠居させ、後継者である亀千代の家督相続を幕府に上申することを決定しました。
そしてその直後の7月9日、藩の重臣たちの連署による伊達綱宗の隠居要請状が提出されます。
綱宗は体調不良(表向きの理由)につき藩主としての職務を果たせない状況にあり、一門重臣の14名が連名で後継の伊達綱村(当時2歳)の統治を中心に据え、隠居を命じるべきと幕府に願い出ました。
この連署には、大條宗頼をはじめ、一門や重臣の名が連ねられております。


大條宗頼外十三名連書状案

陸奥守事、御存被成候通、病気故、萬事勤可被成様子ニ無御座候、正宗以来御富家之御重恩不浅義、下々以忘却不仕候、何とそ長御奉公被申上候様ニと、朝暮奉念候、然所ニ陸奥守只今之病気ニ御座候而者、國之仕置等無慈可被申付儀、無覚束奉存候、幼少ニ御座候得共、ニ歳ニ罷成候忰御座候間、彼者ニ各字相讀續仕、陸奥守儀者隠居分ニ被仰付被下置候様ニ、御公儀於可罷成ニ者、連判之者共奉願候條、如此御座候、
以上
万治三年 七月九日
伊達弾正
伊達式部
田村右京
伊達安芸
伊達和泉
伊達安房
石川大和
奥山大学
遠藤文七郎
富塚内蔵丞
原田甲斐
茂庭周防
片倉小十郎
大條兵庫

大條宗頼外十三名連書状案
『大日本古文書 家わけ 三ノ四 伊達家文書之1-10』
※大條宗頼は14番目の署名にも関わらず、
「大條宗頼外十三名」というのは不思議ですね

私たちが申し上げます陸奥守(伊達綱宗)についてですが、ご存知の通り、現在、ご病気のため、なかなか職務を全うする様子にはございません。政宗公以来続く伊達家の繁栄とご恩情を思えば、私たち下々もそのご恩義を決して忘れることはありませんし、とにかく、長くご奉公をお支えすることを心から願っております。
しかしながら、陸奥守(綱宗)の病状によって、このまま国政や藩内の統治が適切に行われないことを心より心配しております(覚束なく存じ上げます)。幸いにも、陸奥守には現在二歳になる幼いお跡継ぎ(伊達綱村)がおられますので、その君を中心として藩内で力を合わせて支えていけば良いと思われます。
つきましては、陸奥守には隠居分(年金的なもの)を伴う形で隠居を命じていただければと存じます。この件を幕府にご覧いただき、実現していただきますよう、この連署書状によってお願い申し上げます。

万治三年(1660年)七月九日
伊達弾正(宗敏)
伊達式部(宗倫)
田村右京(宗良)
伊達安芸(宗重)
伊達和泉(宗直)
伊達安房(宗實)
石川大和(宗弘)
奥山大学(常辰)
遠藤文七郎(俊信)
富塚内蔵丞(重信)
原田甲斐(宗輔)
茂庭周防(延元)
片倉小十郎(景長)
大條兵庫(宗頼)

筆者訳

2. 団結を誓う起請文と「血判状」

そして、この連署書状の提出からちょうど1週間後の万治3年(1660年)7月16日、大條宗頼を筆頭に仙台藩の重臣たちは藩内の一致団結を誓う起請文に血判を加えました。
この文書では、藩主や幕府に対する重要な申し立てに関して、個々の判断や私利私欲による行動を禁じ、連署者全員で相談の上、行動することを誓っています。
そして重臣たちは今後10年間、互いに協力し合い、いかなる事情があっても和談を優先することを約束しました。

大條宗頼外七名連署起請文
(仙台市博物館蔵)

大條宗頼の血判部分

大條宗頼外七名連署起請文
一兩殿様に不寄何事、直々ハ不及申、人頼申候か、
或ハ書付を以成共、此連判之衆、
江戸に而も仙台にても、其所ニ有合候衆へ無相談、抽申上間敷候、
併急之御用に而、相談不罷成義ニ候者、
壱人にても可申上候、付身之為を存、
誰成共頼申候か、尤書付にても、御前からくり申候手立仕間敷候、
一御為ニ能事と存候義も、如右之、其所ニ有合候連判之衆へ無相談、
壱人之思案に而申上間敷候、
一右連判の衆、十年之内者、自分如何様之意趣御座候共、互致堪、御用等和談仕、可申付候、
前書之通於相背者、日本六捨余州之大小之神紙、可蒙御罰者成、

子ノ
七月十六日

大條兵庫
片倉小十郎
茂庭周防
原田甲斐
富塚内蔵丞
遠藤文七郎
奥山大学
古内主膳

大條宗頼外七名連署起請文
(仙台市博物館蔵)

