大條宗道(大條家第十一世)【下】
幾多の試練を乗り越え、波乱万丈でドラマチックな生涯を駆け抜けながら大條家の未来を切り開いた、大條宗道について記述いたします【後編】
1. 元禄の日光普修と御普請総奉行の重責
元禄元年(1688年)11月、幕府より藩主 伊達綱村に対し、日光東照宮(日光御廟)の修復にあたる「日光普請」の命が下されました。
仙台藩が元禄期に実施した日光東照宮の普請は、幕府の命によって行われた大規模な手伝い普請事業でした。
仙台藩が担当した主な修復内容は以下の通りです。
・陽明門の修復:日光東照宮の象徴である陽明門(国宝)の修復を担当しました。豪華絢爛な彫刻や彩色が施されたこの門の修復には、高度な技術と多大な費用を要し、屋根の葺き替えや彫刻・彩色の補修などを手掛けました。
・本殿や拝殿の修復:本殿や拝殿の屋根葺き替え、柱や壁の補修、漆塗りの修復などを行いました。特に漆塗りは仙台藩の職人たちが得意とする分野であり、その技術を遺憾なく発揮して荘厳な美しさを蘇らせました。
・石垣や参道の整備:境内の石垣の積み直しや参道の整備、階段の修復などを担当し、参拝者の通行や境内の安全性を確保しました。
・その他の建造物の修復:五重塔や神庫(宝物庫)、鐘楼といった老朽化が進んでいた諸建造物についても、仙台藩の職人たちが細部に至るまで丁寧な修復を行いました。
仙台藩はこの一大事業を遂行するにあたり、大條宗道と伊達安芸の2名を御普請総奉行に任命し、多くの藩士や職人を現地へ派遣しました。
このときの大條宗道の主な事績は以下の通りです。
元禄元年(1688年)11月29日、大條宗道は59人の供を率いて仙台を出発し、同年12月6日に江戸へ到着しました。
翌元禄2年(1689年)2月11日には本所の御小屋場(作業現場)へ移り、本格的な作業を開始します。さらに元禄3年(1690年)2月10日には大條宗道自身も日光へ赴いて現場で陣頭指揮を執り、御宮や御仏殿の大修理という難工事を進めました。
そして同年7月5日、無事に普請を完了させて江戸へ帰還を果たします。
この格別な成果に対し、将軍家からは時服4領と白銀50枚、さらに藩主 伊達綱村からは再び佩刀を賜りました。
この褒賞は、大條宗道がこの国家的大事業を見事に円滑遂行したことに対する高い評価の表れと言えます。

日光市公式観光WEBより
元禄の日光普請は、日光東照宮の創設以来初となる最大規模の修復事業であり、その後の維持管理における基礎を確立した歴史的事業でした。
仙台藩は莫大な費用と労力を投じたことで財政上に著しい負担を強いられましたが、この貢献は東照宮の荘厳さを現代へ伝える上で極めて重要な役割を果たしたと言えます。
そして、この大事業の総指揮を執った大條宗道は、幕府との折衝をはじめ資材調達や工事の進捗管理を一手に担い、プロジェクトの完遂に絶大な寄与を果たしたのでした。
2. 実弟 大條宗透の異例な帰参と家督継承
しかし、この日光普請における心身の過労が響いたためか、大條宗道の体調は次第に悪化の一途を辿り始めます。
嫡男に恵まれなかった大條宗道は、家督を託すべき後継者を決定せねばならず、ついに元禄5年(1692年)、弟 大條宗透を養子に迎える決断を下します。
ただし、そこには大きな障壁が立ちはだかっていました。
当時、弟の大條宗透はすでに宮内家へ養子入りしており、「宮内秀清」としてその家督を継承していたのです。
大條宗道はかねてより内々でこの件を打診していましたが、本多伊賀を通じて仙台藩へ正式な申し入れを行いました。
幸いにも宮内家側では、すでに新たな後継者として宮内権六郎の子・六之允を養子に迎えていたため、秀清の大條家への復帰を快く了承するに至ります。
こうして元禄5年(1692年)10月10日、宮内秀清は大條家へと帰参を果たして名を「大條宗透」と改め、大條宗道の養子として正式に家督を継ぐこととなったのです。
大條宗透
通称:権十郎、土佐
父母:大條宗快(大條家第十世)、宮内定清娘
養父:大條宗道
兄弟:大條宗経、大條宗道、女(中嶋刑部夫人)
妻:小梁川修理の娘
大條宗快の三男として生まれた大條宗透は、寛文4年(1664年)宮内家の養子となり宮内透清と名乗り、寛文8年(1668年)に家督相続。
当時は内膳や土佐と称される。寛文永13年(1673年)8月、国番頭、兼申次に就任。元禄5年(1692年)10月、28年ぶりに大條家へ帰参。
