見出し画像

大條道徳/伊達宗亮(大條家第十七世)【中】

前編はこちら

仙台藩を護り、城下を救った不撓不屈の義──大條家最後の"領主" 大條道徳について記述します【中編】


1. 「宮城丸」での船出と荒波を越えての京入り

明治元年(1868年)2月11日、大條道徳の一行は寒風沢港(現在の宮城県塩竈市)から蒸気船である宮城丸に乗船いたしました。
この乗船に際しては、大槻磐渓をはじめとする仙台の多くの文人たちが現地へ駆けつけ、盛大な送別の宴を催してその旅立ちを見送ったと伝えられております。

宮城丸略図
(山元町歴史民俗資料館蔵)

「宮城丸」は明治元年(1868年)1月5日に仙台藩が購入したアメリカ製の蒸気船で、同年1月12日に宮城丸と命名されました。

出航当日は猛吹雪に見舞われることとなり、途中の鹿島灘においては船体が激しく傾いて転覆寸前となる極めて危機的な状況に陥りました。
しかし一行は何とかこの難を乗り越え、2月15日の夜に品川湾へ無事到着いたします。
その後、船体の修理と必要な補給を迅速に終えると、同月19日の22時には神戸港へ入港を果たしました。
神戸へ上陸した一行は、翌日の早朝から抜刀・抜槍した厳重な警戒体制を敷く中、
案内役である手塚正左衛門らに導かれながら京都へ向けて急行し、無事に京都の仙台藩邸へたどり着いたのです。

鳥羽伏見の戦いが終結した直後の京都は、勝利した新政府軍と敗残した旧幕府勢力との鋭い対立が続いており、市中の治安はまさに極限まで悪化しておりました。
新政府は主要な街道や関所に薩摩藩や長州藩の兵士を厳重に配置し、夜間の不審な通行を一切禁止するなど徹底した戒厳態勢をしいておりました。
特に朝廷の存在する京都御所の周辺や、交通の要所である三条や木屋町の付近におきましては、殺気立った武装兵による巡回が昼夜を問わず頻繁に行われていたことが複数の史料からも裏付けられております。 
さらに市中では、どさくさに紛れた浪士や過激派による襲撃事件や暗殺の記録も色濃く残されており、大名家から派遣された使者であっても一歩間違えれば命を落としかねない、極めて物騒な警戒を強いられていたのです。

しかしながら、頼みとする但木土佐や坂本大炊らは既に京都を離れて仙台へ帰国しており、
さらに先遣隊として京都へ派遣されていた三好監物は、大條道徳が持参した建白書を見るなり「もはや建白書を提出するような機会は完全に失われた」と語り、一刻も早く仙台へ帰国することを強く勧告してきたのです。
まさにこの時点で、新政府が派遣した征討大総督ならびに奥州鎮撫総督の軍勢は、仙台藩を含む東北の地へ向けて既に進軍を開始した直後であったのです。

征討大総督である有栖川宮熾仁親王は、新政府軍における最高司令官として、東日本全域に及ぶ旧幕府勢力の制圧を直接指揮いたしました。
朝廷から錦旗と節刀を授かり、西郷隆盛や板垣退助らを自らの配下に収め、江戸城の無血開城に向けた熾烈な軍事圧力を展開していったのです。
一方、奥羽鎮撫総督は東北諸藩の統制ならびに会津藩や庄内藩の討伐を担当しておりました。
当初は澤為量が任命されておりましたが、3月2日からは九条道孝が着任することとなります。
この総督府において、参謀である世良修蔵や大山綱良といった強硬派の面々が主導した過酷な会津征討命令は、東北諸藩からの激しい反発を招くこととなり、のちに奥羽越列藩同盟が結成される決定的な引き金となったのです。

2. 朝廷建白書の断念と世子の奉迎

その後、大條道徳は内々に宇和島藩の前藩主である伊達宗城へ相談を持ちかけることとなりました。
しかしながら、中央の目まぐるしい政局に精通していた伊達宗城からも、「建白書を提出すべき時期はすでに逸している」という極めて厳しい見解が示され、仙台藩が置かれた状況の深刻さが改めて浮き彫りとなったのです。

