大條家の未完の嫡男たち【2】大條宗透
【1】では、病によって当主の座に就くことなく表舞台を去った大條宗経(大條宗快の長男)の足跡を辿りました。
大條宗経の廃嫡を受け、大條本家の家督は二男である大條宗道(大條家第十一世)へ継承され、後継者問題は収束を見たかに思われました。
しかし、大條本家に与えられた安寧は、決して長くは続きませんでした。
大條宗道(大條家第十一世)は、日光普請をはじめとする藩の重責を担う中で過労が重なり、やがて満身創痍の事態へと追い込まれてしまったのです。
ようやく後継問題が解決したのも束の間、大條本家は再び「後継不在」という存続の危機に直面することとなりました。
この窮地を救うべく、まさに「救世主」として白羽の矢が立った人物が、かつて宮内家へ養子に入っていた大條宗透(大條宗快の三男)でありました。
こうして宮内家から大條本家へと電撃復帰を果たした大條宗透は、「次期当主」として重責をしっかりと担っていきます。
しかし、その後に待っていたのは、兄と同じく病によって役目を退かざるを得ないという不運でありました。
今回は、残された史料から明らかとなる史実とともに、大條三兄弟の血脈に刻まれた「二度目の未完」の真相に迫っていきます。
1. 大條宗透(大條宗快の三男)
大條宗透
別名:宮内透清(宮内家へ養子後)
通称:権十郎、内膳、土佐
父母:大條宗快(大條家第十世)、宮内定清の娘
兄弟:大條宗経、大條宗道(大條家第十一世)、女(中島刑部夫人)
妻:小梁川宗敬の娘
大條宗透が辿った前半生の歩みは、大條本家の動向と深く連動していました。
兄の大條宗経が体調を崩して「休暇」を命じられた直後の寛文4年(1664年)4月、大條宗透は母方の実家である仙台藩の家格「一族」に列する宮内家へ養子に入り、名を宮内透清と改めます。
宮内家(仙台藩 家格「一族」)
本姓を遠藤氏(藤原姓)とする家系です。
その先祖である遠藤盛房が置賜郡長井庄宮内村(現在の山形県南陽市宮内)に居住したことから「宮内」を称するようになりました。
代々伊達家に仕えて重責を担い、のちに刈田郡親城などを経て、仙台藩の重臣家格である「一族」に名を連ねる名門へと発展します。
享保3年(1718年)には駒ヶ嶺(新地町)に館を構え、幕末まで同地を治めました。
母の父(祖父)である宮内定清の養子となったため、系図上は実母と「姉弟」の契りを交わす形での養子縁組でした。
寛文8年(1668年)5月に宮内家の家督を正式に継承した後は、初名の「権十郎」から「内膳」、さらに「土佐」へと名乗りを改め、延宝元年/寛文13年(1673年)8月には、要職である「国番頭」および「申次」に就任しました。
宮内家の当主となってわずか数年で政治・軍政の中枢に就いた事実は、大條宗透が卓越した実務能力を持つ有能な重臣として、藩内で信頼を築いていたことを証明しています。
2. 28年ぶりの本家復帰と宮内家の覚悟
元禄5年(1692年)、日光普請の激務によって大條宗道(大條家第十一世)の体調が急速に悪化すると、大條本家は後継者不在の窮地に陥ります。

日光市公式観光WEBより
そこで白羽の矢が立ったのが、宮内家で「国番頭兼申次」を務めていた宮内透清(大條宗透)でした。
元禄5年(1692年)10月10日、宮内透清(大條宗透)は実に28年ぶりに大條本家へと帰参を果たします。
その背景には、宮内家側の深い理解と温かい配慮が存在していました。
宮内家ではあらかじめ、宮内権六郎の子弟である六之允を養子に迎え、自家の家督継承に支障が出ないよう「跡取りの準備」を整えてくれていたのです。
28年もの長きにわたり大切に育て上げ、藩の要職である国番頭にまで上り詰めさせた当主を手放すことは、宮内家にとってあまりにも大きな損失であり、本来ならば容易に承諾できるものではありません。
それでも宮内家は、新たな養子を立ててまで宮内透清(大條宗透)を大條本家へと送り出しました。
ここには、「母方の実家である宮内家が、血縁関係にある大條本家の危機を救うため、自家の重鎮を惜しみなく差し出した」という、一族の強固な絆と深き献身が存在したと考えられます。
『伊達治家記録』の元禄5年(1692年)10月15日の条には、仙台藩主 伊達綱村からの極めて異例な御意が遺されています。
大條土佐透清太刀馬代板物十端献上、養子ノ御礼、 御意有りテ着座、其方宮内ノ家久仕組み相続し、 且大條監物ト歯年モ敢不違養子ノ事辞退ノ心モ有るヘシ然、大條ハ御家ノ分流品各別ナリ大條監物当時 当時ノ病ニテハ軍役モ勤難シ筋ナキ幼稚ノ者等ハ養子に命セラレセラレ難ク、其方二嗣シメラル、 大條監物を安堵養生セハ病モヨカルヘキ由御懇ノ御意アリ
大條宗透が太刀、馬代、板物十端を献上し、養子の御礼を述べました。
その方は宮内の家督を相続し、かつ大條宗道とは年齢も違わず、養子を辞退する気持ちもあるでしょう。
