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大條道洽/伊達宗茂(大條家第十六世)

復姓後:伊達宗茂
幼名:順之助
通称:長門、河内
生誕:文化5年(1808年)
死没:明治28年(1895年)10月11日
諡名:慈照院殿寿山慎徳大居士
養父:大條道直(大條家第十五世)
父母:大條道英(大條家第十四世)、榮(伊達村好の娘)
兄弟:大條道直(大條家第十五世)、女(布施定郷夫人)、木村信近(木村直行養子)、女(小島敬三郎夫人)、伊藤三郎(伊藤権十郎養子)、女(佐藤好治郎夫人)、男子(捨之助)、女(保土原頼母夫人)
妻:みち(西大條兵庫の娘)
子供:大條道徳 / 伊達宗亮(大條家第十七世)


1. 家督継承と黒船来航の足音

文化5年(1808年)、大條道英(大條家第十四世)の三男として誕生した大條道洽(幼名:順之進)は、庶子として他家への養子に迎え入れられるのが通例とされる立場にありました。
しかし、兄である大條道直(大條家第十五世)に実子がなかったため、天保6年(1835年)12月、大條道洽を後継者とする願いが正式に藩および幕府へ提出されることとなります。
この願いは無事に認められ、大條道洽は兄の養子として大條家の跡継ぎに決まりました。
天保14年(1843年)、兄であり養父でもある大條道直が病気を理由に引退すると、大條道洽は36歳で大條家第十六世を継承いたしました。
家督相続後の最初の重要な任務として、仙台藩主の伊達慶邦の帰国御礼の使者として江戸へ登り、第十二代将軍である徳川家慶に謁見を果たしたのです。

徳川家慶像
(徳川記念財団蔵)

その後、大條道洽は大番頭を皮切りに、鷹御申次兼役や評定奉行、さらには若年寄といった藩の要職を立て続けに歴任していきました。
しかし、家督を継いで以降の大條道洽が直面した世相は、これまでの大條家当主たちが対峙してきた時代とは大きく異なる激変の渦中にありました。

嘉永6年(1853年)、マシュー ペリー提督率いるアメリカ艦隊の黒船来航が日本中に巨大な衝撃を与え、開国か攘夷かを巡る議論が天下で沸騰することとなったのです。

嘉永6年(1853年)の黒船来航は、アメリカ東インド艦隊司令長官であるマシュー・ペリーが、蒸気船を含む4隻の軍艦を率いて浦賀沖へと飛来した衝撃的な事件でありました。
マシュー・ペリーはアメリカ大統領の親書を手に日本の開国と通商を要求し、幕府は当初これを拒否したものの、艦隊の圧倒的な威圧に屈する形で久里浜にて国書を受け取ることとなったのです。
この事件を大きな契機として、長州藩などを中心に外国勢力を排除しようとする尊王攘夷運動が急速に活発化いたしました。その一方で、西洋の優れた技術や制度を積極的に取り入れようとする開国派も勢力を拡大させていきます。こうした国論の激しい対立は幕府の権威をいっそう失墜させ、幕末政治における最大の転換点となりました。結果として、この出来事が200年以上に及ぶ鎖国体制を打ち破り、明治維新へと至る激動の時代を切り開く決定的な一歩となったのです。

仙台藩は直接的な関与こそなかったものの、幕府の揺らぎと国家の変革の波が徐々に押し寄せ始めていました。

2. 奉行職就任と幕末の動乱を静観する姿勢

大條道洽は安政2年(1855年)に奉行職へと就任いたしますが、安政年間に入ると世の中の混乱はさらに深まりを見せることとなります。
「安政江戸地震」(1855年)や大津波などの自然災害が幕府の財政を直撃し、安政5年(1858年)には大老である井伊直弼による「安政の大獄」が開始されました。

安政の大獄(1858年〜1859年)
江戸幕府の大老であった井伊直弼が反対勢力を容赦なく弾圧した歴史的な事件であります。
幕府が朝廷の許可(勅許)を得ないまま日米修好通商条約を締結したことや、十四代将軍の跡継ぎを巡る将軍継嗣問題を背景として、一橋派の大名や尊王攘夷派の志士たちが幕府への批判を強めておりました。
これに対して井伊直弼は、吉田松陰や橋本左内らを処刑したほか、極めて多数の関係者を処分することとなったのです。この苛烈な弾圧は幕府の権威維持を狙ったものでありましたが、かえって尊王攘夷派の反発を招き、幕末の動乱をいっそう激化させる結果をもたらすこととなりました。