一、両殿様(伊達綱宗と伊達綱村)については、いかなることにおいても軽々しく意見を寄せることはありません。また、直接申し上げる必要がある場合であっても、必ず一人の判断だけで行わず、誰かに頼むようなことや、書状をもって申し立てを行う場合であっても、この連署に名を連ねる者たちの間で相談をしないまま、勝手に申し上げることは許されません。
たとえ江戸であれ仙台であれ、同じ場所にいる者同士で相談せずに行動してはならない、またいかなる場合も抜け駆けをしてはならないことを、ここに誓います。

ただし、急を要する場合については例外とし、もし相談を行う時間がないと判断された場合には、一人で申し立てを行うことも許容されます。その際、私的な利益を考え、ご自分の都合で誰かに頼むなどの行為をしてはならず、また書状で代わりに申し立てを行うにしても、御前(藩主または幕府)で不正な工作をしてはならないということを誓います。
一、両殿様や藩のために重要なことだと考えられる事柄についても、他の連署者たちと相談しないまま、一人で考えた内容で申し出ることは決して許されません。これも同様に、常に相談し合った上で行動することをここに誓います。
一、ここに連署する者たちは、今後の10年間どのような事情が生じたとしても、互いにしっかりと団結し、協力して藩の御用や相談事を進めることとします。その間いかなる相談も共に行い、無益な争いを避け、必ず和談を優先するよう努めます。
上記の内容に違反した場合、日本全国六十余州の大小神々の罰を受けるものとここに誓います。

七月十六日
大條兵庫(宗頼)
片倉小十郎(景長)
茂庭周防(延元)
原田甲斐(宗輔)
富塚内蔵丞(重信)
遠藤文七郎(俊信)
奥山大学(常辰)
古内主膳(重安)

筆者訳

この血判状は伊達騒動の代表的な書状であり、その筆頭に大條宗頼の名前があるというのは実に誇らしいことですね。
また、書状のタイトルも「大條宗頼外七名連署起請文」として伝わってますしね。
2022年に出版された平川新氏の名著『<伊達騒動>の真相』の表紙にも、この血判状が使用されています。

ちなみに、私がこの血判状を初めて目にした際、背面に描かれたカラスの文様に驚きを禁じ得ませんでした。

「熊野牛王神符」

八咫烏(やたがらす)は三本足のカラスとして知られ、特に熊野信仰に深く根付いています。勝利を導く神の使いとして長きにわたり敬われ、その神秘的な存在は多くの人々に親しまれています。
このカラスが描かれた「熊野牛王神符」は、病気の平癒や災難除けを祈願する護符であるだけでなく、非常に厳格な「起請文」しての役割も果たしています。約束を破れば血を吐いて死ぬという恐ろしい天罰が信じられており、この信仰は誓いを立てる際の真剣さを促し、深く人々の心に根付いているのです。

3. 伊達綱宗の逼塞と新体制の発足

万治3年(1660年)7月18日、老中・酒井忠清の邸宅において、伊達兵部、大條宗頼、片倉小十郎、茂庭周防、原田甲斐ら仙台藩関係者が招集され、伊達綱宗が逼塞(謹慎)を命じられ、事実上、藩主としての地位を失うことが正式に決定しました。

そして翌月の8月25日、再び酒井忠清邸に招集され、今回は保科正之ら幕府の重臣も列座し、伊達綱宗の正式な隠居と、嫡子亀千代の家督相続が決定されました。
幼少の亀千代を支える体制として、伊達兵部と田村宗良が後見役に任命され、亀千代を中心とする新たな藩体制が構築されることになります。
こうして、仙台藩の領土は幕府により安堵され、長らく混乱が続いた情勢にも一区切りがつけられました。
これで仙台藩は再出発を果たすことになりますが、これが後に「伊達騒動(寛文事件)」として知られるさらなる争乱の幕開けともなったのです。

4. 体調悪化による隠居と3つの説

この2年後の寛文2年(1662年)1月、大條宗頼は引退し、家督を嫡男の大條宗快(大條家第十世)に譲ります。
その後、大條宗頼は「不求」と名乗り表舞台から姿を消しました。
どうやらこの頃はかなり体調も悪くなっていたようで、奥山大学(仙台藩奉行)の書状にその当時の様子が記されています。


(1817)奥山常辰書状寫

一筆申し上げます。
さて、大條兵庫についてですが、体調がますます優れない状況にあり、末期的な状態を迎えたように思われ、もはや御奉公を続けることは難しい様子です。それを受けまして、本人も隠居をしたいという希望を朝夕抱いているようなのですが、現状の折り合いによりすぐに申し上げることができる状況ではございません。しかしながら、いずれにせよ御奉公を続けることは難しいと思われるため、それが明らかになっている次第です。

さらに、その息子、監物(大條宗快)についてですが、彼もすでに四十歳となり、年齢から見ても成熟しており家督を任せるべきだと考えられます。兵庫自身も不便を感じているようですので、御奉公を辞退させ、兵庫(大條宗頼)を隠居とし、監物(大條宗快)を家督として任命していただければと申し上げたい所存です。