元禄5年(1692年)10月15日付の『伊達治家記録』には、次のような記述が残されています。
大條土佐透清太刀馬代板物十端献上、養子ノ御礼、 御意有りテ着座、其方宮内ノ家久仕組み相続し、 且大條監物ト歯年モ敢不違養子ノ事辞退ノ心モ有るヘシ然、大條ハ御家ノ分流品各別ナリ大條監物当時 当時ノ病ニテハ軍役モ勤難シ筋ナキ幼稚ノ者等ハ養子に命セラレセラレ難ク、其方二嗣シメラル、 大條監物を安堵養生セハ病モヨカルヘキ由御懇ノ御意アリ
大條土佐透清(宗透)が太刀、馬代、板物十端を献上し、養子の御礼を述べました。
その方は宮内の家督を相続し、かつ大條宗道とは年齢も違わず、養子のことを辞退する気持ちもあるでしょう。
しかし、大條家は伊達家の分流で、品も格別です。
大條宗道は当時の病で役務も勤めるのが難しく、筋の通らない幼稚な者たちを養子に命じることは難しく、その方に嗣がせることになりました。
大條宗道を安堵させ、養生させれば病も良くなるだろうという(仙台藩による)御懇意がありました。
大條宗道が年齢の近い弟をわざわざ宮内家から呼び戻してまで養子にした理由について、筆者自身も当初は疑問を抱いていました。
しかし、史料にある「筋の通らない幼少な者を養子に命じることは難しく」という藩主の言葉を見て、思わず納得がいきました。
これは消去法による選定などではなく、大條宗透こそが唯一無二の適任者だったからにほかなりません。
実際、大條宗透は宮内家において国番頭兼申次という重職を務めており、行政手腕や実績は折り紙付きでした。
さらに、「大條宗道(監物)を安心させて養生に専念させれば、病も良くなるだろう」という仙台藩からの温かい配慮が、この異例の家督相続を後押ししたのです。
この出来事は、武家社会の厳格な規律の中にあっても、仙台藩と重臣との間に確かな温情と深い信頼関係が存在していたことを物語っています。
大條宗透の実績と能力が正当に評価されたこと、そして大條宗道が残してきた多大な功績を藩が重んじたからこそ実現した特例と言えます。
歴史の行間には、時にこうした人間味あふれるドラマが隠されているものだと実感させられます。
大條宗透の帰参により宮内家には一時的な立ち合いが生じることとなりましたが、同家では宮内六兵衛の嫡男 宮内定清が大條宗透(宮内透清)の跡を継ぐ形で家督を継承しました。
その後も宮内家は、定清から直清、信清、春清、広清、盛清へと代々受け継がれ、仙台藩の重臣として確固たる地位を築きながら明治維新という大きな時代の転換期を迎えることとなったのです。
3. 病躯をおして臨んだ最後の勘定業務
元禄5年(1692年)11月23日、大條宗道は日光廟御普請における勘定(会計・決算)業務のため幕府より登城を命じられ、江戸へ向かうこととなりました。
重病を抱える大條宗道にとって、この任務はまさに人生最後にして最大の重責でした。
道中の身体的負担を案じた藩主 伊達綱村は、茶弁(道中の食事・手当)を賜うとともに藩医の原玄了を随行させるなど、破格の配慮と万全の体制を整えます。
さらに幕府側からも「杖を突いての登城でも構わない」との旨が伝えられるなど、病状を深く気遣う特例の措置が講じられました。
江戸へ到着した大條宗道は、石母田大膳および長沼致貞の両名に身体を支えられながら座の間へと進み、将軍家の役人たちと対面して日光廟修造の勘定業務に関する綿密な協議を重ねました。
長年病床にあった大條宗道が、厳寒の季節を押して江戸へと出向き、見事に大役を果たし遂げたその忠義と献身は、幕府・将軍家からも「特筆すべきものである」と惜しみない称賛が贈られたのです。

(徳川美術館蔵)
大元禄6年(1693年)1月3日に江戸を発ち、同月13日に仙台へ帰国を果たしました。
満身創痍の身体で仙台へと戻った大條宗道は、養子として迎えた大條宗透の存在に、ようやく安堵の息をついたことでしょう。
自らの命を賭して果たした重責から解放され、大條家の未来が確実に次代へ託されたことを実感した瞬間だったのではないでしょうか。
同年3月3日、大條宗透が御国番頭に任命されたことで次期当主としての地位は決定的なものとなり、同時に大條宗道が務めてきた奉行職の役目も解かれることとなります。
こうして大條宗道は真の意味で重責から解放され、心安らかな養生の日々を迎えることとなったのです。