さらに、安政7年(1860年)には「桜田門外の変」が勃発し、大老である井伊直弼が暗殺されるという前代未聞の事件が天下を大きく震撼させることとなりました。

桜田門外の変(1860年)
江戸幕府の大老であった井伊直弼が、水戸藩などの脱藩浪士たちによって暗殺された事件であります。安政の大獄による過酷な弾圧に憤慨した尊王攘夷派の志士たちが、江戸城の桜田門外にて登城途中であった井伊直弼を襲撃し、殺害するに至りました。この事件は幕府の絶対的な権威を大きく失墜させ、その後の倒幕運動へと直接的につながる重大な契機となったのです。

井伊直弼像
(豪徳寺蔵)

このような激動の波を背景として社会全体が大きな変革期を迎えておりましたが、大條道洽は表立った派手な動向を見せることなく、静かに職務を全うする姿勢を貫きました。
この穏和で堅実な人柄は、剛直で卓越した行動力が際立っていた兄の大條道直とは大きく異なるものでありました。

3. 「息子に未来を託す」早めの隠居

そして、安政5年(1858年)、大條道洽は息子である大條道徳(のちの大條家第十七世)を名代奉公として藩事に登用させ、自らの立場から一歩引く形で後進へ道を譲り始めました。
その後、元治元年(1864年)には隠居を願い出て正式に認められることとなります。
この年は全国的にも激甚な変化が続いた年でありました。「池田屋事件」を発端として京都が大きな騒乱状態に陥る中、西日本では「長州征討」が開始され、天下はいよいよ局地的な戦乱の時代へと突入する様相を呈していたのです。

池田屋事件(1864年)は、新選組が京都・三条の旅籠「池田屋」で尊王攘夷派の志士を襲撃した事件です。背景には、長州藩を中心とする尊攘派が京都奪還を計画していたことがあり、新選組がこれを未然に防ぎました。この事件で桂小五郎(後の木戸孝允)ら主要メンバーが逃れたものの、多くの志士が討たれ、尊攘派は大打撃を受けました。結果、長州藩は武力による反発を強め、翌年の「禁門の変」へとつながり、幕末の政局はさらに緊迫していくことになります。新選組の名を一躍高めた事件でもありました。

長州征討(1864-1866年)は、幕府が尊王攘夷派の中心・長州藩を討伐した軍事行動です。第一次(1864年)は禁門の変を理由に出兵し、長州藩が三家老の切腹などで恭順したため戦闘なく終結。第二次(1866年)では、薩長同盟を結んだ長州藩が近代兵器で反撃し、幕府軍は敗北。将軍・徳川家茂の病死も重なり、幕府の威信は決定的に失墜しました。この敗北が倒幕運動を加速させ、明治維新へつながる転機となりました。

大條道洽自身は、こうした時代の激変を足元の課題として直接背負い続けるよりも、後継者である息子の生大條道徳に未来を託し、自らは静かに退く道を選んだと言えます。

ただし、その選択の背景には、当時の全国情勢を客観的に見極める確かな視点を持ち、時勢に無理に抗うことなく、変化を柔軟に受け入れながら大條家を次世代へ繋ぐという冷徹なまでの判断力がありました。
この決断こそ、激動の幕末において無用な軋轢を避けつつも、仙台藩を支える重臣としての責任を完遂しようとした、大條道洽ならではの深い信念であったと考えられます。

最終的に、大條道洽がすべてを託した後継者である大條道徳(大條家第十七世)は、後に「仙台藩を救った人物」として歴史に刻まれる数多くの大きな実績を残すこととなります。
大條道洽の「静かに未来を託す」という決断は、まさしくこの偉大な成果をもたらすための強固な基盤を築く、極めて重要な布石であったと言えるでしょう。

4. 「伊達宗茂」への復姓と88年の天寿

隠居後の大條道洽は、明治5年(1872年)の本姓復帰令により「伊達宗茂」と名を改め、変わりゆく新しい時代の中で穏やかな晩年を過ごすこととなりました。
そして明治28年(1895年)10月11日、88年という長きにわたる壮大な生涯を静かに閉じました。
激動の幕末において無理に抗うことなく、静かに未来へと種を蒔き続けた伊達宗茂(大條道洽)の決断は、見事に大條家の血統と気概を次の世へと紡ぎ出し、その果実が実る明治の世を見届けた上での、実に満ち足りた人生の終幕であったと言えるでしょう。


◼️参考資料
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年

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