ただ、現時点では同僚の者たち(茂庭周防、古内主膳)も病を患い、多少でも御奉公を続けていける状況を維持すべきだとは考えています。
しかし、兵庫(大條宗頼)を召し出していただきたいと申し上げることは拙者にとっても気が引けるのですが、上記のような事情からこのように申し上げております。監物(大條宗快)に関しては、他の者たちから何か問題が出ることはありませんし、兵庫(大條宗頼)に関しても些細な難点はあるものの、幼少時代から奉公をしていないため、当分は無理をせずに様子を見るべきだとは存じます。ただし、監物(大條宗快)を召し仕立てた場合には、親族(大條宗頼の妻は奥山大学の従兄弟)として必要な支援をすることも可能であると考えております。
親族としての事情について申し上げるのは、誠に恐れ多いことではございますが、これは御内々のこととしてお取り扱いくださるよう願っております。もしご決断をいただければ、隠居については兵庫(大條宗頼)自身が申し立てる形で進めていただければと思います。その際には、お内意をいただきたく存じます。

命あるうちに、子に家督を相続させ、安心して身を引けるようにしたいという考えを申し上げたい次第です。来春までには状況をさらによく見極めて申し上げることも可能かと思われますが、段々と弱ってきており、この状況では何も進められない状態になっております。病状に関して申しますと、ここ五七日ほどはやや良い様子が見えるものの、そのような不安定な状況で、今すぐ申し上げることとなりました。どうか適切なご指示を仰ぎたいと思います。
恐れながら謹んで申し上げます。

寛文元年(1661年)七月十六日
奥山大学

新妻隼人殿
鈴木太郎左衛門殿

筆者訳

 伊達兵部の重臣(一関藩)宛に出された奥山大学の書状によると、「大條宗頼は末期的に体調が悪く、引退を強く望んでいる」と記されており、当時の大條宗頼の状況はよほど深刻だったことが伺えます。
この書状から約5ヶ月後、大條宗頼は無事隠居を果たし、延宝4年(1676年)2月21日、75歳で天寿を全うしています。
意外にも、あの書状から15年もの長い人生を全うしたのです。この事実は、大條宗頼の真意についていくつかの可能性を想起させます。

1つ目の可能性として考えられるのは、本当に重責を担い続けることが健康に影響を及ぼしていたということです。隠居後、大條宗頼はその重圧から解放され、心身の平穏を取り戻したことで結果的に寿命が延びたと考えるのは自然な解釈でしょう。

しかし、もう1つの考え方として、大條宗頼自身が「体調不良」を隠居の名目に利用した可能性もあります。仙台藩内部の権力闘争や混乱が続いていたこの時期にあって、自身と家族を守るため、早めに次の世代へと家督を譲り、リスクに備えるという先見性を持った行動だったのかもしれません。この場合、大條宗頼は自身の健康以上に、仙台藩の不安定な状況への警戒心を抱いていたことになります。

さらに3つ目の可能性は、当時同じ奉行職にあった奥山大学が、大條宗頼を計画的に「排除」しようとした可能性も否定できません。事実、大條宗頼の引退後に奥山大学は家老として藩の実権を一手に握る体制を築いております。大條宗頼の体調悪化に関する内容は、奥山大学が自らの目的を正当化するために利用した一種の方便だったのかもしれません。

大條宗頼の引退がこれらのどの要因によるものだったのか、あるいは複数の要因が絡み合った結果だったのかは、今となっては断言できません。
しかし、大條宗頼がこのタイミングで嫡男の大條宗快(大條家第十世)に家督を託し、その後の大條家の御家安泰を作り上げたという事実は、いかなる思惑があったにせよ、大條宗頼自身の意思と選択が功を奏したものだと感じます。

5. 75年の生涯と「後世へ繋いだ名君」の真価

振り返れば、分家の末息子から急転直下で本家を継いだ大條宗頼は、父親直伝の手腕で本家の石高を倍増させるほどの名君ぶりを発揮し、さらに伊達騒動の渦中においては奉行職として藩政の舵を握りました。
その生き様は、波乱の時代を全力で生き抜いた武士としての一つの到達点だったと言えるのではないでしょうか。
その選択の真意がどのようなものであれ、結果として大條宗頼は、その引退を機に御家の基盤を固め、後世に繋がる繁栄の根幹を築き上げることに成功しました。

後に藩主伊達綱村が自ら弔問に訪れた事実にも、大條宗頼が仙台藩にとって長年にわたる欠かせない功労者であったことが如実に現れています。
この背景を知れば、大條宗頼の最期の15年は単なる余生ではなく、むしろ歴史の中での役割を全うし、静かに「次代」を託した武士としての締めくくりだったのかもしれません。

◼️参考資料
平川新『<伊達騒動>の真相』2022年
伊達宗行『翠雨山房夜話(上)』1988年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
野本禎司『仙台藩奉行大條家文書―家・知行地・職務―』2022年
仙台市史編さん委員会『仙台市史 資料編 13』2005年
平重道『伊達治家記録』1973年
東京帝国大学『大日本古文書 家わけ 三ノ四 伊達家文書之1-10』1909年


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