伊達宗城

伊達宗城(1818年〜1892年)は、宇和島藩の第八代藩主であり、幕末の四賢侯の一人に数えられる名君であります。
富国強兵と殖産興業を強力に推進し、高野長英や村田蔵六(後の大村益次郎)といった優れた人材を招聘して先進的な軍制改革を行いました。
幕末においては公武合体派の立場から一橋慶喜の擁立に尽力したものの、大老である井伊直弼による安政の大獄によって隠居を余儀なくされることとなります。
明治維新の後は新政府の議定や外国事務総督などの要職を歴任し、日清修好条規の締結にも中心的役割を果たしました。 
なお、宇和島伊達家は1884年に伯爵となりましたが、1891年には伊達宗城の残した多大な功績が認められ、侯爵へと陞爵を果たすこととなったのです。

その結果、同月26日には建白書の提出を断念することとなり、2月29日に仙台へ向けて帰国する三好監物に対して、大條道徳は「建白書の提出は君命による重大な任務ではあるものの、時期を誤ればかえって藩に不利益を招くこととなる。貴殿は一旦仙台へ帰国して現地の情勢を正確に報告されたい。自分は京都に残り、藩からの返答を待つこととする」と伝え、今後の対応を三好監物からの報告に委ねることとしたのです。

大條道徳らが持参した建白書において提示されていた主な論点および主張は、以下の通りでありました。
・鳥羽伏見の戦いにおける先制攻撃の真偽
鳥羽伏見の戦いにおいて、開城のきっかけとなった発砲は薩摩藩や長州藩の側からなされたのか、あるいは旧幕府の側からなされたのかという事実関係の検証。
・徳川慶喜における朝廷への帰順意思の有無
大政奉還を果たした後の徳川慶喜に対して、果たして朝廷に反逆を企てる謀反の意思が本当にあるのかどうかという問い直し。
・内戦の決定と明治天皇の御心との整合性
王政復古に過度の期待を寄せている万民に対して多大な苦しみを与える内戦の決断が、真に幼い明治天皇の深い御心によるものなのかどうかという疑問の提示。
・徳川慶喜に対する長州藩と同等の寛大な処置の要請
すでに恭順謹慎の態度を示している徳川慶喜に対し、かつての長州藩処分と同様に寛大な処置を与えるべきではないかという申し立て。
・内乱に乗じた外国干渉と国辱への強い懸念
不必要な内乱の勃発に乗じて海外の列強諸国(外夷)からの干渉を招き、結果として世界に対して決定的な国辱を晒す事態に陥らないかという警鐘。

山元町歴史民俗資料館
『大條孫三郎道徳と伊達宗亮  幕末を生きた仙台藩士の生涯』2009年

大條道徳は、次なる重大な使命であった世子奉迎のため宇和島藩の伊達家と直接接触を重ね、伊達宗敦を京都長者町にある仙台藩邸に無事迎えるなど、滞りなく様々な手続きを完了させることとなったのです。

伊達宗敦

伊達宗敦(1853年〜1911年)は、伊予宇和島藩の前藩主である伊達宗城の次男(五男とも伝えられます)として生まれ、慶応4年(1868年)に仙台藩主である伊達慶邦の養子となりました。
当初は婿養子として仙台藩を継ぐ予定でありましたが、仙台藩が奥羽越列藩同盟に加わって敗戦したため、官位剥奪や懲罰的な処分を受けるなど、極めて苦難の時期を過ごすこととなりました。
明治維新の後は謹慎を解かれ、仙台藩における実質的な政務を担うとともに、廃藩置県の後にはイギリスへ留学を果たしました。
帰国後は華族に列せられ、1888年には分家を立てて男爵を授爵したほか、1890年からは貴族院議員を務めることとなったのです。
仙台伊達家の本家当主には至りませんでしたが、明治時代における伊達一族を力強く支えた重要な人物であります。

なお、この時期における大條道徳は、仙台藩主から授かった公式な使命とは別に、関白である近衛忠熙や近衛忠房の父子、ならびに後に官軍の主力となっていく肥後藩の米田虎之助といった新政府側の要人と独自に接触を図っておりました。

これはおそらく、激化する戊辰戦争の行く末を冷静に見通し、すでに敗戦後の戦後処理までも見据えた極秘の布石であったと考えられます。

仙台藩の内部において、いち早く新政府側とのパイプ構築を模索した点に、大條道徳の極めて現実的な政治感覚が表れていたと言えるでしょう。
大條道徳はこのように京都において仙台藩からの返答を待ち続けましたが、藩からの連絡はついに届くことがなく、同月4月6日、伊達宗敦を伴い、145名もの随行を引き連れて京都を出発することとなったのです。

