大條宗道(大條家第十一世)【上】
幼名:千吉
通称:権左衛門、主計、三郎左衛門、監物
生誕:慶安4年(1651年)5月26日
死没:宝永2年(1705年)10月18日
諡名:大光院殿智岩普照居士
父母:大條宗快(大條家第十世)、宮内定清の娘
兄弟:大條宗経(病身により廃嫡)、大條宗透、女(中嶋刑部夫人)
妻:石田常員の娘
子供:大條頼泰(養子)、女(三沢村為夫人)、大條道頼(大條家第十二世)
幾多の試練を乗り越え、波乱万丈でドラマチックな生涯を駆け抜けながら大條家の未来を切り開いた、大條宗道について記述いたします【前編】
1. 庶子としての生誕と分家への養子入り
慶安4年(1651年)5月26日の午後8時頃、大條宗快の二男(第二子)として大條宗道が誕生いたしました。
幼名は「千吉」と名付けられ、出生の年月日のみならず正確な刻限まで記録が遺されている人物は、
大條家の歴史において大條宗道が初めての例となります。
この時代は祖父 大條宗頼が当主を務めており、仙台藩の江戸留守居役として幕府との外交や藩政の中枢で頭角を現し始めた頃でありました。
大條宗道は当初、大條宗直と名乗っていました。
この「宗直」という諱は大條家第七世と同名であります。
当時は武家の命名において名の候補が限られており、先祖と同じ名前を襲名・使用することは決して珍しくありませんでしたが、大條家にとっても特別な意味や意図が込められていた可能性が窺えます。
大條宗道(宗直)には兄である大條宗経がいたため、当初は家督を継ぐ立場ではない庶男として育ちました。
そして寛文9年(1669年)、分家にあたる大條茂頼の養子となり、分家として領地を分与されることとなったのです。
大條茂頼(着座大條家第五世)
通称 : 九之助、権左衛門、大炊左衛門、藤左衛門
生誕 : 寛永8年(1631年)
死没 : 延宝2年(1674年)4月7日
徒小姓頭から、寛文元年(1661年)に大番頭へ就任
大條宗直(宗道)を養子に迎え入れた時は37歳でした
大條宗直(宗道)は18歳で養子に入ってから、養父 大條茂頼を継承する形で権左衛門という通称を名乗ります。
「分家へ養子に入った」と簡潔に記載しましたが、祖父の大條宗頼が家督相続した以降、大條本家と分家の交流を示す記録は残されておらず、同じ大條家でありながら分断されていたのではないかとどこか心残りを抱いておりました。
それだけに、このような本家と分家の交流を知ることができたのは、非常に心躍る出来事です。
ちなみに、大條宗直(宗道)の兄である大條宗経は掃部と称され将来を嘱望されていましたが、
『伊達家知家記録』に、寛文4年(1664年)3月13日、「大條掃部宗経、登城、休暇を命じられる」と記されており、この頃から体調を崩していたと推測されます。
2. 本家帰参と石田家からの婚礼
養子に入ってから2年後の寛文11年(1671年)6月14日、大條宗直(宗道)は本家への帰参を命じられました。
「大條監物宗快家督に、二男、権左衛門宗直を命ぜらる」
恐らくこの前後に、兄の大條宗経が廃嫡となり、
大條宗道が本家の嫡子となったと考えられます。
なお、帰参後は「主計」や「三郎左衛門」といった通称を用いるようになります。
ちなみに大條宗道は、歴代当主と比べて通称の変遷が多いことが大きな特徴です。
それまでの大條家では、生涯にわたって1つの通称を名乗り続けるのが一般的でした。
曽祖父の大條実頼は例外的に「越前」「薩摩」と2つ名乗っていますが、祖父の大條宗頼は「兵庫」、父の大條宗快は「監物」と、現役中は一貫して1つの通称を用いています。
そのため、大條宗道が「権左衛門」から「主計」「三郎左衛門」「監物」へと改名を重ねている点は非常に興味深い変化です
(なお「権左衛門」は、養父の通称をそのまま継承したものです)。
ちなみに、大條宗道との養子縁組を解消することとなった着座大條家の大條茂頼は、延宝元年(1673年)、仙台藩の家格「一族」である佐藤易信の次男を養子に迎えました。この人物が大條易頼であり、着座大條家第六世の家督を継ぐことになります。
