見出し画像

大條家の娘たちと嫁ぎ先【上】

古くからの歴史の記述において表舞台に記録されるのは、いつの時代も家督を継いだ当主や、戦場で活躍した男性たちが中心となりがちでした。
しかし、大條家の歴史は、決して男性たちだけで紡がれたものではありません。

当時の武家社会という厳しい規範のもとで、他家との強固なネットワークを築き、大條の血脈を広げるために極めて重要な役割を果たしたのが、大條家の娘たちでした。
その足跡を単なる「陰の存在」として見過ごすのではなく、家と家を固く結びつけた歴史の主役として捉え直すことは、一族の真の姿を理解する上で不可欠です。
大條家から他家へと嫁いでいった娘たちに光を当て、その結びつきから一族の軌跡を俯瞰してみます。


1. 大條宗家の長女 × 梁川宗清/伊達鉄斎

大條宗家(大條家第六世)
長女:梁川宗清/伊達鉄斎の妻
長男:大條宗直(大條家第七世)
二男:大條実頼(着座大條家第一世)

第一世から第五世まで、史料上に娘の記録が残されていない大條家において、歴史上初めてその存在が記された「大條家最初の娘」です。
生誕年は不詳ながら、後に戦国末期の激動期を乗り越える大條宗直大條実頼の姉として誕生しました。

梁川宗清(伊達鉄斎)
伊達稙宗(伊達家第十四世)の八男として生まれ、天文の乱の最中に梁川城主となりました。
伊達政宗(伊達家第十七世)の大叔父にあたり、伊達政宗の代には米沢城留守居などの重任を務めています。天正12年(1584年)に隠居して「鉄斎」と号しました。

このように、史料に初めて登場する大條家の娘が、伊達稙宗(伊達家第十四世)の直子である梁川宗清のもとへ嫁いでいる事実は、当時の大條家が極めて重要な位置を占めていたことを示しています。

実際に、天文22年(1553年)の『晴宗公采地下賜録』において、大條宗家の所領である上長井荘小野川などの年貢を「梁川舘(梁川宗清)」へ納めるよう指示されている通り、両者の間には早くから緊密な実務的・経済的な結びつきが存在していました。

『晴宗公采地下賜録』
天文22年(1553年)、伊達晴宗(伊達家第十五世)が「天文の乱」による所領の混乱を収拾し、家中の再統制を図るために作成した所領再分配の公的記録です。

ここで、天文元年(1532年)生まれの梁川宗清に対し、大條家の娘との間に生まれた嫡男 白石宗直の誕生が天正5年(1577年)まで下る点については、一見すると不自然なほどの晩婚、あるいは初子の誕生の遅さに思われます。
しかし、この背景には「天文の乱」による伊達領内の大混乱と、梁川宗清が置かれた複雑な境遇があったと思われます。
乱の最中、わずか11歳(1543年)の若さで梁川城主となった梁川宗清は、父 伊達稙宗(伊達家第十四世)と兄 伊達晴宗(伊達家第十五世)の対立の狭間で、極めてデリケートな政治的立ち位置を強いられました。
乱の終息後、勝者となった伊達晴宗(伊達家第十五世)の新体制下において、家督相続や婚姻といった政治的な抑制や監視、あるいは冷遇期間があったとも推測できます。

伊達晴宗像
(仙台市博物館蔵)

『晴宗公采地下賜録』が編まれた天文22年(1553年)は、乱の戦後処理を経て、伊達晴宗の新政権下において梁川宗清の立場や大條家との実務的関係が改めて位置づけられた時期にあたります。
このような情勢が落ち着きを見せるなかで、あるいは大條宗家が本家との融和を仲介するなかで、「大條宗家の娘」が正室として梁川宗清に嫁いだため、この時期の婚姻になったと推測されます。

ちなみに、この「大條宗家の娘」を母として誕生した白石宗直(登米伊達家初代当主)は、のちに伊達政宗の覇業を陰白両面で支え、関ヶ原の戦いや大坂の陣で数々の軍功を挙げた名将です。
伊達政宗の密命による「岩崎一揆」の責任を引き受けて転封となった登米の地を、新田開発等で大いに発展させ、のちに「伊達」姓を許されて仙台藩一門の重鎮となりました。

