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神楽坂、スカートは紅し[1-3]【#創作大賞2025 #恋愛小説部門】


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3 傷を泡ごと、流したい

「こちらで寝ていただいて大丈夫ですよ」

 店の奥、Privateと書かれている扉を航大が開けて、プライベートゾーンにお邪魔する。今通されたのは、畳の部屋。航大はエアコンのリモコンを操作し、押し入れからテキパキと客用布団を用意しながら、茉侑へ説明する。

「僕はごはんを店で済ませちゃうことが多いのでキッチンが小さいんですが、夜中になにか飲みたくなったら自由に使って下さい」との説明通り、キッチンはこぢんまりとしている。  
 二人用のダイニングテーブルに、洒落た食器棚。あちこちに航大の感性が滲んでいて──ああ、きっとこの人は、日々をきちんと暮らしているんだ、と思う。
 カフェのファブリックも目の前の航大がセレクトしたものだろう、センスの良さに感心した。

「バスタオルもこちらに置いておきますので、お風呂もご自由に。足りないものがあれば勝手口の鍵も渡すので、買い出しも大丈夫ですよ」
「え、荻野さんはお風呂入らないんですか?」
「僕、朝稽古してからシャワー浴びるんで、夜は使わないんです」

 朝稽古、という単語が気になったが、茉侑は説明をしっかり聞く。

「僕とおかきは二階にいます。何かあれば呼んでください。では……と言いたいところなのですが」
「なんでしょう?」
「いえ……何でもありません。おかき、受け取ります」

 航大がにこにこと笑う中、茉侑は俯いたままおかきを抱きしめていた。
 しばらくして、そっと彼に返す。
 おかきは茉侑を見つめ「きゅう」と軽く鳴いた。

「おやすみなさい」
「……おやすみなさい」

 トントンと階段を上る音が聞こえる。気が張っていたのだろう、茉侑はその音に少々安心した。ようやく一人になれた、と思った瞬間、疲れがどっと身体に押し寄せる。
 早めにお風呂を済ませた方がいいかもしれない、と、スーツケースを開けた。

 ほぼモノトーンか、デニム。工場勤務だと、インナーの上から制服という名の作業着を着るので、服はほとんど買い足さなかった。
 以前は妙齢の女性としておしゃれが好きで、いろんな色の洋服を持っていたが、元恋人の家を出ていく時に処分してしまっている。
 何か一着でも明るい色の服を買った方がいいのだろうか。いや、死んでしまう人間が荷物を増やしても仕方がない。

 この病気になってから、一度も未来に期待したことはない。
 所詮一人で消えていくのだ、誰にも迷惑をかけず死に場所を探して、そっと永遠の眠りにつくことができたら、それでいい。
 正直、航大の誘いに乗ったのも投げやりな気持ち半分だ。
 何が起きても『私が選んだこと』だから、そう思っていた。

 ──なぜ私は、そんな風に考えているのに、一向に死ねないのだろうか。

 とにもかくにも、死ねない間は生きるしかない。生きているのならば、清潔でありたい。
 茉侑はコスメポーチを開け、旅の常備品を取り出す。洗顔料やクレンジング、シャンプーとコンディショナー、ボディソープ、そしてヘアクリップ。
 バスタオルと寝間着を抱えて、静かに風呂場へ向かった。
 
 茉侑の日々の生活で一番嫌いな時間がやってきた。
 風呂場は小さな湯船とシャワーがあるだけの、シンプルで清潔な空間だった。
 早速シャワーから湯を出し、髪の毛を洗う。

 茉侑の髪の毛は三年間で随分伸び──美容院に行くのが面倒で、適当に伸ばしては自分で髪を切っていたが──水分を含んで重たくなる時が煩わしい。
 ボサボサのままは、どうしても許せない。
 湯で髪を濡らし、泡立てたシャンプーを指の腹でしっかりともみこむ。
 ──頭皮から、自分が「生きている」ことを確かめるように。

 コンディショナーを手櫛で全体になじませ、少し時間を置く間にクレンジングと洗顔を済ませる。
 髪の毛をすすぎ、ヘアクリップで留め、ボディソープを手で泡立て、撫でるように泡を全身にまとわせる。今日は暑くて汗をかいていたので、ミントのボディソープはスッとして気持ちがいい。

 シャワーで泡が流れ、隠れていた肌が現れる。その瞬間、自分の傷と向き合う。
 私はこの傷を愛せない──茉侑は無意識に白い傷跡の上から爪を立てる。
 白い肌に白い傷、そして赤い爪痕はなぜか美しいコントラストに見えた。
 
 脱衣所に置いていたノンワイヤーのブラジャーとショーツを身に着ける。寝間着は白のTシャツに黒のハーフパンツ、そしてグレーの薄手パーカー。どれも、色味のないものばかり。

 両親が見たら「あなた二十九にもなって、華がない」「女はもっと品のいいものを身に着けろ」と言うだろう。両親とはもう六年くらい顔を合わせていない。
 元恋人のモラハラがひどくても、実家に戻れなかった理由は、両親と仲が悪かったからだ。病気への理解もろくにせず、会社を辞めた茉侑を責めたのも両親だった。

 洗面所にあったオフホワイトのドライヤーを手に取り、茉侑は鏡に映る「お父さん、お母さんにそっくりね」と言われる自分の顔を思い切り睨みつけ、しばらく目を逸らさなかった。
 それでも、映るのは、誰かのコピーのような顔だけだった。

 思ったよりもドライヤーは静かだったが、頭の中から聞こえる声はうるさくて煩わしい。自分の中に抑えている「心の鬼」とやらが暴れている。
 両親の声、元カレの怒鳴り声や嫌味。思い出したくないのに、脳に、耳に、神経にまで刻まれて離れない。忘れられたら楽なのに。

 人間はよく「時間が解決してくれるよ」と言うが、時間そのものは何も解決はしてくれない。時間という「ツール」を使って、自分でどうにかするしかないのだ──そんなことを考えていたら、あっという間に髪は乾いていた。

「相原さん?」

 唐突に自分の名前を呼ばれて、茉侑は心臓が口から飛び出るのではというくらい驚いた。
 ドアの向こうに、男性がいる。航大だと分かっていても、心拍数が上がる。「鬼」が暴れた直後なだけに、余計に動揺した。

「は、はい」

 かなり小さい声でドアの向こうに話しかける。

「先ほど、『おやすみなさい』と言ってしまいましたが……もし、よろしければ……アイスティーとかお好きですか?」
「はい、好きですが……」
「飲みながらですけど、今から面接をしたいのですが」
「め、面接!?」

 突拍子もなく「面接」というワードが航大の口から出てきたので、茉侑は身構えた。やっぱり物事はそう簡単にうまくいくわけない、と風呂から出たばかりなのに汗が流れていくような気がした。

 すると、ドアの向こうからクスクスと笑い声が聞こえてきたので、茉侑はいぶかしんだ。

「一晩だけ泊まるにしても、素性をしらない男と一緒に一つ屋根の下は不安でしょうし、面接とは形式だけで、僕のバックグラウンドのお話をするだけです」

 その言葉を聞いて、茉侑は恐る恐る引き戸を少し開けた。
 開けた瞬間、にゅっ! とおかきが茉侑の胸の高さから顔を出してきた。

「おかきもいますし、安心してください。変な下心とか、そういうのは本当にありませんから」

 声だけの航大と、茉侑をじっと見つめるおかき。
 急におかしくなり、茉侑がクスクスと笑うと「相原さん?」と不思議そうな航大の声が聞こえてきた。
 茉侑は扉をスッと開けた。

「わかりました。面接、お願いします」


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