延宝2年(1674年)11月26日、大條宗直(宗道)は石田常員の娘を正室に迎え、婚礼の宴を執り行いました。
仙台で催されたこの婚礼には、準備から儀式に至るまで大條家の家臣たちが深く関わっていました。
宗道公御祝言之事
一監物宗道公主計様ト奉申時分
石田孫市様御息女様延宝三年霜月廿六日
於仙台御婚礼被相調候、御乗物請取向井彦右衛門、
御貝桶請取砂金甚左衛門・後藤大隅殿於御屋敷請取、
依之向井彦右衛門ニ御太刀御馬代金壱切被下之、
御乗物受取申候節御乗物之脇ニて遣申候、
石田孫市様御家来板橋次郎右衛門、
御太刀目録遣申候御祝言之節
惣差引向井彦右衛門、砂金甚左衛門ニ被仰付候事、
御祝言之晩亀川弥左衛門、清野杢助、向井彦右衛門、
砂金甚左衛門、谷津九郎右衛門
ニ主計様・奥様ゟ御樽代百疋宛被下置候御事
野本禎司『仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-』2022年
大條宗道と石田孫市の娘との婚礼が、延宝3年11月26日に仙台で執り行われました。
婚礼に際して、乗物(婚礼用の輿)は向井彦右衛門が受け取りました。
貝桶(婚礼の儀式で使われる道具)は砂金甚左衛門と後藤大隅が受け取りました。
向井彦右衛門には、婚礼の際に太刀と馬代金(馬の代わりに贈られる金銭)が贈られました。
石田孫市の家来である板橋次郎右衛門は、太刀の目録を提出しました。
婚礼の際、向井彦右衛門と砂金甚左衛門は、惣差(短刀)を携える役目を任されました。
婚礼の夜、亀川弥左衛門、清野杢助、向井彦右衛門、砂金甚左衛門、谷津九郎右衛門の5人には、大條宗道と奥方から樽代(酒樽の代わりに贈られる金銭)として、それぞれ100疋(ひき)が贈られました。
この記録から、婚礼の準備や進行は、あくまで身内である家臣たちが中心となって進められていたことが分かります。
特に、亀川・清野・砂金・谷津といった大條家譜代の家臣名が具体的に見られることから、
彼らが大條宗道の婚礼という重要な行事に深く関与していた様子が窺えます。
3. 「宗道」への改名と前田正観音堂の伝承
その後、延宝4年(1676年)1月19日、大條宗直は藩主 伊達綱村から「宗道」の名を賜り、これ以降は大條宗道と名乗ることになります。
延宝5年(1677年)2月、大條宗道は小姓を務めたのち、祠堂祭役に就任しました。
祠堂祭役は藩内の紛争などを調停する重要な職務であり、彼はこの役目を通して、この時代を揺るがすある有名な事件に関わっていくことになります。
栄存法印は豊臣秀吉の家臣 片桐且元の孫にあたり、諸国を放浪して修業を重ねたのち、陸奥国牧山(現在の宮城県石巻市)にある長禅寺の住職となりました。
彼は地域復興に尽力し、笹町但馬元清の支援を得て荒廃していた長禅寺を再興させます。
しかし、笹町元清の死後に息子の笹町重頼が跡を継ぐと、状況は一変します。
言い伝えによると、笹町重頼は栄存法印の名声を妬み、陥れようと執拗な嫌がらせを繰り返したとされています。
さらには栄存法印と姪であるお栄との不適切な関係という密告(一説には捏造)により、延宝7年(1679年)、栄存法印は江島(現在の宮城県女川町)へ流罪に処されてしまいました。
栄存法印は無実を訴え続けましたが、無念のまま島で病に倒れます。
死の間際、彼は「遺体は逆さに埋葬せよ」と遺言を残しました。
しかし島民がそれに従わなかったため、村には海難や病といった凶事が相次ぐことになります。慌てた島民が遺言通りに遺体を逆さに埋め直すと、ようやく凶事は収まりました。
その後、栄存法印の怨霊が笹町重頼の屋敷に現れ、逆さに吊られた凄惨な姿で彼を苦しめ続けたといいます。この怪異によって笹町重頼は命を落とし、笹町家も絶えたと伝えられています。
実は、笹町重頼は大條宗頼の二男(大條宗道の叔父)であり、大條家から笹町家へ養子に入った人物でした。
そして、この争いの裁定に関わった仙台藩の祠堂祭役こそが、大條宗道であったと伝えられています。このような複雑な背景や縁から、信仰心あつい坂元(大條家の領地)の領民は栄存法印の霊を慰めるため、遠く離れた坂元の地に前田正観音堂を建立しました。