乱の混迷を乗り越えて結ばれたこの婚姻は、大條家が伊達氏の中枢と直接的な血縁を結ぶべき特別な存在であったことを示しており、そこで育まれた血統が、のちに仙台藩の屋台骨を支える大名跡「登米伊達氏」へと受け継がれていく契機となった点において、歴史的にも極めて象徴的な事例と言えます。

登米伊達家(仙台藩一門)
登米伊達家は、白石宗直を祖とし、登米郡に入部した仙台藩一門です。慶長20年/元和元年(1615年)、伊達姓を許され正式に一門に列し、藩政の中枢を担いました。居城は寺池要害(登米要害)で、北上川の水運を抑える要衝として、軍事・行政の拠点となりました。
登米家は、江戸詰めや国元役職を歴任する一方、地元では新田開発や寺社保護に尽力しました。

2. 大條実頼の長女 × 黒木宗元

大條実頼(着座大條家第一世)
長男:大條元頼(着座大條家第二世)
二男:大窪元成(大窪家養子)
三男:大條頼廣(平士大條家第一世)
長女:黒木宗元の妻
二女:高屋宗伯の妻
四男:大條宗頼(大條家第九世)

大條実頼は、その優れた才覚と行動力によって大條家初の分家を興し、さらに3人の息子を通じて現在に至るすべての大條家末裔の祖となった人物であり、まさに大條家における「中興の祖」ともいえる絶対的な存在です。
こうした大條実頼の血統の広がりは男子にとどまらず、2人の娘の婚姻を通じても他家へと繋がっていきました。
そのうち長女は、仙台藩の家格「一家」に列する黒木家の黒木宗元のもとへ嫁いでいます。

黒木宗元(宗光)
通称:正三郎
慶長15年(1610年)に佐沼へと移り、元和元年(1615年)の大坂の陣にも従軍した人物です。

ちなみに『角田市史』では、「大條実頼の娘」の嫁ぎ先を黒木宗元の父である「黒木肥前(宗俊)」としていますが、『伊達族譜』や大條家に伝わる家系図では「黒木正三郎(宗元)」と記されています。
本稿では大條家の家系図の記載に準拠し、黒木正三郎(宗元)の妻として扱います。
なお、大條実頼と黒木肥前(宗俊)は同世代の人物であるという世代的な整合性を考慮しても、娘の輿入れ先としては、その息子である黒木宗元と考えるのが妥当であると言えます。

なお、大條宗綱(大條家第八世)が元和2年(1616年)に伊達政宗より拝領し、明治維新まで252年間にわたり居城とした坂元要害(蓑首城)ですが、実は大條家が入る前の時期に、黒木肥前(宗俊)もこの地を一時拝領していました。
もともと亘理氏の家臣によって築かれた蓑首城は、領地替えののちに後藤氏、黒木氏、津田氏などが相次いで居城した歴史を持っています。
大條本家が引き継ぐ直前の城主に婚姻関係のある黒木家の名がある点には、血縁のみならず土地の縁という面でも、両家の結びつきを感じさせます。

3. 大條実頼の二女 × 高屋宗伯

大條実頼(着座大條家第一世)
長男:大條元頼(着座大條家第二世)
二男:大窪元成(大窪家養子)
三男:大條頼廣(平士大條家第一世)
長女:黒木宗元の妻
二女:高屋宗伯の妻
四男:大條宗頼(大條家第九世)

大條実頼のもう一人の娘は、仙台藩医のなかで最高の格式を持つ高屋家の高屋宗伯のもとへ嫁ぎました。

高屋宗伯
通称:快庵
伊達政宗の侍医として厚く重用された人物。高屋家は、代々にわたって仙台藩医の最高位として重責を担い続けることになります

ここも高屋宗伯の夫人をめぐっては、豊臣秀頼の重臣である「木村重成の姉」とする記録もある一方で、こちらも『伊達族譜』や大條家に伝わる家系図には「大條実頼の二女」が嫁いだ旨が記されています。
しかし、のちに大條実頼のひ孫にあたる大條重頼が高屋家に師事している事実を鑑みれば、両家の間に繋がりが存在していたことは間違いありません。