しかし、大條家は伊達家の分流で、品も格別です。 大條宗道は当時の病で役務も勤めるのが難しく、筋の通らない幼稚な者たちを養子に命じることは難しく、その方に嗣がせることになりました。
大條宗道を安堵させ、養生させれば病も良くなるだろうという(仙台藩による)御懇意がありました。

(Wikipediaより)
慶安4年(1651年)生まれの兄 大條宗道(大條家第十一世)が当時41歳であったことから、
「年齢もほとんど違わない」と記された弟の大條宗透は、この時30代後半から40歳前後の最も成熟した時期であったと推測されます。
『伊達治家記録』に「養子の事を辞退する気持ちもあるだろう」と記されているように、28年間も宮内家の当主として生きてきた大條宗透にとって、ほぼ同齢の兄の「養子」として呼び戻される事態には、戸惑いや困惑もあったはずです。
しかし、太刀や馬代、反物十端という恭しい進物を携え、28年ぶりに大條本家へ足を踏み入れ大條宗透の目の前にいたのは、日光普請の激務で倒れ、後継者不在に窮する実の兄 大條宗道(大條家第十一世)の姿でした。
「筋の通らない幼稚な者たちを養子に命じることは難しく」という藩主からの言葉の通り、大條本家の家格(伊達家分流)を保つためには、血統だけでなく「即戦力としての能力」が不可欠でした。
戸惑いを飲み込み、40歳前後の実務家として、そして何より「父 大條宗快(大條家第十世)の血を引く実弟」として、大條本家の重責を肩代わりする覚悟を決めた瞬間が、この「養子の御礼」の儀式だったと言えます。
武家社会における養子縁組は、単なる家族の引っ越しではなく、「家の存続と領地・家格の継承」をかけた極めて政治的な取り決めでありました。
大條宗透(宮内透清)のように28年もの長きにわたり他家で育てられ、すでに当主として定着している人物を生家へ呼び戻すことは、当時の武家の慣例からして「異例中の異例」でありました。
本来であれば、大條本家側が自身の分家や他家から養子を迎えるのが筋であり、28年間大切に育てて藩の重役(国番頭)にまで育て上げた宮内家にとっても、自慢の当主を手放すことは自家にとって計り知れない損失であったからです。
それにもかかわらずこの復帰が実現した最大の理由は、第一に藩主である伊達綱村による強固なお墨付きと主導があったからにほかなりません。
これに加えて、大條本家が「伊達家の血を分けた特別な名門」であって妥協が許されなかったこと、そして何より宮内家の並々ならぬ理解と献身があったからこそ成し得た奇跡でありました。
3. 持病による職務断念
大條本家に復帰した大條宗透は、元禄6年(1693年)3月3日に「御国番頭」に就任します。
同年3月24日には陽徳院殿の月忌供養の名代を務めるなど、病床にある兄 大條宗道(大條家第十一世)に代わり、文字通り「大條本家の新たな顔」として公式の場に立ちました。
長男 大條宗経の廃嫡から約30年、弟の手によって「大條本家の当主」としての勤めが果たされた瞬間でした。
しかし、この平穏はわずか1年余りで破られます。元禄7年(1694年)6月1日、大條宗透は病気のため御国番頭の辞職を申し出、役目を解かれることとなります。
この辞職について、従来は単なる「病気による辞任」とのみ語られてきましたが、大條家に残された願書(案)の記述から、その切実な舞台裏が明らかになります。
拙者痔病などのため先年より医師数人之療治相請、御用御免成下されたく候
私儀、以前より持病の痔などを患い、何人もの医師の手当てを受けてまいりましたが、(回復せず公務の継続が難しいため)どうかお役目を御免(辞任)させてくださいますようお願い申し上げます。
史料によれば、大條宗透は「先年より」何人もの医師の手当てを受けながら、必死に職務を全うしようと戦っていたことが分かります。
帰参時点ですでに『伊達治家記録』に「辞退の心もあるだろう」と記されていた背景には、あるいはこの帰参前から長年悩まされていた持病の存在があったのかもしれません。
いずれにせよ、症状は好転せず、ついに「これ以上は御用を勤め上げられない」と限界を認め、神文とともに断腸の思いでお役免を乞うたのが真相でした。
現代の感覚からすると、「痔」という病名にどこか軽微な印象を受けるかもしれません。
しかし、医療技術や鎮痛剤のなかった江戸時代において、武士の「痔」は、時に命に関わるほどの激痛と全身症状を伴う重病でした。
特に、長時間の座り仕事や乗馬、重い装束を着用しての長時間の式典参列を日常としていた武士にとって、慢性化・重症化した痔病は激痛によって歩行や登城すら困難にする致命的な障害でした。
出血や感染症(痔瘻など)による体力消耗・高熱も深刻であり、幾人もの名医にかかりながら回復しなかったという事実は、大條宗透の病状が職務どころか日常の起起すらままならないほど深刻であったことを示しています。
兄 大條宗経が7年間の療養の末に受け入れたように、弟 大條宗透もまた、医師を頼り限界まで抗った末に「未完の辞任」という苦渋の決断を下したのです。