大條宗透は元禄6年(1693年)3月24日、陽徳院殿の月忌供養において名代を務めたことが記録に残されており、早くも大條家の「新たな顔」として本格的に活動を始めている様子が窺えます。
4. 50歳での待望の実子誕生と名代の設置
しかし、その安寧は長くは続きませんでした。
翌年の元禄7年(1694年)6月1日、大條宗透が病のため御国番頭の辞職を願い出て、役目を解かれることとなります。
これにより、大條家は再び家督継承の危機に直面することとなりました。
自身の病と後継者難という二重の苦難は、家名を守り抜こうとする大條宗道にとって更なる試練となったのです。
しかし、大條宗道に一縷の希望が光ります。
それから6年後の元禄13年(1700年)3月21日、待望の嫡男である大條道頼(幼名 多門)が誕生したのです。
側室(大條家の女中)との間に授かった子でした。
当時、大條宗道はすでに50歳に達しており、長年にわたる家督問題を乗り越え、ついに血脈を継ぐ実子を得た瞬間でした。
この誕生は大條家にとって大きな転機となりました。
長年の苦難の末に後継者を授かったことで、大條宗道の心中には大きな安堵と希望が広がったことでしょう。
ただし、それは同時に幼い後継者をいかに守り育てるかという新たな重圧でもありました。
そこで元禄15年(1702年)8月29日、大條宗道は分家の大條頼常の子である大條頼泰を庶養子(後見・仮名代)として迎え、大條道頼が成長するまでの間、家務を代行させるとともに、将来大條道頼が成長して家督を継いだ後は分地を与えて別家を立てさせる旨を藩へ願い出ました。
同年9月7日、この願いは無事に聞き届けられ、当時19歳の大條頼泰が晴れて養子として迎えられることとなったのです。
大條頼泰
通称:酉之助、権左衛門
父母:大條頼常、横尾長三郎の娘
養父:大條宗道
兄弟:大條頼清
妻:佐藤孫三郎の娘、富沢庄之助の姉
子供:大條頼純(真庭大條家第二世)
分家大條頼常の子として生まれ、19歳で大條宗道の庶養子となり大條本家の名代を務める。大條道頼が16歳の時に名代を退き、取り決めの通り297石を分地され別家を立てた。
大條頼常 (大條頼泰の父)
通称:理右衛門
父母:大條林頼、佐瀬源兵衛の娘
兄弟:佐瀬頼恭、里見義任
妻:横尾長三郎の娘
子供:女、大條頼泰(大條宗道庶養子)、大條頼清、松木道垣
寛文11年(1671年)、大條宗快の物書となり、延宝4年(1676年)8月に奥祐筆に転じた。貞享3年(1686年)には150石を与えられ、元禄元年(1688年)正月に200石へ加増。さらに元禄3年(1690年)8月、「近習兼用取次」として400石となった。
しかし、元禄7年(1694年)、不慎不行儀により100石を没収され、役職を解かれ屋敷も没収された(代わりに日野三内の屋敷を与えられた)その後は知行割奉行、さらに勘定奉行に就いた。文人として歌を詠む一面もあった。
5. 55年の生涯と大條家の未来への遺言
宝永2年(1705年)10月7日、大條宗道は自身の没後における幼い大條道頼への家督相続について藩からの許しを得ました。
それと同時に、大條道頼が成長するまでは大條頼泰を引き続き名代として立てて奉公させ、成長の暁には297石を分地して別家を立てさせるという緻密な遺言を書き残します。
そして、そのわずか11日後となる宝永2年(1705年)10月18日、紅葉が山々を鮮やかに染め上げる晩秋の静けさの中、大條宗道は55年の生涯を閉じました。
波瀾万丈の人生を全力で駆け抜け、命が潰える間際まで家名存続への執念を燃やし続けた大條宗道は、ついに大條家の未来を確固たるものとして切り拓いて見せたのです。
そのドラマチックなフィナーレは、まさに激動に満ちたその生涯を凝縮したものでした。
この大條宗道の軌跡は、大條家の歴史に燦然と輝く偉大な一頁として、今なお受け継がれています。
◼️参考資料
野本禎司『仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-』2022年
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
伊達宗行『翠雨山房夜話(上)』 1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
平重道 『伊達治家記録』1973年