後年、大條道徳はこの当時の状況を語っています。
「徳川征討のため、まもなく大総督宮(有栖川宮熾仁親王)が進軍され、西郷隆盛が軍事参謀長として同行することになった。また仙台には、九条道孝殿下や醍醐忠敬少将、沢為量三位が鎮撫使として派遣され、参謀には品川弥二郎や黒田良助が就任。さらに後から大山格之助や世良修蔵が加わる予定で、すぐに出発すると決まった。こうして天下の情勢は大きく固まり、もはや鳥羽・伏見の戦いの際の『誰が最初に発砲したか』といった議論をする段階は過ぎ去った。今では戦争について語る者さえいないほどだ。仙台は確かに都から遠いが、ここまで時勢に乗り遅れてしまうとは、本当に嘆かわしいことだ。もしあの時、藩主の伊達慶邦公が上京していれば、朝廷の意図を正しく理解し、他の藩の動向も把握できただろう。そうすれば、官軍に逆らって『朝敵』の汚名を着せられることもなかったはずなのに…と思うと、今でも悔しくて歯がゆくてならない。」

3. 戦乱の木曽路越えと宇都宮の危機

こうして京都を発った大條道徳の一行でありましたが、当時は激化する戦乱の影響により東海道が通行不能となっていたため、やむなく木曽路を経由し、例幣使街道を経て宇都宮へ向かおうとしておりました。
しかしながら、天明宿に宿泊していた夜、突如として宇都宮城が落城したという急報が飛び込んでくることとなります。
一行の周囲には敗残兵が徘徊し、遠くから大砲の轟音が響き渡る中、先発隊が乱戦に巻き込まれて行方不明となるなど、極めて危険な危機的状況に陥ることとなったのです。

残された道は、敗走する兵士たちが徘徊する危険な裏道(大田原方面)のみとなっておりました。さらに、日光には旧幕府の閣老が潜伏しており、宇和島伊達家から迎えた伊達宗敦を連れ去り奪取しようと狙っているという不穏な噂まで流れておりました。

そのような混乱の最中、夜半に監察役である中村権十郎が敵情視察のため偵察に向かおうとした際、突如として江戸から駆けつけてきた佐久間良之進が「品川湾において仙台藩の迎え船である宮城丸が待機しております」という起死回生の報告をもたらします。
もはや討ち死にを覚悟していた大條道徳は、この思いがけない知らせに安堵の息をつくこととなったのでした。

4. 品川湾からの決死の脱出と仙台への帰還

激しい雨が降りしきる闇の中、一行は提灯のわずかな明かりだけを頼りとして決死の夜間移動を敢行し、新宿を経由して命からがら品川へとたどり着きました。
しかしながら、無事に品川湾へ到着したものの、145名というあまりの多人数を一隻の宮城丸だけに収容しきることは物理的に不可能な状態でありました。
船に乗って仙台へ生還できる者と、陸路に取り残される者との間で感情が激しく対立し、残留を余儀なくされた者たちの間では凄絶な議論が沸騰することとなります。
戦火が迫る江戸の地に取り残される恐怖と絶望から現場の混乱は極限状態に達し、ついには指揮官である大條道徳を刺殺して道連れにしようと刃を向ける者まで現れるなど、
まさに一触即発の刃沙汰に至るほど緊迫した状況であったと伝えられています。

5. 主戦派による幽閉と絶体絶命の危機

無事に仙台への帰国を果たしたのは5月3日(旧暦)のことでした。
このように命懸けで帰還を果たした大條道徳でありましたが、仙台藩内における事態は思わぬ方向へと暗転していくこととなります。
当時、伊達慶邦は自ら会津討伐軍を率いて白石や会津方面へ進軍中であり、藩の主導権を握っていた主戦派から「建白書の提出という君命を果たせなかった」という罪目を着せられ、大條道徳は即座に幽閉の処分を下されてしまいます。
こうして、仙台藩の命運を想い死線を潜り抜けてきた大條道徳は、自宅において無念のうちに死を待つしかない絶望的な状況へと追い込まれてしまったのです。
しかしながら、幽閉の身となった大條道徳でありましたが、その後の戊辰戦争の激化とともに戦火が仙台城下へ刻一刻と迫る中、やがて仙台藩を救うための命を懸けた最後の奔走を始めることとなります。
その劇的な復活と決死の行動につきましては、次回詳しくご紹介いたします。


◼️参考資料
伊達忠敏『大條流伊達家記録』1988年
本田勇『仙台伊達氏家臣団事典』2003年
山元町誌編集委員会『山元町誌 第2巻』1986年
山元町歴史民俗資料館『大條孫三郎道徳と伊達宗亮  幕末を生きた仙台藩士の生涯』2009年
伊達宗行『翠雨山房夜話(上)』 1988年


いいなと思ったら応援しよう!