元禄5年(1692年)10月の帰参が「家督相続」ではなく、まず「養子への就任」にとどまった背景には、手続き上の順序に加え、大條宗透自身もまた「先年より」持病を抱えていたという事情があったとも考えられます。
元禄6年(1693年)3月に大條宗透が御国番頭に就任し、兄 大條宗道(大條家第十一世)の奉行職が免ぜられたことは、大條本家の正式な家督相続へ向けた最終段階でした。
もし大條宗透が健康体であったなら、大條家第十二世として当主の座に就いていたはずです。
しかし、正式な継承を目の前にして持病が悪化したことは、大條本家にとっても大條宗透自身にとっても、痛痛しい「未完」であったと言えます。
この大條宗透の速やかな辞任には、「完成された政治家としての美学」が見え隠れします。
大條宗透は、若くして本家を追われた苦労人ではなく、宮内家で「国番頭」や「申次」という重職を何年も歴任してきた、百戦錬磨のプロの実務家でした。
政務の最前線で修羅場をくぐってきたからこそ、「公務を果たせない当主や跡取りが存在することが、どれほど家に致命的な害を及ぼすか」を誰よりも深く理解していたはずです。
病床の兄 大條宗道(大條家第十一世)を支え、本家を救うために戻った自分が、かえって大條本家を揺るがす危機となっては本末転倒であると――
だからこそ大條宗透は、幾人もの名医にかかり限界まで抗いながらも、職務遂行が不可能と悟った瞬間、養子(跡取り)の座に見苦しく執着することなく、1年8ヶ月という短い在籍期間で自ら潔く身を引いたのではないでしょうか。
それこそが、重臣としての矜持を持って生きてきた大條宗透の「美学」であり、大條本家に対する誠義だったと言えます。
4. 直系絶滅の危機と兄・大條宗道の執念
しかし、この大條宗透の悲痛な離脱は、大條本家にとって単なる「後継者の再不在」にとどまらない最大の危機をもたらしました。
なぜなら、大條宗透が退くということは、「大條宗快(大條家第十世)の直系血統が大條本家から絶滅するかもしれない」ということを意味していたからです。
のちに兄 大條宗道(大條家第十一世)が見せる執念の背景には、まさにこの「大條宗透の辞任」という絶望がありました。
他家や分家から養子を迎えて家名を存続させるだけであれば、大條宗道(大條家第十一世)はのちに迎える分家筋の19歳 大條頼泰に素直に家督を譲れば済む話でした。
しかし、大條宗道はそうしませんでした。
元禄13年(1700年)、50歳を迎えていた大條宗道に奇跡的に待望の実子 大條道頼(大條家第十二世)が誕生した際、分家の大條頼泰をあくまで「大條道頼(大條家第十二世)が成人するまでの名代(代理)」として据え、成人後には297石を分地して引き下がらせるという、異例の「名代システム」を編み出します。
「何が何でも大條宗快―大條宗道―大條道頼という『直系の血脈』に本家を継がせる」という大條宗道(大條家第十一世)の鬼気迫る執念。
その引き金を引いたのは、他ならぬ「直系最後の砦であった弟 大條宗透の病魔による離脱」だったのです。
5. 大條三兄弟の絆が繋いだ奇跡のバトン
長男 大條宗経、二男 大條宗道(大條家第十一世)、そして三男 大條宗透。
大條本家の歴史において、成人した男子の三兄弟が揃って「大條」の姓を背負い、本家の存亡に関わり続けた事例は極めて稀です。
長男 大條宗経は、病に倒れながらも7年間本家の重みを背負い、静かに二男 大條宗道(大條家第十一世)へバトンを渡しました。
三男 大條宗透は、母方・宮内家の期待と犠牲を背負って「大條」の姓を取り戻して復帰し、倒れた兄 大條宗道(大條家第十一世)を支えるための「切り札」として本家の顔となりました。
史実の記述において、大條宗透の大條家での足跡は「帰参と辞職」というわずかな記録に過ぎないかもしれません。
しかし、幾人もの医師にかかりながら病と戦い、美学をもって本家を支えた大條宗透の「未完の1年8ヶ月」があったからこそ、大條本家は崩壊を免れ、のちの大條道頼(大條家第十二世)への奇跡のバトンへと繋がることができたのです。
公式な当主としてその名を留めることは叶わなかったものの、大條宗透はまさに大條家の歴史の礎となった「もう一人の未完の跡取り」でありました。
この幻の当主が示した静かな覚悟は、明治まで途切れることのない大條本家の誇りとして、後世へと確かに受け継がれていったのです。
◼️参考資料
野本禎司『仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-』2022年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
平重道『伊達治家記録』1973年
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年