おそらく、木村重成の姉のほかに、後妻や側室などの形で大條実頼の次女が嫁いでいた可能性が考えられます。
この時代は女性に関する公的な記録が曖昧なことも多く、こうした史料間の矛盾は多々見られますが、子孫の具体的な行動(師事)そのものが、大條家と高屋家の縁を今に証明しています。

4. 大條元頼の長女 × 笠原成康

大條元頼(着座大條家第二世)
長女:笠原成康の妻
長男:大條定頼(着座大條家第三世)
二女:比丘尼浄蓮
三女:佐瀬玄頼(佐瀬家養子)

おそらく大條実頼の初孫である人物が、「大條元頼の長女」です。
一族の未来を担う最初の孫娘として、祖父からも一際大きな慈しみを受けて育ったであろう彼女は、仙台藩の家格「着座」に列する笠原家の笠原成康のもとへ嫁ぎました。

笠原成康
通称:出雲
伊達家重臣である津田景康の三男として生まれ、元和9年(1623年)に笠原家を継ぎました。
寛永6年(1629年)には登米郡石森村を拝領し、のちに仙台藩の要職である「国番頭」などの要職を務めています。

実は、笠原成康の生家である津田景康もまた、かつて坂元要害(蓑首城)を拝領していた歴史を持っています。
前述の黒木宗俊の後に津田景康が坂元の地に入り、のちに佐沼城へと移ったことで、入れ替わるように大條宗(大條家第八世)が坂元へと入部し、明治維新まで続く拠点を築くことになりました。
坂元の歴代城主であった黒木家、そして直前の城主である津田家の血を引く笠原家へと、大條家の娘たちが相次いで嫁いでいる事実は、歴史の数奇な巡り合わせと、土地を通じて育まれた一族の深い縁を物語っています。

蓑首城大手町
案内板

5. 大條頼廣の長女 × 長沼信重

大條頼廣(平士大條家第一世)
長男:大條定頼(平士大條家第二世)
女:長沼信重の妻
二男:大條林頼

大條頼廣の長女」は仙台藩の家格「着座」に列する長沼家の長沼信重のもとへ嫁ぎました。

長沼信重
通称:善兵衛
藩主の小姓や江戸番、目付役、さらには武頭といった藩の中枢における要職を歴任しました。
家督は長男の長沼致貞が継いでいます。

長沼家は古くは会津の名門 蘆名家に仕えていましたが、長沼信重の祖父である長沼盛秀は、蘆名義広(蘆名家第二十世)が群臣に対して非礼であったことに憤り、蘆名家を去って伊達家に仕えたという経緯を持っています。

ここで興味深いのは、「大條頼廣の娘(長沼信重の妻)」から見て祖父にあたる大條実頼もまた、若き日に蘆名家中と深い関わりを持っていた点です。
もしかすると、かつて会津の地で培われた両家の旧縁や面識が、時を経てこの婚姻を後押ししたのかもしれません。
仙台藩における「着座」の家格は、藩政を動かす実務能力が厳しく求められるポジションです。
新興の平士大條家が、このように過去の絆を伏線としつつ、藩政の実権を握る名門と深く結びついていった事実は、分家が独自の歩みの中で確固たる地位と実務的ネットワークを築き上げていった軌跡を鮮やかに象徴しています。
なお、家督を継いだ長男の長沼致貞は、元禄5年(1692年)の日光廟御普請における勘定業務の際、病身の大條宗道(大條家第十一世)を江戸の座の間で支えながら、将軍家の吏人たちと直接対面して談合を重ねた人物その人です。
平士大條家から見れば、自らの血を引く長沼致貞が、大條本家の当主を直々に介助して将軍家との大役に臨んだことになります。

大條宗道(大條家第十一世)と長沼致貞がともに臨んだ日光廟御普請の詳細はこちらをご覧ください

こうして分家が藩内で独自の歩みを始め、一族の可能性を広げていく一方、その源流たる大條本家ではどのような縁が結ばれていたのでしょうか。
大條実頼の四男 大條宗頼から始まる、大條本家の婚姻の記録については、次回の【下】でご紹介します。


◼️参考資料
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
野本禎司『仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-』2022年
歴史図書社『仙台藩家臣録』1978年
角田市史編さん委員会『角田市史 1 通史編』1984年


いいなと思ったら応援しよう!