(宮城県亘理郡山元町坂元永作)
延宝8年(1680年)1月28日には申次役(取り次ぎ役)に命じられ、江戸滞在の命を受けます。
これ以降、大條宗道の職務はますます多岐にわたり、幕府への年始使者や申次当番を務めるほか、
季節ごとの各種行事にも尽力していくこととなりました。
4. 本家相続と江戸での活躍
天和2年(1682年)、父である大條宗快が隠居したことを受け、大條宗道が大條家の第十一世当主として家督を継ぎました。
同年8月27日には大番頭と申次の兼務を命じられ、この時期には幕府の命による火消役(大名火消)として、江戸で警備や消火の役目を担っていたようです。
当時、人口が密集する江戸では火事が頻発しており、幕府は各大名に防火・消火活動を義務付けていました(大名火消)
特に外様大名である仙台藩もその重責を担っており、藩の重臣である大條宗道が江戸の特定区域における防火・消火の指揮に当たりました。
具体的には、出火の際に迅速に現場へ駆けつけて指揮を執るほか、平時においても火の元の監視や防火対策の強化に尽力しました。
この火消役は幕府から課せられた公的な役目であり、同時に外様大名の重臣として相応の力量と信頼を求められる重要な任務でもありました。
大條宗道はこの任を誠実に全うすることで職務上の実務経験を深め、藩の威信を示す機会としたのです。
大條宗道の活躍はその後も続きます。
天和4年(1684年)、自身の通称を「監物」と改めました。
これは父 大條宗快が用いていた通称を継承したものです。
さらに同年(貞享元年に改元)11月21日には、
分家である大條直頼(平士大條家第三世)の弟 大條次頼に20石を分与し、別家を立てさせました。
大條直頼(平士大條家第三世)
通称 : 次郎左衛門
生誕 : 寛永8年(1631年)
死没 : 延宝7年(1679年)
国元番馬上役
大條次頼 (大條直頼の弟)
通称 : 源内
死没 : 元禄3年(1690年)10月7日
大條宗道から20石を分与され別家を立てる。
大條源内次頼の死後は、大條頼成(大條直頼の二男)が家督を継ぐが、後に出奔し断家。
5. 若年寄就任と父 大條宗快の逝去
貞享3年(1686年)閏3月15日、大條宗道は若年寄に任命されます。
この若年寄という役職は、奉行を補佐し、藩政の中枢を担う要職でした。
しかし同年9月1日、父 大條宗快が65歳でこの世を去ります。
寛文事件(伊達騒動)の混乱から藩の立て直しに奔走し、大條家の家名を守り抜いた大條宗快は、仙台藩にとって欠かせない不動の柱石でした。
その偉大な足跡は、大條家の命運を揺るぎないものとする確かな礎となったのです。
「大条監物宗快入道幽松病死ニ依テ、後藤孫兵衛使者トシテ香典白銀十枚ヲ賜う」
藩主から使者を通じて下賜された香典の「白銀十枚」は、当時の家臣に対する待遇としては極めて手厚い異例の破格値でした。
これは、寛文事件という藩の存亡の危機において、藩政の再建に命懸けで尽力した大條宗快の功績に対し、伊達家がいかに絶大な信頼と深い感謝を寄せていたかを物語る象徴的な出来事と言えます。
庶子として生まれ育ってきた大條宗道は、幾多の試練を乗り越え、大條家当主として真っ直ぐに突き進んできました。
しかし、これまでの歩みはまだ序章に過ぎません。
父の死を乗り越えながら、大條宗道はどのようにして大條家の未来を切り開いていくのか。続きは次回に記述いたします。
◼️参考資料
野本禎司『仙台藩大條家文書 -家・知行地・職務-』2022年
伊達宗行『翠雨山房夜話(上)』1988年
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
野本禎司『仙台藩奉行大條家文書―家・知行地・職務―』2022年
金田豊子『大條家文書』2022年
平重道『伊達治家記録』1973年
山元町教育委員会『山元町 ふるさと地名考』1994年
東京帝国大学『大日本古文書 家わけ 三ノ四 伊達家文書之』1909年
角田市史編さん委員会編『角田市史』1984年
